120.グレンの仕事
そこでさっとグレンが立ち上がる。黄色の裾が翻り、重ね着した裳の紫が見え隠れする。覗く細い腕は白く華奢でとても成人男性には見えない。
「どこへ行くの?」
彼はこちらを向かず手を振った。
「お勤め。こっちでも仕事しなきゃね」
リディアは立ち上がり、去り行く彼の手を取った。袖口から覗く手は小さい、背もまだリディアより下。少女の姿で細い背中も薄い。
「宰相の相手をするの?」
振り返り、見上げてくる顔の一瞬は、無垢な子供。なのに次に浮かべた苦笑は、呆れの経験を積んだ大人のもの。まだ言ってもわからないの? というグレンの顔は子供扱いをしないでくれとは、違う。
「あなたには、何かの意図とやり方があると思う、でも傷つかないようにね」
「……あのね、リディア。僕はリディアより大人で、プロなんだよ」
そう、プロだ。トップの人間で、感情も身体もコントロールしている。呆れた物言いで、引き留めたことに何かを忠告するような感情が込められている。
「情に厚いのは結構だけど――」
「そう、わかってる。事情に立ちいるのは、迷惑だって。でも問題になっている時は、無視したくない」
グレンを遮り言葉にする。何かがよぎる。子供なのに、否応なしにその実力で大人にならされた人。トップになってからは、弱みを隠しつづけるしかなくて、見せなかった人。
そのせいで、彼はずっと子供の自分を置いてきぼりにしてきた。結ばれて初めて、その弱い部分を知った。
少しずつその足りなかった部分を埋めてあげられたら、いいなと思っていたのに。それができなくなってしまった。
その人は今ここにいる。愛しい、という感情はあるのに記憶がない。今の自分にはそれができない。
「仕事、それはあなたの人生だとはわかっている」
けれどそこに行くとわざわざ宣言する必要はない。なのに、それをして出て行こうとした。その意図はなんだろう。人が何かをいうのは、聞いてほしいという感情が込められている。
楽しんでしているわけじゃないと思う。相手の情報を得るため、もしくは宰相の心を操りむしろ害を与えているのかもしれない。ウィンウィンかもしれないし、宰相の方が被害者かもしれない。ただ、黄妃が楽しそうではなく憂鬱そうに見えた、その理由だけだ。
「大人でも、いつでも傷つく。それは何歳になっても変わらない。それをすることで何か一つ失うようなら、蓋をしてなかったことにしないで。脇に追いやって見ないふりをしないで」
何かと重なる。
ファズーンは後宮で好きじゃない女たちを訪ねる。女たちは、ファズーンだけを頼りにして毎晩待つ。寵愛を得るために殺し合いをする。
ここに居たくない自分は、ずっとここに閉じ込められている。記憶が欲しいのに、戻らない。自分らしくいられない。好きにできない。嫌なことを、したくないことを、じぶんらしくないことを、みんなしている。それはいびつで、悲しい。
「私らしくできるのは、素のあなたを癒してあげられることだけ。正体を明かしてくれたお礼じゃないの、本当に――」
「リディア!!」
ディックの制止の声に、リディアは口を結ぶ。何かが上手く伝えられない。
「見かけが子供でも、アイツは立派な大人だ」
「……わかってるけど」
眦を吊り上げるディックを見上げてリディアは口を開く。
シリルはグレンに照準を当てていた。
けれどグレンは次の瞬間には位置を変えていた。まるで不可思議な力でシリルの後ろに転移したかのよう。半身を振り向いたシリルは、一歩遅れて再度照準を合て直したのだ。
「幻惑か」
「……」
リディアには何がなんだかわからない、ただシリルの表情を見ると種に気づいたという様子。
「最初からそこにはいなかった、か」
「……」
皆の様子を見ると、グレンは既に場所を変えていたということ。
いつから移動していたのかリディアには全くわからない。
だとすると、今見えているグレンが本当の姿?
