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加速する世界 時の彼方へ  作者: ひなたひより
第三章 世界の理
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最終話 辿り着いた未来

「はい、ではこれで終わります」


 東北大学理学部棟の三階の教室。

 理工学部の講義をひとつ終えて、篠田小五郎教授は教壇を下りた。

 戸を引いた時、教室の外で待っていた少しくせのある柔らかそうな髪の女子生徒に気付いて、教授は少し驚いた後、明るい笑顔を浮かべた。


「しばらくぶりだね戸成さん」

「はい。教授もお元気そうですね」


 大学に二月ふたつきぶりに姿を見せた晴香に、教授は優しく声を掛けた。


「丸井君と一緒に、戸成さんも休学するなんてね」


 そう口にした教授は、残念そうな感じが滲み出ていた。


「すみません。急にこんなことになって」

「いやいいんだよ。誰しもなにかしら事情があるものさ」


 篠田教授は特段、何も訊こうとせず、少し痩せた印象の晴香に、さりげない気遣いを見せた。

 晴香はそんな教授のさりげなさに感謝するように一礼した。


「今日は寮を引き払うんで、その後始末に来たんです。それと教授にお詫びとご挨拶に伺いました」

「私に詫びる事なんて何もないよ。君と丸井君には感謝しかない」

「感謝してるのは私の方です。本当にありがとうございました」


 晴香は深く頭を下げた。


「こちらこそだよ。ところで菊池さんたちとは話したのかい?」

「ええ、可奈ちゃんとは昨日の夜に寮でたっぷり話をしました。それで加総研の部長を彼女に引き継いでおきました」

「そうか、彼女も寂しくなるだろうね」


 教授はまばらに通り掛かる学生たちを少し気にして、日差しが射し込む窓の方に体を寄せた。


「なあ、戸成さん、君といつか話し合ったこと覚えてるかい?」

「はい。加速した人間がさらに加速したらどうなるかでしたね」

「君が不在の間、私なりに熟考して答を見つけたよ。聞いてくれるかい?」

「はい。喜んで」


 晴香はほんの少し笑みを浮かべて、落ち着いた感じで教授の話に耳を傾けた。

 教授は去り行こうとしている教え子に、最後の解説を始めた。


「あれから少し考え方を柔らかくしたんだ。きっと戸成さんに影響を受けたんだろうね」

「私の?」

「ああ、そうだよ。加速した人間がさらに加速世界で力を開放した場合、やはりこの自然界の理を壊してその先へ行けるのではないかと思い始めたんだ」

「でも教授はこの自然界にある自然時間を超えることはできないと……」

「ああ、そう言っていたよ。これから作り上げていく未来はなにもないはずだからね」


 静かだが熱い語り口に、晴香は熱心に耳を傾ける。


「しかしその何もない未来に、先に足を踏み入れることが、加速能力を持つ者にはできるのではないかと思うんだ」

「何もない未来にですか」

「そうだ。そしてそこに踏み込んだのなら、いつか現在が作り上げるこの世界が加速能力者に追いつく。SFみたいな話だけど、よくよく考えた理論に私の個人的なロマンというスパイスを加えて、その考えに行きついたんだ」

