第6話 黒髪の君、それから
新学期を迎えた大学の敷地内を二人の学生が歩いている。
明るい笑顔で他愛ない話をしながら次の講義に向かう二人は、大勢の学生たちの中でも異彩を放っていた。
どことなく似通った顔立ちをしている二人は、二卵性双生児の双子だった。
一人は女の子。もう一人は男の子。
二人とも、街を歩けば大勢の人たちが振り返りそうな美形だった。
特に長い黒髪の美しい姉は、一度見たら忘れられないほどの美人で、大概の男たちは気後れしてしまい、逆に近寄り難い雰囲気すらあった。
春風がふわりと艶のある黒髪を舞い上がらせる。
頬にかかる髪を何気ない仕草でかき上げた涼しげな目元の女の子。
その美貌の持ち主の名は黒川仁美といった。
「なあ、姉さん。今年からあの元気印の娘、あの丸井君を追いかけて東北に行ったんだろ」
思い出したように、弟の歩実が仁美に尋ねた。
「うん。ゆきちゃんからそう聞いた」
「すごい奴だな。相変わらず目的は必ず達成するハングリーな奴なんだな」
「晴香ちゃんはそうゆう子なの。あの子はこうと決めたら必ずやり通す怖ろしい子よ。知ってるでしょ」
「それであいつを射止めたってわけか」
チクリと気にしている所を突かれて、仁美は弟の尻を平手で叩く。
「なにが言いたいのよ」
少し膨れて仁美は歩実を置いてさっさと先を急ぎ、歩実は機嫌を損ねた姉に小走りについて行く。やはり姉に頭が上がらないのは変わらないみたいだった。
大学の部活。仁美は手芸部に入っていた。
今日もパッチワークを仕上げるために静かに奮闘していた。
女子しかいないこの部活に、人見知りの仁美が飛び込めたのは、あの忘れられない出会いがあったからだった。
あの特別だった春から二年が経った。
たった一学期間の思い出だったが、大切な友達と貴重な冒険をした。
そして忘れられない初恋。
思いを伝える事の無いまま、さよならをしたあの人の事を今でも思いだす。
世界一速く動ける力を持ちながら、いつも必死に誰かのためにフウフウ言っていた。
今頃どうしているのかな。
遠い東北の地で大学生活を送っている筈のあの気弱な笑顔を、仁美はまた思い浮かべてしまうのだった。
少し遅くなった帰り道。
大学を出て駅に向かう道すがら、仁美は時々立ち寄るたい焼き屋で足を止めた。
ちょっと頑張った日に、自分へのご褒美として週に一、二度くらいで買い食いしていた。
いつもは弟の歩実と並んで座る店先のベンチ。もしかすると遅れて歩実が現れるかも知れない。
弟を待ちながら、一人でぎっしり詰まった甘いあんこを味わい、至福の時を感じていた。
「今日は歩実、遅いな……」
先に帰ったのだろうか。もしそうなら大概連絡をしてくる。しょっちゅう携帯の充電を切らしてしまっている歩実に、そっちの方かもと想像した。
あまり食べるのが早い方ではない仁美が、たい焼きを食べ終えても歩実は姿を見せなかった。
必ず同じこの道を通る筈なので、先に帰ったのだと仁美は解釈し、備え付けの椅子から腰を上げた。
仁美はまた駅までの道を歩き出す。
何となく買い食いを習慣にしてしまっているのは、きっとあのたこ焼き屋の事が頭に残っているからなのだろう。
熱々の時はそこそこ美味しくて、冷めたらまあまあのたこ焼き。
あの人はそう言って、おばちゃんの店のたこ焼きを何度か奢ってくれた。
私はいつも、美味しいと思ってたんだよ。
友達同士、笑顔の絶えなかった狭い店内。
食べ終わった後も、時間を忘れておしゃべりした。
あのおばちゃんもずいぶん私たちに粘られて気の毒だったな。
仁美は脚を進めながら少し口元をほころばせた。
駅に続く遊歩道。
街灯が灯り始めた舗装路に、どこからか夕食を作っていそうないい匂いが漂ってくる。
今食べたばかりなのに、仁美はお腹が空いている事に気付く。
お母さん、今日はなにを作ってるんだろう。
そんな事を考えながら歩いていた時に後ろから声を掛けられた。
「あの、すみません」
仁美は振り返って、声を掛けてきた見知らぬ男に目を向けた。
ジャケットにジーンズ姿、髪の毛を茶色く染めている。同じ大学の学生だろうか、おおよそ同い年くらいに見えた。
「黒川仁美さん?」
「はい。そうですけど」
