1.忘れた名前
「――碧妃様、お目覚めですか?」
天井には蓮の華を模した木造りの扇が回り、風を送ってくる。寝台は天上の四隅からつるされた白い紗の天幕に囲まれていた。
声をかけてきたのは若い女性だった。
「なに……わたし」
ひどい、痛みだった。痛みに暴れ、叫び続けた喉は枯れている。半身を起そうとしてめまいに目を閉じた。
「碧妃様、無理をなさらず」
「――陛下に使いを。お目覚めをお知らせしなくては」
言葉はかろうじて耳に入ってくる、けれど何のことを言っているのかわからなかった。覚えているのは、かなりの痛みに叫んだこと、そしてひどく汗をかいたこと。
けれど、汗をかいたあとのべたつき感はないから、丁寧に身体を拭われたらしい。
「碧妃様、お水をお飲みになられますか?」
「――それ」
何を、言っているのか。
それは、誰。彼らが声をかけているのは自分だとわかるのに。
「それ、だれ? わたしじゃない……」
微かな記憶に残るのは、痛み、それを宥める人達。
今と同じ名前でよばれていた。
めまいをこらえて頭をあげる。目を向けたら、見知らぬ女達がいた。長い裾、首元まで締めた襟、白の揃えた服はお仕着せに見える。というよりも軽やかでひらりと揺れる布は、どこかの貴人に仕える雅さも感じる。
(誰?)
なぜここに、自分はいるのか。
「あの、碧妃様」
「だから……」
囲む女性達も困惑している。自分も何かを言いかけて、何が言いたいのかわからなくなった。
「碧妃、目覚めたか!」
唐突に出入口から響いてきた声は喜色を帯びている。それは場を従わせる圧倒感に満ちていた。
顔をそちらに向ければ寝台を囲む紗を無遠慮にかきわけて男性が入ってくる。
薄布で覆われた逞しい上半身は日に焼けた赤銅色、生気に満ちた瞳は琥珀と蒼の色違い。肩まで梳いた黄金色の髪が勢いよく入って来た風でそよぐ。
その目が自分を見て驚き見開かれ、次に熱を帯び凝視し息を吐いた。
「なるほど。――確かに、神が遣わした娘だ」
その自分を見つめる目に怯えを感じた。
何の話かわからない。先ほどから、皆が自分を知っているように話しかけるのに、自分だけがわからない。
(頭の中が真っ白だ。靄の中に歩いているようで、ただ彼らを見返す)
怯えて体にかけられていた布を引き寄せて身をすくませると、彼は太い笑みをみせた。己に自信があって、それを他者を魅了すると確信している笑みだった。
「黄金の絹糸の髪、翠玉の瞳、白大理石の肌、美しい」
それが自分のことだとはわかったが、なぜ彼が納得しているのかも賞賛しているのかもわからない。
更に困惑してしまい目を逸らしたいが、彼が怖くてそれもできない。そして彼が寝台に当たり前のように腰をかけた時に、恐怖が胸にこみあげてきた。
ひくり、と喉が動いて、けれどそれも喉からでてこない。
「調子はどうだ」
そして自分の顎を持ち上げて、顔をのぞき込んできてようやく身体がうごいた。
知らない人に知らない名前で呼ばれる。当然のように身体を触れられるわけがわからない。
喉の奥から絞るように出てきた声は、掠れていて拒絶よりも怯えているようだった。
「っ、やめて」
跳ね除けようとした手は、軽く相手につかまれた。
「随分元気になったようだが、それでは怯える兎だな、せっかくの瞳の色が陰っている」
射抜く琥珀の目は猛獣、けれど楽し気だ。身体が逃げるように腰がひけるが、琥珀色の目が逃がさないと言っている。
「それに、私はそんな名じゃ……」
言いかけて、絶句する。
目が泳いで、最初は男を見た。それから囲んでくる女達も。皆が自分の不審な様子に眉をひそめている。
――誰も知らない。
それから、この場所も知らない。贅沢な調度品だとはわかる。どうやら主人らしい男は身分の高いものなのだろう。その男に熱を帯びた目で見られている、ならばその自分は誰。
頭の中の引き出しから何かを引き出そうとしても、掴むものがなにもない。
すべてが、真っ白だった。
「……っ」
恐怖で、喉の奥が鳴る。
(なに、なに、なに――、どうして?)