「素敵な話だと思います。ではその加速能力者のいる未来に私たちのいる現在いまがいつか追いつけるのだと」

「そうさ。人は誰しもこの今生きている現在が家みたいなもんなんだ。単純なようだけどいつかは家に帰って来るのさ」

「家か……」

「誰かが待っていてくれる家に誰しも帰りたい。たとえそれが時間を跳び越えた存在であっても」


 晴香の目にうっすらと涙がにじんだ。


「そうですよね。きっとそうだ。きっとそうなんだ」


 晴香は細い指で、こぼれた涙をぬぐった。


「またきっと先輩と一緒に教授の所へ戻ってきます」

「ああ。大いに期待してるよ。加総研で菊池さんらと君たちを待っているよ」

「ではおげんきで」

「また会おう」


 さよならの代わりに再開の約束をした晴香は、そのまま大学を後にした。

 蝉の声が季節の移ろいを晴香の耳に届けてくる。

 青くて高い空を晴香は眩し気に見上げる。

 そして晴香は大志のいない夏に一歩を踏み出した。



 いつの間にか蝉の声が聴こえなくなり、落葉樹が色づき、そしてその葉を落とした。

 雪が降る季節が来て、ようやく少し日差しが戻って来て、新しい息吹が木々を彩りだした三月。

 早春の気の早い桜の花がチラホラと、晴香の頭上を彩り始めていた。

 あの事件のあった教団跡地は地方自治体のテコ入れで、生涯学習施設へと生まれ変わっていた。

 今は春休みに入り、人もまばらだが、春からの新入生を受け入れるべく、ひっそりとその時を待っていた。

 かつての教団施設の中庭。今ここには晴香しかいなかったが、そこにはくつろげるテラスが作られ、誰もが使用できるように解放されていた。

 晴香は大志が消えてしまってから毎日ここへ通っていた。

 大志が加速世界に入った最後の場所だった。

 晴香との約束を残して大志は戻って来なかった。

 大志が消え、そしてあの怪物も姿を消した。

 加速世界の中で何が起こったのかは誰にも分からない。

 しかし、二人の人間が跡形もなくこの世界から消えたという事により、何があったのかおおよそ結論付けることは出来た。

 恐らく大志はあの怪物との戦いの中で、さらなる加速をした。

 この世界の理を壊し、さらなる時の彼方へ己を加速させ、あの怪物を道連れにした。

 もしどちらかが、あるいは両方が死んでしまったのだとしたら、加速が解けて、姿を見せる筈だった。

 この世界から完全に消え去った。だからここにいないのだ。

 晴香は毎日ここに来ては涙を流していた。

 そして今日も、大志が消えた早咲きの桜の木が並んでいるこの場所にやって来ていた。

 儚い希望だと知りながら、どうしても諦めきれず、いつかあの人は戻ってくるのだと信じ続けた。

 風が吹くと大志の姿を反射的に探してしまう癖まで身についた。

 そしてふと携帯が振動したような気がして、ベンチから晴香は腰を上げた。

 コートのポケットから携帯を取り出して晴香は小さくため息をついた。

 画面は暗いままだった。

 晴香は唇を噛みしめながら携帯を耳に当てる。

 あの忘れられない夏の日、あの人からかかってきた電話。

 会いたいと叫ぶと、あの人は私の前に魔法のように現れた。

 そして晴香はどこにも繋がっていない携帯を握りしめ口を開いた。


「会いたい」


 そしてもう一度。


「先輩に会いたい!」


 涼しい風が吹き抜ける。

 そよいだ風が優しい音を晴香の耳に運んでくる。

 ただそれだけだった。

 あの魔法のように、きらめく海を背景に現れた少年はどこにもいなかった。


「先輩の馬鹿……」


 晴香の目に涙が浮かぶ。


「私が呼べば来てくれるって言ったじゃない」


 晴香は相手の無い携帯電話に向かって話し続ける。


「これからいっぱい一緒にいられるって言ってたじゃない……」


 晴香の目から大粒の涙がこぼれだした。


「先輩の馬鹿! もう知らないんだから。先輩なんて忘れて新しい彼氏だって作っちゃうんだから!」


 そこまで言って、晴香は耳に押し当てていた携帯を握りしめていた手を下ろした。

 うつむいた晴香の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。


「嘘つき……」


 誰も聞く者のいないこの場所で、抑えられない感情を、晴香は言葉にしていく。


「私の事好きって言ってくれたじゃない。私が先輩の引き金だってそう言ったじゃない……だったら戻って来てよ……」


 晴香は顔を上げて、もう一度大きな声で叫んだ。


「今すぐ会いたい!」


 そして一陣の風が吹き抜けた。


 この世界の理を壊し、消えてしまった存在は、再びこの世界の理を壊すこともあるのだ。

