122.シーリの裏切り
シーリが飲み物を盆にのせて捧げて持ってきたのを見て、髪留めを外したリディアは鏡越しに彼女を見て、また自分を見る。
髪はだいぶ伸びた、毎日香油を塗り込まれ、艶やかに天使の輪と呼ばれるような光のリングが輝いている。
正直、自分の髪がこんなに艶やかなものだったのかと驚く。
(自分でも見惚れるのならば、確かに他の妃に嫉妬されるのも当然かも)
波うち、肩より下に流れる髪を手櫛でもてあそびながら口を開く。
シーリの冴えない顔色、盆を高くリディアの顔まであげて、反対に深く自分の顔は下げていて、へつらうよう。産まれた時に、既に人生は決まってしまう国。
自分はどうだったのだろう。恵まれた生活を、人生を送ったの?
シーリはずっと人に仕える人生を送ってきて、幸せそうには見えない。でもだからと言って、自分を害しても仕方がないとは思わない。だから言わせてもらうと口を開く。
「そろそろ、それに入れるの止めてほしいの」
シーリが愕然とした後、がくりと膝をつく。盆が床に落ちて、その上で器が倒れ、ヨーグルトが零れ落ちる。乳白色の液体が銀の盆の中で湖を作る。
彼女の顔は蒼白だった。演技ではなく本当に足が崩れたようだ。そして頭を伏せて合わせた両手を前につき、必死で額づく。
「申し訳ございません、申し訳ございません」
「ちょっと!!」
慌ててリディアも膝をつく、まさか叩頭して謝られるとは思わなかった。いわゆる土下座だけど、額を打ち付けるように謝られると仰天して、手を差し伸べずにはいられない。
「命乞いはいたしません、どうか処刑してください」
人払いはしてある。ペトラには、最近いい仲になっている侍衛の所に行かせてある。
「それよりも、話を聞かせて欲しいの」
「――話など何もありません。すべて私が企みました」
シーリが黒幕ではないのはわかっている、でも口が堅い。追い詰めると自害しかねない。
リディアはシーリの手を掴み立たせて、長椅子まで手を引っ張り座るように促す。
「とても恐れ多くて無理でございます」
「では、ここに座りましょう」
そのまま床にぺたんと座り込んで、シーリの腕を引っ張ると彼女は慌ててリディアを引き上げようとする。
「いけません、お身体が冷えます」
「では、クッションを持ってきて。そこでまず話しましょう」
――ここは伏魔殿だ。信用できる相手かと思えば一番近い存在が、裏切っている。シーリの誠実さは感じていた、ただ何かに怯えている様子でここではやっていけているのか心配でもあった。
「紅妃の下を出入りしているのは聞いているの。あなたが、もともと紅妃の宮女だったのも」
情報はディアンとペトラから。ただ紅妃の下で何をやらされているのかはディアンも教えてくれず、毒を入れているというのは自分の推理から。
彼女に訊くのも自分の裁量に任せるという返事をもらった。
「碧妃様、私は……」
「いつどこで、どうやって?」
単刀直入に聞くと彼女は、目を見開いて顔を青ざめさせた。また申し訳ございませんの連呼になりそうで、その身体を支える。
「……」
「――紅妃に、何の弱みを握られているの?」
性急過ぎる。喘ぐ彼女に質問をかえる。そう思ってリディアは、一息いれた。
「――私が痛みに苦しんでいる間、看病に必死だったのはどうして?」