私は、どこで、何を、だれで?
――名前さえもでてこない。
あげかけた叫び声、驚愕の表情をみせたせいか、目の前の男が腕から力を抜く。
「わたし……ぅ」
こみ上げてきた吐き気に俯くと、女の一人が背中に手を当てる。誰かが盥を持ってくる。
それを払いのけ男の脇を抜けて、もどかし気に白い紗幕をかきわけて寝台を飛び出す。
鮮やかな青のぶどう紋様が描かれた陶磁器のタイルが埋め込まれた壁、何色もの玻璃硝子をはめたランプ、艶やかなサテンのクッション、嗅ぎなれないスパイシーで甘い香の匂い。
目の前に映る鏡には、怯えた顔の女性がいた。蜂蜜色の髪に、新緑色の瞳。それは見覚えがない。
「誰……このひと、だれっ」
今度こそ叫んだ。
名前も、どこで何をしていたのかもわからない。一歩下がり手を口で塞ぐと、鏡の前の女も同じ動作をした。自分と同じ動き、なのに、その目の前の女の姿に見覚えがない。
じゃあ、自分はどんな姿だったのか。
「……なに、なに、なんなの……」
「どうした、碧妃。ジャイフ、ジャイフを呼べっ」
男性が叫び声に一度驚き、そのあとは佇んで誰かの名を呼ぶ。そして自分の肩を抱いた。
「落ち着け、碧妃」
何もわからない。ただ“碧妃”、というのだけは違う。そんな風に呼ばれていたのじゃない。
「――私は、そんな名じゃありません!」
それに叫びかえすと、息が切れて膝から力がぬけた。
男の太い腕が腰を支えて、それを嫌だと思うのに力が入らない。
「離してっっ……」
「ジャイフ、どういうことだ」
力なく振り返ると、慇懃無礼に頭を下げた銀髪、銀の瞳の男性が闇に漂う澱のように静かに声を発する。
「ファズーン・ヴァハラ陛下。碧妃はまだ回復しておらぬ様子。しばらくはお眠りになられるのがよろしいでしょう」
銀髪の男が合図をすれば、銀盤に載せられた銀杯が近づけられる。混乱したまま、飲むものか、と口を閉ざせば嗅いだ匂いに頭がくらりとした。
飲まずとも意識が遠のいていく。
「碧妃は、メルクリッサ神より遣わされた真白の乙女。何もない状態のため混乱されているのでしょうが、すぐに慣れるかと――」
ゆらりと身体が持ち上げられて、寝台へと運ばれる。
違う、そんなの違う。
こんな人達、しらない。
最後に見たあの人は大丈夫なの? 自分を庇ったのは茶色の髪、心配げな水色の瞳、彼は無事なの?
(キ……ファ)
「お前は俺の妻だ。案ずるな。じきに慣れる」
ゆるゆると首を振る。違うと言っても誰も聞いてくれない。言葉が出ない。私の大事な人はこの人じゃない。私の夫は。
大事な、だいじなひと。黒髪で黒曜石のような瞳、いつもまっすぐに自分を見つめてくる、ようやく結ばれたのに……。
はなれないと、と誓った、のに。その名前はなんだっただろうか。
「ディ……?」
微かな断片の名前。
――助けて。
その言葉はでてこない。絶対に手を離さない、と決めたのに。
いやだ、いやだ、いやだ。
助けて、ずっと待ってるから。
その言葉、想いが、すべてが、真っ白の中に消えていく。でてこない。全部でてこない。
先輩、大好きだよ。
ずっと。