7.王宮の中
「――おはようございます、碧妃様」
目を覚ましたリディアは、大きく息をついて身体を起こした。ひどい夜だった。まだ昨夜の名残がある、虚脱感が抜けない。かなり汗をかいたはずなのに、肌にべとつきはない。
誰かがいつものように清めてくれたのだろうか。
リディア、と昨晩訪れたファズーンは改めて呼ぶようになった。何度も呼ばれれば、もうその名が自分のものだと当たり前に身体にも心にも浸み込んでいった。
「湯あみをなさいますか?」
また夜になれば、ファズーンが来るからと身体を洗わされるのに。
けれど、汗をかいたのは事実なので、頷いた。
沐浴場は、正方形の白い御影石でできていた。泳げそうなほどあまりに広い浴槽の水面には、沢山のプルメリアの花が浮いてた。
甘い花の匂いに身体を肩まで埋めて息をつけば、あふれ出た水と共に花も流れおちていく。
気がつけば、浴槽の縁や鏡台や、あらゆるところに花弁が置かれている。
白くて可愛らしい星型の花。リディアがひと房取り眺めているのに気がついて、侍女の一人のシーリが微笑む。
「お気に召しましたか?」
「ええ」
鼻孔を優しく刺すようなスパイシーさとふくよかな香り。真っ白で中心が柔らかく黄色身を帯びた可愛らしい花。確か南国に咲く花だ。
「好きだけど、毎日変えるの?」
昨日は薔薇の花が至る所に飾られていた。
「碧妃様が、薔薇はお気に召さない様ですから変えるようにと」
「……そんなっ」
声をあげたリディアにシーリは困ったように笑みを浮かべている。彼女は命令に従っているだけ。自分の言葉一つで、全てが変わってしまう。
「何かお好みの花があれば、すぐにお取替えしますので」
「プルメリアも薔薇も好きよ。嫌いな花はないから」
(花の名前とか物の名前はわかるのに)
――なのに、自分の名や正体がわからない。
使用人がいたような生活ではなかったと思う。この土地の出身ではないように思える。なのに、すべてが「思う」だけで、確証がない。
沐浴を終えると、身体を丁寧に拭われて横にされ全身を香油でマッサージをされる。
五人がかりの女性の柔らかな手が背中や肩、手や足をもみほぐしていく。これはネロリの香りだと思いながら気持ちよさに目をつぶる。
この花から採れるオイルもとても貴重だ。そして大好きな香り。包み込んでくれるような優しくて高貴なもの。
そんなものを贅沢に塗り込んでいいのかと思うけれど、口にすれば嫌いかと聞かれて別のモノに変えられるし、下手なことを言えば世話をする者自体が罰を受ける。
そんな現実を思い出して我に返り、目を開けた。
次は爪をやすりで磨き上げられ、髪もオイルを練りこめられて櫛削られれば、鏡で見た自分の肌は艶やかで血色もよく、肌も髪も光り輝いていた。
そして肌触りのよい衣装を着せられる。薄地の綿の衣装は、胸元が大きく開いていて左右を前で合わせており、それを金糸のように細く練られた金飾りで腰を結ぶ。
その上から長い絹のガウンを羽織る。暑い地方でも、ガウンの袖は大きく開いているのと、織り方なのだろう、風通しがよくて涼しい。
そして襟は、精緻な刺繍がされている。これほど贅沢な部屋着でいいのかと呆然として、同時に心は沈むばかり。
「碧妃様、何かお悩みですか?」
「――いいえ」
あまりにも贅沢なこの境遇自体が受け入れられない。そもそも自分は碧妃じゃない。でも、それを言うことももう疲れた。
「何かお口に入れられそうなものはありますか?」
消耗して朝は何も口にできないリディアに、彼女は何度もすすめる。
「では、ヨーグルトはいかがですか?」
ヨーグルトは好きだけど、こちらの地方では塩味だ。最初に食べてびっくりした。口当たりがよい飲むヨーグルトが、まさかしょっぱいなんて思いもしなかったし、一口で下げてもらった。
「ご安心ください、蜂蜜を入れて甘くさせますから」
「――それなら」
「他には、冷やした桃はいかかですか?」
頷くと、糖蜜付けの桃を出してもらえる。
持ってきてくれたのは、もう一人の侍女のペトラだった。
シーリはリディアより少し年上で優し気な笑みを浮かべている人。ペトラは同い年か少し下か、無邪気でよくしゃべる。
この二人はリディア付けなのか、朝から晩まで控えている。
「本当に碧妃様は陛下のご寵愛が深いですわ! 昨日は陛下がお抱きになられて宮殿を歩かれるなんて」
ペトラが満面の笑みでリディアの前に屈んで話しかけてくる。あの行為は恥ずかしいものでしかなかったし、脅し混じりのものだったから顔をこわばらせたリディアだったけど、ペトラは気づかない。
半面、シーリが心配げにリディアへ向ける視線には気づいていた。
「そういうことは、よくあるの?」
「ないですよ! 確かにお妃様方は外をお籠で移動をされますが、ご自身の宮ではお歩きになられますもの。紅妃様だってないと思いますよ」
