55.服従
ジャイフがリディアを連れ出したのは朝議が始まって間もない頃だった。
王座に座るファズーンの階の下、左右には諸侯が揃い伏せ、その先頭には宰相がいた。ジャイフとリディアはファズーンと同じ階上の緞帳の影に隠れ、それらを眺めていた。
なぜ、と思い凝視する。
今朝がた、ファズーンはいつも通りリディアに朝まで付き添い、朝議の前には出て行った。まどろむリディアはその気配を感じ寝具上で見送った後、通常通りに朝日が昇りきる少し前に起きて朝食を食べた。
この地方は、昼間は暑すぎて活動ができない。早朝に起きて活動し、昼寝をして暑さをやり過ごす。そしてまた夕方から活動をするのがここの習わしだ。
痛みにさいなまれた身体では、ようやくまどろむ頃に起きるのは辛い。朝食もいらないと抜かすことが多かった。
なにしろここの食事は慣れない。オリーブオイルを多用し、羊肉を好む。クミンや赤唐辛子、パプリカパウダーなどの独特のスパイスで肉を調理する。
だが、食べられるものはある。砂漠地帯は砂糖、とりわけ蜂蜜たっぷりの甘い菓子を好む。
王宮はリディアが甘味を好むと知り、様々なペストリーを用意してくる。
今日は蜜桃のペストリーと、果物、それから蜂蜜を入れたヨーグルトを食べて、リディアは薄着のドレスを纏った。それだと薄すぎるからとガウンを着て腰布で留める。
いつもならばそのあとは庭を散歩し、花を見たりストレッチをして、刺繍をしているとキーファや黄妃が来る。
退屈だが、平穏でなによりだ。紅妃達に悪さをされて今は何事も起こらないのが一番。
――だがそれは長く続かないもの。今日は朝早くにジャイフが来たという知らせがあり、連れ出された。
キーファと黄妃の二人に伝える猶予もなく、侍女を付けることもできなかった。正装に着替えると言っても聞き入れてもらえず、ヴェールを被るだけで精いっぱいだった。
どこに行くのかも告げられない。
高位の神官用の箱型の輿は白地に金糸で縁取られている。まるで王族のように豪華だった。彼はいつも痛みが始まる頃にファズーンにつき従ってやってくるから、リディアは彼が一人で移動する姿を見たことがなかった。
王族や妃と同じように輿で移動をして歩かなくても許される。ここまで特別待遇でいながら、皆に関心を持たれていない。どういう存在なのだろう。
今回、彼はリディアに輿を譲り、自分は外を歩いた。
降りる時に手を差したジャイフをリディアは睨みつけたが、彼は慇懃に頭を下げて、リディアの視線を流しただけで動じている様子もない。
「どういうつもりですか?」
「――中に入ればわかります」
下げられたまま彼の頭上でリディアの怒りを込めた言葉は流されていく。俯く彼の言葉には含み笑いが込められている気がする。
「ファズーンに呼ばれたの?」
「……」
リディアはジャイフの手を取るのを躊躇ったが、結局それに手を重ねた。
リディアよりも手が大きいのは男性だし、予想通り。冷たいが、その手の平はところどころ硬くなっていた。
剣でもないが、四指の下には瘤がある。鍛えていたのか? もしくは何を握っていたのだろう。リディアは何も気づかなかったふりをしてすぐに手を離す。
手仕事をしない大事に育てられた子息ではない、顔の傷といい何かがあると思いながら、ジャイフを背にリディアは進んだ。
――ヴァルハラ宮殿は、妃嬪達の宮よりも高い丘の上にある。大理石で作られた床や柱は熱を奪い、標高が高く風通しのいい王宮正面の正殿は薄着のリディアには寒いくらいだった。
そして王座に座り朝議に臨むファズーンを見たのは初めてだ。
入口の左右の扉が大仰に開かれて、入口から薄暗い王座へと光が差す。昇り始めた東の太陽が彼を照らし、入ってきた者はその逆光に慣れるまで座す王の顔が見えない。
ファズーンと同じ高さの壇上にいたリディアは、開かれたドアの外へ目を走らせる。
――なんて高いのだろう。朝もやにけぶる街並みに身を乗り出す。階の傾斜が急で幅が狭いのと相まって、ここから地上に降りるのが怖いぐらいだ。