毒を入れながら心配するのは矛盾している。ただ本気で案じるのは死なせないため、つまり容量を間違えてないか、殺してしまわないか、自分自身のために不安があるから、そう思う時もあった。彼女はそんな弱気な面がある。
でも何か違う、そうも思ってしまう。
返答に少しの間があった、そしてまたみるみる顔を青ざめさせてぶるぶると唇を震わせて、失神しそうになっている。
「まさか、あのお痛みが……」
「待って、待って、倒れないで」
貧血じゃないのかしら? まともに食べているのか把握していなかったと反省する。ペトラはいつも血色がいいので、ご飯さえ取られているのかもしれない。
「碧妃様が苦しまれているのは、魔神のため。あれはただ妊娠しないためだと聞いてました――そんな……」
認識に行き違いがありそう。毒に対してシーリは違うモノだと思っているのかもしれない。
「知らない? 毎晩の痛みは毒のため。そして解毒剤をジャイフが用意するの」
ふらり、と倒れ掛かるシーリをささえる。
「シーリ、しっかりして、シーリ」
水を口に当てさせると、彼女は意識を戻して、息をついた。
「ヨーグルトに何かを入れていたのはあなたよね?」
「はい。ですが、それは御懐妊を防ぐためと聞いておりました」
シーリが毒と知らなかったのか、本当のことはわからない。これが演技なら大したものだけど。だって苦しんでいる自分を毎日見ていたのに。それでも入れていて良心の呵責に苛まれなかったのだろうか。
「皇太后様より紅妃様が下賜されました。それを私が一日一滴含ませるように紅妃さまから」
「皇太后と、紅妃?」
どうして、そんなに色々な人の手が入るのだろう。それに紅妃は自分の母親を蹴落とした皇太后を憎んでいないの?
おずおずと告げて目を伏せるシーリに顔をあげるように告げる。
「ご懐妊なされると、必ず碧妃様は体が弱るとジャイフ様が星読みを成されました。それに儀式前に万が一にもありますと魔神が怒り罰を与えます。そして……後宮では懐妊した妃濱に容赦がありません」
妊娠すると、全ての妃嬪妾から容赦なく狙われて殺される。生き残れるのはわずか。だからリディアを守るため、そうと言われると首を傾げつつも真面目なシーリの思いもわかる。
ジャイフの星読みは適当な理由づけに思えるけれど、儀式前に妊娠したら魔神もとい、メルクリッサ神が怒るから防ぐためと言われたら「そうなの?」と頷くしかない。
(本当に、薬と痛みは関係ないと思っていたの?)
疑ってもいいはずだけど、魔神を盲目的に信じているこの地帯では、無条件にそう思ってしまうのかもしれない。
「皇太后と紅妃の二人は仲がいいの?」
「紅妃様は慕っているように見せています。皇太后様は恐ろしい方ですから、仕方ありません」
(でも、皇太后は気がふれている。実際の力はない)
となるとやはりジャイフが全ての黒幕としての有力候補。ジャイフは美しい――それを皇太后は慕っているようだ。
でも彼が皇太后を利用しても意味はない。ファズーンは皇太后を邪険にはできないが、彼女は実質的な力はない。じゃあ紅妃が皇太后を切らないわけは何だろう。
一応後宮の主人だから?
ただシーリがリディアに薬を盛っていたわけの説明は一応つく。ジャイフと皇太后がつながっているのは承知の事実。ジャイフから皇太后へ、そして紅妃、さらにシーリへ。そこまで面倒なことをしてジャイフは自分に薬を盛っている。
なんで、こんなに自分は憎まれているの?
