第2話 大学の始まり
大学に入ってから初めての学生食堂。
明るい日差しが射し込む窓側の席で、晴香は大志とテーブルを挟んで向かい合い、大きな期待感を胸に定食に視線を注いでいた。
「これは、なかなか美味しそうだわ……」
大ぶりなカキフライ定食を、明るい学生食堂の雰囲気もあってか、晴香は満足げに平らげた。
「はー、美味しかった。前に教授と食べたアジフライ定食も美味しかったけど、今日の日替わりも大満足だよ。ここの食堂みんな美味しいのかな」
寛ぐ晴香を眺めながら、まだ食べ終わっていない大志は箸を進める。
「みんな美味いよ。米がいいのかな」
「私は水かなって思う。お米もそうだけど野菜も美味しかったし」
先に東北大学に入って一年を過ごした大志は、何もかもが新鮮そうな晴香の事を一年前の自分と重ね合わせていた。
「日替わりの定食で一番人気は木曜日なんだ」
「じゃあ明後日だ」
「チキン南蛮定食なんだけど量がすごくって、それにあのタルタルソースが何とも言えないんだ」
「私、それ絶対食べる」
ニコニコして夢中でしゃべている晴香を眺めながら、大志は内心ちょっとドキドキしていた。
なんか可愛いじゃないか……。
ちらちらと晴香の事を大志は観察する。
普段スカートを履かないのに今日はスカートだからか?
いや、ひょっとして薄っすらとメイクしてる?
単にちょっと大人っぽくなってきたとか……。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、うん、聞いてるよ。チキン南蛮だろ」
「その話はもういいの。部活の話」
「あ、ああ、その事ね」
「もう何よ、私が目の前にいるのに他の事考えるなんて」
考えていたのはその目の前の女の子の事だったのだが、大志は勿論何も言わなかった。
「先輩の入ったクラブってなんだったっけ?」
「前にも言ったと思うけどワンダーフォーゲル部だよ。篠田教授が顧問をしてて誘われたんだ」
「なにそれ? 一体何するの?」
「主に登山かな。スキーとか沢登りとかもするけど、山岳部ほど高い山には上らないんだ」
「へえ、柔道じゃなくってそっちなんだ」
「ここの柔道部は強すぎ。とてもじゃないけどついてけない。ワンゲル部は初心者も多いし、急いで何かをするわけでも無いから俺向きかなって」
「ふーん」
その時、大志は背中から声をかけられた。
「丸井君」
声を掛けられた方に大志は振り向く。晴香もそちらに視線を向けた。
そこにはちょっと清潔感漂う、優しそうな感じの女の人が立っていた。
「坂井先輩」
大志は座ったまま会釈した。
「誰よ」
晴香は小声で、ちょっと不満げに大志に訊いた。
「先輩だよ。クラブの」
優しそうな先輩はニコニコ笑いながら、二人の座るテーブルまでやって来た。
「新入生ね。坂井美里です。ワンダーフォーゲル部の副部長をやってます」
「戸成晴香です」
晴香は立ち上がって会釈した。
「丸井君の彼女?」
大志はそう言われて動揺する。
「へへへ」
何だか言葉が出なかったので笑って胡麻化した。
そんな大志を晴香が睨む。
「もし良かったら部に見学に来て。できれば体験入部してくれたら嬉しいな」
それだけ言って坂井美里はじゃあねと去っていった。
大志も手を振って見送る。
「痛った!」
テーブルの下で大志は晴香に脛を蹴とばされていた。
「何よ、へへへって!」
晴香は猛烈に怒ってる。
「今鼻の下伸ばしてたでしょ。私がいないことをいいことに一年間何してたのよ!」
「何にもないよ。坂井先輩はただの先輩だって」
晴香は疑いの目で大志の目の奥まで覗こうとする。
「もし浮気したら先輩を滅多刺しにして殺してから、私も毒を飲んで死んでやるんだから」
「それ俺だけ滅茶苦茶痛いやつじゃないか……」
「とにかく絶対許さないんだから」
「分かってるよ。俺には晴香だけだよ」
「えっ」
晴香はちょっと驚いた後、頬を紅く染めた。
大志も言ってしまった後で気が付いた。
