アリサとあるてぃま
「よーし、とってこい。あるてぃま!」
羽咲アリサは、フライングディスクをバックハンドで投げた。
愛犬のあるてぃまは喜々として砂地を疾走する。放たれたディスクは逆風を切り裂いて浮き上がり、ぐぐっと右にカーブする。あるてぃまはディスクの行方があらかじめ分かっていたかのように地面すれすれでばくっと咥え、見事にキャッチした。
「ナイスキャッチ、あるてぃま!」
フライングディスクを咥えて戻ってきたパピヨンの子犬は、ふさふさの尻尾をちぎれんばかりに左右に振り、「すごいでしょ。褒めて、褒めて」とアピールしている。
パピヨンは、フランス語で「蝶」という意味である。
犬種名のとおり、蝶が羽を広げたような大きな耳と飾り毛、絹糸のように美しい毛並みで、フランスの王妃マリー・アントワネットが溺愛していたことでも有名だ。
しかし、その優雅で可憐な姿からは想像もつかないぐらいに運動神経が良い。
フライングディスク――いわゆるフリスビーを投げようものなら、果敢に疾走し、地面に落ちる前に飛びついてキャッチする、なんて芸当は朝飯前だ。
右にカーブしようと、左にカーブしようと、地面すれすれに投げようと、あるてぃまは平然とキャッチする。今すぐにだってフライングディスク競技の日本代表になれるぐらいの逸材だ。
「すごいね、あるてぃま。すごい、すごい!」
姉のエリサの大学進学、アリサの中学入学祝いに犬を飼う約束をしていたが、犬種は決めておらず、パピヨンを飼うとは決めていなかった。しかし、ペットショップで一目惚れした。
右の瞳は青みがかっていて、左の瞳は深緑色。左右の目の色が違うオッドアイはそれだけで神秘的で、アーモンド形のつぶらな瞳をじかに見た瞬間、一発でノックアウトされた。
被毛は白地にブラウンで、生後三ヶ月ちょっとだというやんちゃな男の子。体重は三キロもなく、それはよくできたぬいぐるみのように小さくて、完璧に愛らしい姿をしていた。
鎌倉女子学院大学付属中等部――通称鎌女中等部では、毎日「修養日誌」を書いている。
日誌の内容は人それぞれだけど、基本は今日一日にあったことを書く。
その日の嬉しかったこと、辛かったこと、努力したこと、将来の夢などを書き、クラス担任に読んでもらったり、クラスの皆と共有したりする。
しかし、アリサの日誌の内容はいつでもあるてぃまのことばかりで、友人の入谷つばめには「あんた、自分ちの犬にベタ惚れしすぎ。彼氏かよっ」と呆れられている。
ときどきお姉ちゃんのことも書いているが、割合で言えば紙面の九割方はあるてぃまで埋まっているので、「うん、あるてぃま大好き」と言い添えて反論らしい反論はしなかった。
そんなこんなで中学二年生に進級するまでずっと犬のことばかり書いていたら、クラス担任の石田先生からやんわりと釘を刺された。「犬が可愛いのはたいへんよく伝わりました。次は、学校のことも書きましょう」だって。
アリサはあるてぃまが咥えたディスクを受け取ると、よしよしと頭を撫でた。
休日のたびに由比ガ浜海岸まで出かけては朝焼けの赤い海を見て、眠気を誘うさざ波の音を聞きながら、フライングディスクのスローの練習をしている。
でも、その特訓のことは日誌には書かない。新しい夢のことも、潰えてしまったお姉ちゃんの夢のことも書かない。口にすれば笑われるだけの野望は、まだ胸に秘めるだけでいい。
学校のことを書くのは、中等部にアルティメット部を創設してからと決めている。
キャッチの天才を相手にスローを繰り返すうち、だいたい思った場所にディスクを放れるようになってきた。カーブさせる方向、角度、速さ、滞空時間、すべて意のままにコントロールできるようになるにはもっともっと練習が必要だけど、コツはだんだん掴めてきた。
「ローマは一日にして成らず。それっ、とってこい、あるてぃま!」
アリサは、忍者が手裏剣を放つような腰だめの姿勢で構えた。エンドゾーンへと走り込む姉の姿をイメージしながら、バックハンドスローでディスクを投げる。
いつかは姉妹で日本一になれたらいいな、なんて思いながら、空飛ぶ円盤を追いかけていくあるてぃまの後姿を目で追い続けた。絶妙な飛び出しを見せた砂だらけの蝶は「楽勝っ!」とばかりにディスクを咥えて戻ってきた。
「ねえ、褒めて、褒めて」と言いたげに尻尾がぴこぴこと左右に揺れていた。