「ねえ、シーリ。どうして紅妃の命令もききながら、逆らうことをしているの?」
シーリは、全て紅妃の命に従っているわけではない。例えば、子宝の薬を飲んでいないのを知っていても、秘密にしていてくれる。
しばらく黙ってシーリの顔を見つめる。くたびれてやつれた顔、そして頬の打たれた痕。それを見て紅妃の配下だと確信したのだ。
シーリは瞳を揺らし、迷いを見せたあといつもの寂しげな顔のまま、不意に襟へと手をやる、そして首までしっかりと留めたボタンをあける。
そこには赤い紅玉のネックレス、彼女の身分では分不相応だがその形は見たことがあった。いつも紅妃が身に着けているのと瓜二つのもの。
なぜ? という言葉はでてこなかった。シーリの首にはしっかりと索状痕があったからだ。黒ずんだそれは、最近だけのものじゃない。鮮やかな赤い痣には黒と青が混じり何度も締め付けられたのだとわかる。
「以前、妃嬪は他の男性と繋がると、装具によって罰を与えられると聞いていたけど」
「――はい、紅妃様の罪の証です」
そうだったの、とリディアは呟いた。紅妃があそこまで派手に遊んでいても、ファズーンに許されているわけ。最後の一線を越えていないから大目に見てももらえていたわけだ。
けれど、彼女はとっくにそれ以上に多数の男と通じている。罰はシーリが被っている。
「お見苦しいものをお目に入れて、申し訳ありません」
「もう少し衣服を緩めて、見せて」
リディアは首をふり、自分の荷物から軟膏を取り出し手で塗る。
「そんな、碧妃様自らなど。私は卑しい奴婢でございます」
「あなたも同じ人間、ただそれだけ」
ガーゼがないから手巾を取り出して、その首にあてる。最近の傷はない、ということは……紅妃は男性と一線はこえていないわけだ。――ディアンとも。
「サソリを仕込んだのはあなたね」
「……」
「でも、毒のないものを選んでくれた。――そして助けてくれた」
「私は箱をおいただけです、そしてリディア様に言われて鞄を渡しただけです」
「どうして、あなたは汚れ仕事をやるの?」
ただ尋ねただけだった。シーリはしばらく黙り、そして唇をふるわせた。
「紅妃様は、私の姉です。メクダシ様――宰相と奴婢の間で産まれたのが私でございます」
シーリのすすり泣きが響く。リディアはこの後宮の苦しさに喉を絞められたかのように、息苦しくなり、重いヴェールが下りてきたような気分に包まれる。
産まれ落ちた瞬間に、身分に縛られて自由はなく行動を強要される。殺しでもなんでもさせられる。
「――紅妃様は、碧妃様と陛下が結ばれていないのは存じ上げていません――私は漏らしていません」
「どうして?」
「それが私のできる精いっぱいの――」
反抗なのだろう。
訊きながらもわかる。シーリは紅妃を崇拝していない。憎んでいるかわからないが、彼女の味方ではない。ただ、リディアが取り込んでも裏切るかもしれない。
それは紅妃への忠誠か、恐怖か測れない。
「――シーリ。あなたは、紅妃と縁を切りたいと思っている?」
シーリが涙の滲んだ眼差しを向ける。最小限の化粧、滲んだアイメイクが目の下に黒く滲みクマの様。そこにリディアは翠色の目を向ける。
「私は、儀式の後ここを抜ける。その時にあなたを連れて行ってもいい。きっと魔法師団ならば、それができる」
要人擁護に国外退避の手助け、紛争解決、戦争介入以外なら何でもやると聞いていた。シーリ程度を助けることならば、彼らはできるだろう。
まるでガラス玉のような目だ。愕然としながら、揺れている。これはリディアも賭けだ、裏切り者はまた裏切る。記憶がなくても、自分の中での確信だ。
「……紅妃を取るか、私を取るか、あなたも決めなくちゃ」
彼女にそこまでの強さがあるか。リディアは彼女に手を伸ばす。
「もし、あなたにその気があるならば……明日の祝宴で私を飾り立てて、あなたが」
床についた手が揺れている。動揺して何を言われているのかわからない、という顔。飾られるのを嫌うリディアが、なぜその交換条件をだしたのか、ということと、それは自分の役目ではない、ということ。それをすることの怖さ。
「それは、ペトラが……」
「そう、ペトラの役割。でもあなたがするのよ、その役目ぐらい奪い取らなきゃ」
そのぐらいの強さが、彼女には今後必要だ。
揺れるその目、彼女は人生で現状に流されてきただけ、その場で自分の人生を変える賭けに即決できないと、たとえ逃げてもその場で殺される。
「そしてもう一つ。即、海嬪に会えるように手はずを整えて。秘密裏に」