「と、とにかく信用してくれって事だよ」
大志はなんだか照れくさそうに横を向いてブツブツ言った。
晴香はそんな大志の顔を覗き込む。
「もう一回言って」
「だから信用してくれって」
「その前だって」
「滅茶苦茶痛そうだって」
「その後よ!」
晴香は執拗に大志の言った言葉をもう一度言わせようと迫った。
大志は晴香と絶対目を合わせない。
「さ、午後からの講義に行かないと……」
さりげなく大志は席を立つ。
「逃げる気? 卑怯者!」
大志は罵倒されつつ晴香に背を向けた。
こうして晴香の大学生活は始まったのだった。
四月半ば、大志に誘われてワンダーフォーゲル部の見学に来た晴香は、部員たちの手厚い歓迎を受けていた。
「早速来てくれたのね。ようこそワンダーフォーゲル部へ」
先日食堂で声を掛けてきた坂井美里が晴香の訪問を歓迎してくれた。
部員は全部で十人程いたが、女子部員は美里ともう一人だけで、あとは男子だった。
そして、あの篠田教授もこの部活の顧問をしていたので部室に来ていた。
「歓迎するよ。よく顔を出してくれたねっ」
よっぽど晴香の事を気に入っているのだろう。教授はとにかく満面の笑みで晴香を迎えた。
他の部員も大志の連れてきた女子に、好奇心をありありと見せている。
「いや、ホントに? 丸井が女子を連れてくるなんて。しかもこんな可愛い子を」
三回生の男子部員が、晴香を頭からつま先までじっと見た後そう言った。
どうやら相当興味がある感じだ。
見た目でちょっと可愛いと思ったかも知れないが、中身を知ったら考えも変わるだろう。
大志は何も分かっていない先輩のだらしない顔を眺めながら、そう思っていた。
晴香は可愛いと言われて嬉しかったのだろう。ニコニコしてやたらと機嫌がいい。
大志は皆に晴香を紹介した。
「同じ高校の部活で一緒にやってたんです。まあ、途中で転校して行ったんですけどね。戸成、自己紹介してくれ」
大志に促され、晴香は堂々と十人程の部員の前で自己紹介した。
「理工学部、戸成晴香です。よろしくお願いします」
拍手の後、以前学食で話しかけてきた坂井美里が、晴香に質問を投げかけてきた。
「戸成さんは篠田教授と高校時代から交流があったって聞いたけど」
「ああ、それはですね」
大志が応えようとした時に晴香が手を上げた。
「それは、私から説明します。篠田教授とは私が高校一年の時からのお付き合いなんです」
篠田教授は嬉しそうに、雄弁に話す晴香の話を聴いている。
「当時私と丸井先輩は教授の打ち立てた加速理論に共感して、その可能性を探るべく活動をしていました。この大学を選んだのも教授がここにいるというのが一番の理由です」
晴香の今の言葉で教授は早速泣いていた。
恐らく晴香はわざとやっている。大志は熱く語る晴香の行動を見抜いていた。
「加速理論って、ホントに? 夢みたいな話だし難しいしで、大学では誰も教授について行ってないのに」
意外だったらしく、質問した美里だけでなく他の部員も分かり易い関心を示した。
「皆さんは気付いておられないかも知れませんけど、教授の加速理論は我が母校では生徒会役員も加わって毎日のように研究した素晴らしいものです。そうですよね、先輩」
「え? ええ、そうなんです。それはもう、毎日のように研究に没頭してました」
教授は感動を抑えきれず、鼻をズルズル鳴らしながら泣き続けている。
この感じだと晴香のいる四年間、教授はこいつの言いなりに違いない。
「でも加速理論って、実際に加速できるやつなんていやしないんだろ」
さっき晴香を可愛いと言っていた先輩が口を挟んだ。
晴香はニヤニヤしながら大志の方に視線を送る。完全にこの状況を愉しんでいるみたいだ。
「夢みたいだとお思いでしょうが、理論が正しければ、加速する者は必ず存在します。ひょっとしたらこの部室に何食わぬ顔で紛れ込んでいるかも知れませんよ」
感極まって泣きくずれる教授を横目に、晴香は高らかにそう言ったのだった。