 晴香の瞳が大きく見開かれ眩しい程の笑顔が浮かぶ。

 そこに突然現れた人影に向かって晴香は駆けだした。

 もどかしい程の時間を越えて、今待ちわびたその胸に、晴香は飛び込んでいった。


「先輩!」


 飛び込んできた晴香の重さを受け止めきれずに、大志は晴香と共にそのまま芝生の上に倒れ込んだ。


「戸成……」

「先輩!」


 晴香は大志の体をしがみつくようにして抱きしめた。

 大志は少し頭を振ってから、確かめるように晴香を抱きしめる。


「戻って……来られたのか……」

「うん。そうだよ。戻って来たんだよ」

「そうか。助かったんだな……」


 大声で泣いてしまった晴香の頭を大志は撫でてやる。


「なんだかさぶいな。何月だ?」

「三月だよ。あれから十か月たったんだよ」

「本当か? 俺には一瞬だったのに……」


 大志はあの日加速したままの黒いTシャツで、一度ブルっと震えた。


「あの日私に、着ていた服を羽織らせてくれたからだね」

「あ、そうだったな……」


 大志は少し赤くなった。どうやらあの時の晴香の下着姿を思い出したようだ。


「でも良かった。あれが起った時は、もう駄目かと思った」

「あれって?」


 しゃくり上げながら晴香は聞き返した。


「ああ、俺、加速世界の中でさらに加速したんだ。暴走しだした自分を抑える事が出来ずに、あいつを道連れに時間を跳び越えたみたいなんだ」

「じゃあ、あいつは?」

「俺の腕の中で、砂のように散っていった。あいつの加速では耐えられなかったんだろう」

「どうやって戻って来れたの?」

「これだよ」


 大志は手に持っていた麻酔薬の注射を見せた。


「あいつはもしもの時に備えて、この麻酔を俺に打ち込もうとしてポケットに忍ばせていたんだ。格闘中に中身の液が漏れ出して減っていたけど、それに気付いて残りを自分に打ち込んだんだ。暴走を止めるにはこれしかないと思ってさ」

「そうだったんだ」

「だから今、めちゃくちゃ眠いんだ。すごい効き目だよ」


 少しまだ眠そうに、大志は晴香の助けを借りて立ち上がった。

 あちこち痛むのか、大志は顔をしかめた。

 どうやら現実の時間の経過とともに、苦痛を感じなくしていた暗示の効果は切れてしまった様だ。

 晴香は大志を支えながら歩き出した。

 そして大志が見たであろうその光景について尋ねた。


「ねえ未来ってどんなだった?」

「ああ、真っ白で何も無い世界だった。これから絵を描くまっさらなキャンバスみたいに」

「それだけ?」


 拍子抜けしたような晴香の顔。

 大志は一度立ち止まって少し考えた。

 そして晴香に向かって穏やかに微笑んだ。


「それから、こうして行きついた先に、晴香が待っていてくれたんだ」


 そう言って大志は片方の手で、晴香の柔らかな頬にそっと触れた。

 晴香はその確かな温もりに自分の手を重ねた。


「うん」


 寄り添う二人の頭上に、明るい日差しに照らされた気の早い桜が咲いている。

 まるで未来に手を伸ばしているかのようなその花たちは、再会を果たした二人に良く似合っていた。

 肩を寄せ合った二人は、そんな花びらを眩しげに見上げ、また同じ道を歩き出した。

 あとがきと感謝。


 ご読了下さり有難うございました。

「加速する世界の入り口で」、「加速する世界ふたたび」、そして今作「加速する世界 時の彼方へ」の三部作はようやくここに完結いたしました。

 特殊な能力を持つ主人公はやたらと生真面目なうえ、肝心なところで腰抜けで、相棒の少女は天才的な行動力を持ち過ぎる頼りがいのある存在。

 そんな二人が加速能力の謎をめぐり、冒険を繰り広げる。そんな物語となりました。

 物語の初めは大志は高校二年生。晴香は一年生でした。

 大学生にまでなった二人は、いろんな冒険を経て、かなり逞しくなったのではないかと感じています。

 そして最大の試練を今作で乗り越えた二人に、少しお休みをさせてあげたいと思っています。

 やっと恋が実ったのに、お預けを食ったみたいになってしまった晴香は、きっとそんな時間をハングリーに取り返そうとするのでしょう。

 そうして堅実で大人しい少年と、天才的な行動力の少女はこれから加速能力というスパイスを加えて恋の物語を紡いでいく。そんな風に私は思い描くのです。

 さあ、お別れの時が来ました。

 二人に元気よく手を振って、またねと明るい声で見送ってあげましょう。

 きっとまた加総研の部室で再会できることを願いながら。


 最後に、お読みくださった皆様にたくさんの感謝を。

 本当にありがとうございました。


 ひなたひより

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