(……前はファズーンの寝殿に幽閉されていたから、知らなかった)
こんなに高い場所に位置していたのだと。ここから見ればリディアや他の妃嬪達の宮の何と小さいことか。まるで消しゴムのようだ。その中に混じるのは図書館都市。
ディアノブルの塔は王宮のすぐそばにあるのかと思っていたが、あまりの大きさにそう見えただけでかなりの距離があるのだと知った。
ここから毎日、自分の治める国を眺め、彼は何を思うのだろう。
国土を整え、民を豊かにして、幸せを願う。それが王のあるべき姿だ。やるべきことがたくさんあるだろう。
彼が王として何もしていないとは思えないが、“占い”の女を気にいってる場合じゃない。それとも、リディアとの時間は息抜き、だろうか。
外の世界と隔絶されていると、ただただ考えを膨らませるしかなくて、何も進まない。
ジャイフには目を向けないようにして、リディアが扉正面を見ていると、鈍重な銅鑼の音が響く。巨大な銅を二重に縦に合わせたもので、精緻な彫がされている。
中央を叩く様子は、ベルというより太鼓だ。
太い鉢で二回程それが鳴らされると、ゆっくりと扉から王座まで重厚に敷かれた絨毯の中央を歩んできたのは二人の男だった。
物怖じしない堂々とした様子だが軽薄な笑みを浮かべているのは、赤毛のシヴァだった。
腰布には剣帯を巻き、長剣と短剣の二本差している。胸元が開き涼し気な上衣の下には金の二連の首かざり、今日はへそにピアスをしていないが、代わりに左肩から肘まで不思議な紋様の入れ墨が覗く。更に豹の毛皮を肩にかけ、飄々とした態度を崩さない。
そしてもう一人は、顎周りに髭を生やし腕の筋肉を隆々と漲らせたヘンシュだった。彼の方は薄茶の髪を細く三つ編にして、いくつも垂らしている。
髭はうっすらと一ミリ程度、顎から耳下まできれいに剃り整えられている。戦士という風格で、目線は鋭いが眼差しに余裕があり、イケオジと女性が好みそうなタイプだ。
ガウンの下に巻き付けた剣帯には曲刀と太い長剣との二本の剣が差してある。
侍従長が二人の元に腰を低くして歩み寄り、両手で彼らの剣を預かる。
「――今日は、二人に改まって話がある」
“もうご存じでしょう、シヴァとヘンシュです”
リディアの横で、おもむろにジャイフが説明する。彼が薬以外でリディアに接触をしてきたことが初めてで戸惑う。中音で掠れた声、男にしては声が高いといつも思っていたが、あまりしゃべらないのでそれが男性としては違和感だが、ただの個性ともいえるので、何らかの病気の後遺症や異常かと判断ができない。
彼の意図を知りたくて、ちらりと見返してもローブの下の顔は覗けず、目はみえない。
すぐにリディアは顔をそむけた。リディアがシヴァと接触していることは知っている様子だ。ファズーンはどうだかわからない、でもそれがどうした。
「――みなまで言わなくてもわかります、陛下」
大仰にヘンシュが答える。張り上げなくても、朗々と響く声。この立派な体躯だ、声量があり、思わず従いたくなるような美声でもある。
常ならば、ヘンシュはファズーンの片腕として傍にいるはず。なのに、階下で頭をさげている。まるで彼ら二人は何かの失敗を犯し、これから糾弾されるかのよう。
リディアは悟った。
これは追従の意を示す場だ。ヘンシュとシヴァに改めて、反逆の意思がないかを問いているのだ。
「――今一度、そなたらの意思を確認しておかなければならない」
ファズーンの声もヘンシュ以上に太く圧巻の響きだった。身を乗り出す彼とは反対に、その声に人々がうなだれる。
どうしたらいいのかわからないと場が静まる中、場違いのように前に出てきたのは存在を感じさせない小さな老人。かなりの年を取っている様子で背が縮まってはいたが、手に持つ円状の盤は水が入っているかのような持ち方、けれどこぼさない。
(いったい何が始まるの?)
なぜ自分が呼ばれたのか、と疑問に思っていたけれど、少しずつその嫌な予感が形になっていく。
「――予言の巫女姫が現れました。陛下、国王選定の儀をやり直す必要がございます」




