レッツゴー、地獄の一丁目‼
× トルストイ → ○ ドストエフスキー でした。
時代の迷い子たちよ、希望を捨ててはいけない。
確かに今の世の中は総じてクソだ。クソを三日間くらいじっくりコトコト煮込んで作ったクソのシチューだ。
生きていることに充実感を見出す事は難しかろうと思う。いや実際に難しい。
だが、そんなクソまみれのクソ黄金時代だからこそ希望を捨ててはいけない。
やる気クソMAXで何事にもクソチャンレンジすればきっとクソ素晴らしい結果に辿り着くはず。
だから捨てるな、お前らの青雲の志を。曇天晴れていつかクソ美しいクソったれな未来が…待ってんーよ!
さあ夢見る時間は終わった。
この先は中世暗黒時代も裸足で逃げ出すふじわらしのぶ様の悪魔毒々スィーツな時間が始まるぜ。
引き返すなら今のうちだ。金玉無しのチンカス野郎なんざこっちからお断りだからな。
だけどなあ…ポイントといいねと感想は忘れるなよ。
ふじわらしのぶ様のこれからの創作意欲とかに関わってくれるからな。
へへっ、お前らだって俺様の面白い話を四みたいよな?
(静寂)
読みたいよな⁉読みたいって言ってくれよおおおおお…‼
(大号泣)
というわけで悲しみを乗り越えたところで今回の話になるわけだが…今回は罪と罰について話す。
おっとドストエフスキーのアレとは別物だぜ?
ロシア文学ってのは基本宗教観念ってのが背後にあるからな。
多分理解するにはカントとかストア(ストイシズム、ストイックの語源だったと思う)とか、そういうのをウィキで読んでから読むといい。
わかんねえもんはわかんねえけどな。
まず罪についてだ。
ここで言う罪とは人をぶっ殺したとか盗みをやったとか自分の中の至高の存在をふじわらしのぶ様にせってしなかったとかそういう話じゃねえ。所謂”罪悪感”だ。
罪の意識ってところかな?人間と言う生き物は常に背理から監視を受けていて、意に叶わない事を知ると背理によって精神を圧迫される…らしい。
脳みその腐った阿保どもは”犯罪者には罪悪感がない”なんてぬかすじゃアレは全くの嘘だ。
犯罪者ほど自身の罪の意識に敏感な生き物はいないだろう。連中のアルコールや薬物の過剰摂取ってのを考えれば何となくわかるだろ?人間は基本、善性に従って生きているから罪の意識から逃げたいんだ。
この悪党なんて呼ばれたいレアな性癖を持っている野郎なんて滅多にいないもんだぜ?
むしろやばいのは罪の意識を感じる事が出来ない阿保は、精神の水面下で徐々に善性の負荷に侵食されているわけだから必ず破滅が待っているわけだ。
ゆえによりよく生きるつもりなら善人でも悪人でも常に罪の意識を感じながら生きた方がいいぜ?
悩み過ぎてハゲになるかもしれねえが、ある日突然後ろからザックリ刺されるよりはマシだろ。
罪の意識を感じるってのは、頭下げろとか、わかれとかそういうゲスい命令をしているわけじゃない。
あくまで保身の話だ。次に罰の話だ。ここまで来るとある程度は想像がつくかもしれないが罪の対価として自分から何かを背負う必要があると俺は思う。
それが罰だ。
まあ人によっては白々しいって言われるかもしれないが、こういう縛りもまた罪の意識から逃れる手段の一つだと考えればいいだろう。
例えば無償の奉仕とか、神社行くとか、お寺行くとかな。人に迷惑をかけて後味の悪い想いをするよりはそっちの方がいくらか気が楽になるんじゃねえか。
迷惑をかけた本人に謝るってのもアリだけど、まずその準備として自分に罰を課す方が少しだけ気が楽になるような気がする。
それで一番、最悪なのは罪と罰の意識を持たずに野放図に生きる事だと思う。
多分、素行も悪くなって酒浸りの日々を送ることになるだろう。お前を責めているのは他ならぬお前だって話さ。