「ペトラ! 余計なことを話してはいけないわ」
叱責するシーリにペトラは気にした様子もなく、興奮混じりに話を続ける。それ以上この話題は嫌で、リディアはシーリに顔を向けた。
「それぞれのお屋敷の名前が妃達の名前になるの?」
「そうですよ! でも碧妃様は、碧佳宮というお名前を頂きましたもの。これはとても特別なことですよ」
シーリに尋ねたのだが、ペトラはにこにこと会話に入ってくる。邪気がないのか、空気を読めないのかわからない。
ただ自分のほうの身分が高いとはいえ、実際に世話をしてくれる彼女に嫌われたら、何をされるのかも、何を報告されるのかもわからない。
(気をつけないと……)
まだまだここのことが全然わからないから。味方だと信じてはいけない、彼女達の主人はファズーンなのだから。
「宮殿の名前が変わるのはよくあること?」
「基本的には、あまりありません。主人が変わることはありますが」
「その宮殿の主になることで、名前がそちらに変えられるのね」
シーリが頷く。
「だから、あなた達は私の名前を呼んでくれないのね」
いくら碧妃じゃない、リディアと呼んでくれと言っても「とんでもありません」と断られた。
「お輿入れをなされた時に、昔のお名前でお呼びになられることはありません。ですが、碧妃様のお名前を陛下がお呼びになるのは特別なことでございますから」
「紅妃様でも、そんなことはありませんよ!」
先ほどからペトラはなぜ対抗心を紅妃に燃やすのだろう。首を傾げるリディアにシーリはペトラを視線で窘めながら、説明をしてくれる。
「紅妃様は陛下と幼馴染であらせられ、陛下が皇太子時代にお輿入れをなさり、すでに皇子、公主様をもうけております。また、宰相のご息女で妃嬪様方の中でも一番年長ですから。皇后ではありませんが、それに近い扱いをなされています」
「……そうなの」
皇后、つまり正妻のこと。他の妃達は側室扱いだけど、なんでもいい、すごく面倒そう。そう思って、絶対ここは自分が望んで入った場所じゃないと思う。
「……ちょっと待って。先ほど妃嬪って。どのくらいいるの?」
確かにここは後宮ぽいとは思っていたけれど。自分は、どのくらいの立場なのか。
自分が何者かもよくわからずいたから、そんなの気にしたこともなかった。
「――四妃八嬪二十妾です。その下には二百人ほどが陛下の後宮に控えています――」
「お気になさらずとも、今一番陛下のご寵愛が深いのは碧妃様です! すぐにお子様も授かりますよ!!」
「ちょ、ちょっと待って!!」
シーリの言葉に被せるように身を乗り出してくるペトラを、リディアは制する。
まずシーリの言った妃達の数に呆然とした。四妃、は自分を含めてそれぞれの宮の主の妃達。それから嬪が八人、そして妾が二十人。
(その下に二百人!!)
どれだけ、がんばるの……。
リディアは天井を仰いだ。色とりどりの玻璃硝子を張り巡らせたランプが円形を描き、吊るされている。それらの色が窓からの光を通して床を照らして美しい。
この美しい光景をずっと見ていられたらいいのだけど。
(でもあの人、絶倫っぽい)
立派な体格で、見事な筋肉、俺様気質。頑張るんだろうな……。
男性なら羨ましいとか思うのだろうか。そんなに妃がいたら大変だなと思うけど。
でも、その中でほとんどの女性が顔さえ見られる機会はないんだろうなと思うと、後宮の彼女達の方が気の毒だ。
そんなことを考えていたら、誤解をしたのかシーリも不安そうに見て、ペトラは更にリディアの座るソファの方に乗り上げてくる勢いだ。
「――その中でも陛下が夢中なのが、碧妃様ですっ」
「いやいや、それはいいから!!」
くらくらする。絶倫とか、大変そうだなとか。
(一番危険なのは、私じゃない!!)
「今は碧妃様の御身を案じて“まだ”、ですけれど。回復なされたら、すぐです、すぐ!!」
「碧妃様の具合もそろそろ戻るとジャイフ様もおっしゃってます。案じなさらなくても大丈夫です」
身の危険が迫っていたことを思い出して、戦慄していたリディアはジャイフの名に身をすくめた。
常にファズーンの傍に控える影のような男。
毎晩、彼の姿も見る。
「ご安心くださいませ! 陛下は碧妃様のところにしか来ていませんから!! 他のお妃様達なんで目にもくれませんから」
「ペトラ!!」
リディアの強張った顔に案じながら、白熱するペトラを宥めるシーラ。
それに弱々しい笑みを浮かべながらも、リディアが考えるのはまた今夜のこと。
彼に抱かれるいつか来るその日が怖い、わけじゃない。
それよりも、毎晩のアレだ。辛い、苦しい、もう我慢ができない。
その時にいつもそばにいるファズーンに、縋り付きそうになる。
慣れることはない、でも慣らされてしまうかもしれない。
また――夜が来る。




