第8話 教授との話
理工学の講義が終わって、教室に残っている学生たちがまばらになり始めた時、席を立とうとした晴香は篠田教授に声を掛けられた。
「どうだい戸成さん、もう慣れたかい?」
教授が言っているもう慣れたかというのが授業の事なのか部活の事なのか、晴香はどちらなのかと少し考える。
「加総研の事ですよね」
「ああ、そうだよ。なんだか後から入った二人に手を焼いていそうだね」
「ええ、そうなんです。おかげで研究が進まなくって」
普段からあのオカ研と被検体君の事でストレスのかかっていた晴香はつい愚痴っぽく言ってしまった。
「ハハハ。まああれだよ。研究というよりも部活を愉しんでいるんじゃないかな。君や丸井君のように熱心じゃなく、加速理論をそこそこ齧りながら仲間同士で楽しみたいんだよ」
「そういうもんですかね」
うっぷんの溜まっていそうな晴香の雰囲気を察してか、教授は晴香の座っている机に席を一つ空けて腰を下ろした。
「君はこれから加総研だよね。私は今日は部室に顔を出せないが、あの子たちのいない今なら質問し放題だよ。君の話を聞く時間位はあるよ」
「え、じゃあお言葉に甘えて」
晴香は鞄からマル秘ノートを出して早速何を訊こうかとページをめくり始めた。
教授はそんな楽し気な晴香をニコニコして見ている。
「ちょっとマニアックな事、訊いていいですか?」
「いいよ。なんなりと。私に答えられる範囲なら答えるし、分からなければ一緒に考えようじゃないか」
何となく二人は本気モードに入ったようだ。
「いっぱいあるけど、取り敢えず今日はこのテーマで。加速する引き金についてです」
「ああ、以前モニター越しに話し合ったあれだね」
「ええ、加速する引き金は人間の限界を超えれるほどの強い動機でなければならない。そうおっしゃってましたよね」
「ああ。心理の面は私は専門ではないが、そうであろうとは推測できるね」
「では他人にその引き金を預ける事で加速するとすれば、どういう理屈が働いているのだと推測できそうですか?」
「ほう、面白いことを言い出したね。加速できる人間が自分の意志で加速をせず、他人が引き金となり加速する……そんな事があるのだろうか」
教授はその場で目を瞑り、思考し始めた。
晴香は教授が何を言うのか黙って待っている。
教授はしばらくして目を開けると、晴香にやや自信なさげに話し始めた。
「あくまでもこれは私の私見だよ。もし仮に他人の干渉で加速しているのだとしても恐らく本人が加速の引金を引いたうえで成立しているのだと私は思う」
「というと?」
「つまり、加速能力者は、加速するとき自らで引き金を引いている。そのうえで他人の干渉を受けようやく加速できるとしたら、恐らくその特別な他人は安全装置の役割なのではと考えられる」
「成る程。直接の引金ではなく、簡単に加速できないようにする安全装置だと」
「本能的に危険な能力を簡単に解放できないようにしている安全装置。そう考えると辻褄が合う」
「そうか。安全装置か……」
晴香は何やら考えをまとめようと集中している様だった。
「では、自分の意志で加速できる者と、今言ったみたいに二重の条件でやっと加速できる者がいるとしたら、この違いは何なんでしょう」
「それはきっと単純な事なんじゃないかな」
篠田教授は先ほどのようには考える時間もとらずに答えた。
「戸成さんも、きっと私と同じ事を考えている。そう顔に書いてあるみたいだよ」
「はい。私も、もう答は出ています。きっと教授はこうお考えですよね」
そして晴香は頭の中にある一つの仮説を教授に話した。
「恐らく、同じ加速を出来る能力者にも能力差があるのだと思います。さらに危険な領域まで踏み込めるからこそ、さらなる安全装置が必要なのだと私は考えます」
教授は何度か手を叩いた。
「素晴らしい。私もそう思うよ。何らかの条件によりまださらなる加速をしてしまう潜在能力があるのだとしたら簡単には発動しない筈だ。そう考えるのが妥当だろう」
「もしも……」
晴香はその先の言葉を言いかけて躊躇いを見せた。
「もしも、なんだい?」
「はい、その……もしもその先さらなる加速をしてしまった場合加速した者はどうなってしまうのでしょうか?」
「そうだね……」
教授は最近少し伸ばしかけている顎鬚に手を当てて考えを巡らせる。
「この世界の絶対的な理である自然時間の流れを人間が越えることは私は出来ないと考えている。でも……」
教授は一度天を仰ぐようにしてから深く息を吸い、そしてフーと吐いた。
「加速できること自体がこの世の理を壊す行為だ。もしかすると加速能力者は自然界の理で縛り付けられるものでは無いのかも知れないな」
そして教授は席を立った。
「そろそろ時間だ。すまないね。君のその質問は宿題にさせてくれないか。たくさん考えて答を探してみるよ」
「はい。私も考えてみます。いずれまた結論が出た時にお話聞かせて下さい」
そして晴香もノートを鞄にしまって席を立つ。
もう他の学生もいなくなった広い教室で、最後に教授は晴香にこう言った。
「君は加速理論に関して並々ならぬ情熱を持っているね。頭の中で加速理論を想像する私と違って、君は何というか、実際に見て触れているかのように身近なものと捉えているように感じられるんだ」
きっと教授は生徒達の事を普段からよく見ているのだろう。
その言葉に晴香は明るい笑顔で返した。
「はい。そんな風に私は感じています」
「そうか。なんだか君が羨ましいよ」
加速理論の話を生徒と出来る事に、教授は大いに喜びを感じているようだ。
色々と問題のある加総研ではあるが、頼れる存在がいる事に晴香はあらためて良い環境にいるのだと気付かされたのだった。