名前を呼んできたので顔は知らなかったが、同じ大学の学生であると見当をつけた。
背が高く、日本人にしては、はっきりした顔立ちをしている。
笑顔を作ってはいたが、目には独特の鋭さがあった。
この手の手合いに仁美は何度も告白されていたので、この見覚えのない男も、もしかするとそっちの方なのかもと想像していた。
人通りの無いこの道で、普通なら相当身構えそうな場面だが、いざとなれば仁美には特別な力があった。
その気になれば一瞬で相手を虜にし、操る事の出来る仁美には、たとえ相手がおかしな行動に出たとしても切り抜けられる自信があったのだった。
その男にはどこか高慢な雰囲気があり、口元に気取った笑みを浮かべて近づいて来た。
ひょっとして自分がカッコいいと思ってる? 仁美はなんだかいけすかない感じを受けつつ、男の話を聞いた。
「少しいいかな。話があるんだ」
「ごめんなさい。ちょっと急いでて、ここでいいなら聞きますけど」
「そこの公園まで付き合ってもらえたら嬉しいんだけど、駄目かな」
「それはちょっと、ごめんなさい」
「じゃあ、手短に……」
言葉が終わらないうちに、男は仁美に飛び掛かり、素早く口を塞いだ。
「ん、んんー」
「騒ぐな、大人しくしてろ」
仁美は抵抗したが男の力には抗えず、そのまま公園の裏手まで連れて行かれた。
口を塞がれた仁美は、暗示を掛ける事が出来ずにそのまま男に押し倒された。
「大人しくしてろ。すぐに終わらせてやるから」
男は仁美の目の中を覗き込むように、顔を近づけてきた。
恐怖に目を大きく見開いた仁美のすぐ近くまで顔を寄せてくる。
ジタバタともがく仁美に、しばらく男はじっと覆いかぶさったまま何かをしているみたいだった。
そして、息のかかる距離にあった男の顔がようやく離れた。
「やっぱり駄目か」
男は苦々しく吐き捨てると、仁美の口を押さえたまま体を起こした。
そのまま身動きの取れない仁美の体を舐めるように眺める。
「しかし、噂に違わぬ美人だな、ついでに頂いとくか」
男の片方の手が仁美の胸に伸びて来た時だった。
ガッ!
大きな打撃音がして男が仁美から離れた。
頭を押さえてふらつきながら男は後ろを振り返った。
そこには木の枝を手に持ち、怒りを剥き出しにした歩実の姿があった。
「おまえ、何やってんだ……」
歩実の声がおかしい。
仁美はこれから何が起こるのかを察して、とっさに耳を塞いだ。
「いてえじゃねえか……」
ふらつきながら男が立ち上がった時だった。
歩実の口から激しい衝撃音が放たれた。
至近距離で歩実の衝撃波を受けた男は、十メートルほど跳ね飛ばされていった。
打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくない程の衝撃波を受けて、男の体は木の幹に激突した後、そのまま崩れ落ちた。
それでもしばらくして、男はうめき声を上げながら立ちあがった。
ボロボロになった服とあちこちから流れる血が、歩実の能力の凄まじさを物語っていた。
「ううう……」
男は口から血反吐を吐きながら、歩実に背を向けて逃げ出そうとした。
歩実はふらつきながら逃げようとする男に近づき、もう一度背後から衝撃波で吹き飛ばした。
仁美は冷静さを失いかけている歩実に駆け寄った。
「歩実。もういいわ。少し落ち着いて」
「でも姉さん、こいつは」
「押さえつけられただけだから、私は大丈夫。力を暴走させないで」
「能力を見られた。始末した方がいい」
「それは駄目。丸井君ならそんな事絶対しないわ」
そのひと言に歩実は反応した。
「分かったよ。でもあいつをどうする?」
「暗示を掛けて記憶を封印するわ」
「無駄だよ。恐らく鼓膜が破けている。姉さんの声は聴こえない筈だ」
「そうよね。歩実の言うとおりね……」
その時、大学生の一団が駅の方にやって来るのが見えた。
体育会の部活が終わった学生たちが、この時間帯になると大勢通るのだ。
「まずいな。あいつらに見られたら騒ぎ立てられるかもしれない」
「どうしよう、放ってもおけないし」
しかしその後、信じられない事が起こった。
二人が学生たちに注意を惹きつけられている間に、あれだけボロボロになっていたはずの男は、いつの間にか姿を消していたのだった。
 




