第11話 バイトはじめ
那岐空也が病院から姿を消してから三日が経った。
影山の雇った調査員からの見つかったという連絡もなく、大志達は那岐の出現に備えてひと塊で行動していた。
既に影山と仁美を襲撃しているあいつが失踪したという事は、当然何か仕掛けてくるに違いない。
頭の中からその事が離れず、大志は大学で普通に講義を受けていていいものなのかと考えてしまっていた。
それは影山も、黒川姉弟もそう感じているに違いなかった。
だがそう感じていないのが一人だけいた。
「ねえ先輩、これからはバイトでも一緒だね」
「そうだけど、バイトしてていいのかな」
以前晴香が言っていた、大志と一緒にバイトをしたいという希望を店長に話したところ、二つ返事で了承してくれた。
その理由は二つあって、ただ単に人手が欲しかったのが一つ。
そしてもう一つは、この間の迷惑な客を撃退した手腕を店長は大いに評価していたからだった。
晴香はさっそく、ちょっと可愛いウエイトレスの制服を着て上機嫌になっていた。
ホールにある鏡の前を通る度、そこに映る自分の姿を満足げに何度も眺めている。
確かにちょっと可愛い。
大志は誰かにちょっかい出されたりしないだろうかと心配になった。
厨房からはあまり見えにくい客席の方を、時々大志は晴香の姿を目で追ってしまっていた。
「気になるみたいだね」
店長に図星を言われて、大志は苦笑いを見せた。
「ハキハキしてていい子だね。丸井君の彼女なんだろ」
「あ、はい。まあそうです……」
「あそこの三人はお友達かい? 初めて見る顔ぶれだね」
四人席に収まってる三人は、影山と黒川姉弟だった。バイトがあると言ったら付いて来てくれたのだった。
ここにあの三人がいてくれたら当然ながら心強いわけだが、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
そんな気持ちもあって、大志は自腹で三人に甘いものをご馳走しておいた。
晴香はあんまり三人の事を気にしている感じはなく、新しい環境を愉しんでいるみたいだった。
なかなか手際がいいみたいだけど、結構お客さんと気さくに話してるな。なんかあいつ、スキだらけなんだけど……。
愛想良く晴香が男性客と話しているのに、いつの間にか大志はちょっとだけ妬いていた。
「きゃっ」
客席の方から聴こえた晴香の短い叫びに反応して大志は加速した。
頭の中でゴトリと音がしてキーンという耳鳴りがしだした。
「なんだ! 何があった!」
加速している状態なので、別に慌てなくてもいいのに大志は急いで晴香のもとへ走った。
そして大志は静止した加速世界で、晴香が目を真ん丸にして口を大きく開け驚愕の表情をしている原因をすぐに理解した。
つまり見たまんまだった。
なにに蹴躓いたのか、晴香の手から離れたトレーは、載っていたアイスコーヒーとミックスジュースを勢いよく前方に投げ出してしまっていた。
もしそのまま放っておけば、その先に座っていたサラリーマン風のおじさんが冷たい氷と液体をかぶっているに違いない。
「あちゃー。やらかしてるじゃないか」
大志は空中に浮かんでいるトレーを掴むと、今まさにおじさんに襲い掛かろうとしていたアイスコーヒーとミックスジュースを回収した。
加速世界の中では液体は少し弾力のある個体みたいに変化する。
大志はグラスから飛び出した液体を手で集めて回収し、トレーに乗せて厨房へと戻った。
そして加速が解けて事の成り行きを見守った。
「ごめんなさい!」
晴香は慌てて、ぶちまけてしまったはずのものを片付けようとした。
「あれ?」
手に持っていたトレーもグラスもない事に気が付いた。
慌てふためいていた晴香は紅くなって、何事かと注目した客にすみませんと謝ると厨房に走ってきた。
「ありがと先輩。やっちゃったかと思った」
「いいよ。それより、新しいの作るからちょっと待っててくれ」
「え? そのトレーに乗ってるのでいいんじゃない?」
「これは駄目。漂ってた液体を適当に入れちゃったからコーヒーとミックスジュースがいい感じで混ざってる。お客さんには出せないよ」
「そう。なんだか申し訳ないな」
大志は手早く代わりの飲み物を準備すると、トレーに載せて晴香に手渡した。
「ありがと。また危なくなったら叫ぶね」
「危なくならないように気を付けてくれよな。もし俺がいない時だったら大ごとだよ」
「それなら大丈夫」
晴香はトレーを持ったままニコリと微笑んだ。
「私はいっつも先輩の傍にいるんだから」
ちょっとだけ頬を染めて背を向けた晴香に、大志は不覚にもドキドキしてしまっていた。
思いがけず、可愛いじゃないか。
また晴香に手玉に取られている? 大志はちょっと頭の隅でそう考えていた。
その後も何か晴香が騒動を起こさないかとひやひやしたが、無事にバイトを終えて店を出る事が出来た。
街灯が灯り、そろそろ暗くなり始めていた。
寮に戻ってご飯を食べる予定だったので、そのまま大志達は一塊になってそぞろ歩いていた。
その中で歩実は今日の一瞬を目撃していたらしく、大志に加速しただろと聞いてきた。
「一瞬で空中に舞った色んなものが消えた。ホントに全く見えないんだな」
感心している歩実に、大志はやや謙遜しつつ苦笑した。
「ああ、みたいだな。俺は地味に散らばってるのを片付けただけなんだけど」
「フフフ。びっくりしたでしょ。あれがある限りどんなヘマをしても安心なわけよ」
「酷いな戸成さんは。丸井君が気の毒だ」
不敵な笑みを口元に浮かべた晴香は、またやってやろうかと言わんばかりだ。
そんな晴香に仁美は複雑な表情を見せる。
「聞いてはいたけど、本当にゆきちゃんから晴香ちゃんに引き金が移ったんだね」
「まあ、そういう事です。ね、先輩」
「まあ、そんな感じです……」
堂々とした晴香に比べ、人前ではっきりそう宣言するのに大志は控えめだった。
そんな大志の様子を見て、歩実が余計な一言を言った。
「なるほど、押しの強い戸成さんに押し切られたって感じか……」
「なんですって! もういっぺん言ってみなさいよ!」
晴香の逆鱗に触れた歩実はその後、延々とお叱りを受けていた。
そしてやっと解放された後、大志は歩実に、よくあいつを選んだなとすごい奴を見るような眼差しを向けられたのだった。