銃口が向けられたまま、グレンはゆったりと壊れた扇子を屈んで取る。皆が緊張の面持ちで何をするのかと凝視されているのを知りながら取り上げ、小さな指で折れた扇面と扇骨を検分する。
「――扇子が飛んで、皆の意識がずらされた時に移動したの?」
「正確には、玉が転がった時にね」
「あーあ」と呟き、直せなさそうな扇を懐にしまう。
意識が向いているのを解っていながら振り替えりもしない、常に自分に意識を向けるのがうまい、反対にファズーンにはガン無視されているのに。
「攻撃した時に結果を予想できるのは当然、そちらは見ない。でも何かしらの動きがあるものに意識を向けてしまう訓練を積んでいるからね、君たちは」
チラリと、転がったままの黄玉をリディアは見る。黄妃から教えられて、なるほどと思う。けれどディアンたちは言われなくても知っている基本に思える。
ということは、それほどうまく黄妃は幻惑というのを使い、欺いたのだろう。
そして頭をあげたのはグレンの顔。姿かたちは少女なのに、眼差しは男だ。なぜかと思ったのは、無表情に近く、恐らくディックたちのように戦場に赴く者たちのような顔をしていたからだ。
「僕はリディアと友達になりたいと言ったけど――」
その言葉を待つ。拒絶されるのか、その目はいつもリディアをじっと見ていて、中身を見透かされそう。そう、探られて心の中を見られているようで気まずくなるのだ。きっと他の妃濱達が黄妃を苦手と思うのもそれかもしれない。
「いつか、本当に友達になれたらいいと思うよ」
少しだけ口端をあげていつものように皮肉がはいった表情。なのに、ぽつりと漏らされた言葉。その真意を問おうとした時、シリルの声が遮る。
「――行くなら早く行きな」
彼は、空気に溶け込んだようで、碧佳宮の出口を使わなかった、みんな空間から出たり入ったりして、主であるリディアだけがまともな道を通ってきていて、何なんだろうと思わされる。
(――本当の、友達)
友達になりたいと言い出したのは黄妃の時。正体を明かした今はわからない。ただ、色々とグレンとして話した時じゃなくて、最後のセリフが彼の本音の気がする。
そこから信頼が築けていくと信じていきたくなっていく。もっともっと深い何かがある。
長というのは、孤独だ。ディアンと重ねるのは間違っている、けれどグレンがいつも視線を外さず見てくる眼差しが気になる。
どうしてそんな風にリディアを凝視してるのか、ディアンのように孤独ならば――。
「リディア、どうした?」
「……魔術師なんだね」
心を操るというのが魔術師。でも黄妃は今回、大したことはしていない。ただこんな細やかなことでも、欺けてしまうという警告。
これが、何かの役に立つようにしたい。
ディアンは、黄妃が姿を消したと同時に消えてしまった。彼を追ったのか、それとも別の用事か。まさかリディアがグレンに態度に怒ったわけではないだろうけど。
「あのね、ディアン先輩を守ってほしいの」
残ったシリルとディックは黙って聞いている。ディアンが何も言わずに姿を消してしまったことに、少し胸が痛んでいる。そんなことは当たり前の関係だったのかもしれない。ディアンは長で、独断で行動する、もともと無口で余計なことも言わない。
そんなことは既にわかっている。
でも、自分のこれまでの行動で嫌になっていたら? 忘れた自分に見限っていたら? そんな不安がないわけじゃない。
黙って見つめる二人に、リディアは思いをこめる。
「私が忘れたこと、傷ついてないわけがないから」
もちろん、この二人もそうだろうけど。救いなのは、彼らがリディアを責めないこと、そして、リディアの瞳に何かを思い出せと期待して見つめてこないこと。
「もし私だったら、自分と結ばれた相手が自分を忘れていたら傷つく。それがすごく負担になっていると思う」
平気だと言っていても、じわじわときていると思う。今彼は何かをしている。それはわかっている、でもそこまで強いわけじゃない。
「あのな。リディ。そこまでリディが思いつめる必要はねえよ」
シリルがリディアの手を引いて、長椅子に一緒に座る。
「任務の事故で記憶を失う奴はいる。怪我ではなく、リディは取られた。それなら取り返せばいい。単純だ、解決方法があるんだから。私らはそこまで重くうけとめてねーよ、それにまた作ればいい」
「――俺だったら、忘れても“好き”と言われるなら、何度でも思い出を作る。それは幸せだと、思う」
ディックがポツリ、という。その声にリディアは顔をあげる。ディックの顔は逆光で見えない。厚いカラフルなはめ込み硝子越しからは淡い夕日が差し込んで、薄暗い室内で顔に影が差しているように見えた。