第2話 災いの蓋
那岐空也。
日本のオートバイレースの世界に突然現れた天才児。
高校生で全日本ロードレースのライダーとして鮮烈なデビューを果たした彼は、レース業界だけではなく、一時マスコミに大きく取り上げられ話題になった。
だがこの一年、世界選手権から撤退して全日本に参戦してきた選手に負け続け、やはり世界で戦っているレーサーとは格が違うと囁かれ、誰も那岐空也に注目しなくなった。
しかしこのグランプリの三戦目に考えられ無いような事が起こった。
世界選手権から戻って来て、今シーズンもトップの成績を獲得していた日本人ライダー、布施拓海が事故死したのである。
それは不思議な事故だった。
スタートしてすぐの第一コーナー。
明らかに加速し過ぎた布施のバイクは、おかしなブレーキングをしたためタイヤをスリップさせ、そのまま吹っ飛んでいったのだった。
そしてライダーは頸椎を折ってそのまま亡くなった。
トップライダーらしからぬ簡単なミスで命を落とした事に、何があったのかと様々な方法で検証されたが、バイクには問題はなく、操縦ミスとして片付けられた。
絶対に起こりえない筈の事故。
それが影山の目にとまった事で、本格的に調査は始まった。
もと看護士の話を聞いて、那岐空也の情報を調べていた矢先に起こった事故だった。
影山はある推論を立てて、その推論を証明しようと那岐のこれまでの足どりを詳しく辿り始めた。
那岐は調べれば調べるほど、完璧に近い男だった。
中学高校と成績はトップレベル。運動能力も図抜けており、何度も部活を代わっていたが、そのいずれの部でもエースとして活躍していた。
おおよそ加速能力を持つ者には敵わないだろうが、普通の人間の中では何もかもがトップレベルの天才だと言えた。
だが、調べているうちに派手な経歴を持つ那岐の陰で、不可思議な現象が起こっている事を影山は知った。
まず不審に思ったのは、那岐が中学の時、最初に入ったバスケットボール部での話だった。
今も中学の部活の顧問をしていた先生の話してくれた内容が、不可解だらけだった。
那岐はこれまで遊び程度しかバスケをしていなかったそうで、入部したては、まるでボールを扱えていなかった。
他の一年が少しずつ上達していく中、あまり練習に身を入れているように見えない那岐は、他の部員から段々置いていかれるようになった。
だがある時、部活内で大きな問題が起こった。
三年生でエースだった先輩が突然辞めたのである。
顧問は何があったんだと、辞める理由を問い詰めて、その理由をようやく聞き出した。
バスケが出来なくなった。その生徒はそれだけを口にして部活を去っていった。
それからすぐ、那岐は見違えるような選手になった。
まるで別人のようにドリブルし、切れのあるシュートを打つ。
総合的な動き、判断力、何もかも優れた選手となり、あっという間にレギュラーとなった。
それはまるで、辞めていったエースのようだったと顧問は話していた。
影山はこの話を聞いた時点で、那岐が特別な何かを持っていると確信していた。
そして布施拓海がレースの事故で無くなる直前に、那岐と二人きりで会っていたという情報を影山は手に入れたのだった。
その事が影山の仮説を確信に近いものに変えた。
恐らく那岐は何らかの方法で他人の能力を奪い自分の物にしている。
影山はこうして災いの元凶に行きついたのだった。
影山は自分の事を、常に冷静に物事の大局を見極められる人間であると自負していた。
だが那岐の情報を探り真相に近づく自分に、言葉に出来ない快感を影山は憶えていた。
その事が冷静さを自負していた男の行動にほころびを生じさせたのだろう。
影山は那岐に近づきすぎた。
レース場を出てホテルに戻った影山は、今日は一泊してから明日の列車で帰る予定だった。
夕食をレストランで採って、部屋に戻ろうと廊下を歩いていた時だった。
「そこの君」
背中から声を掛けられて振り返った影山は大きく目を見開いた。
そこにはスーツ姿のあの那岐空也がスラリと立っていた。
切れ長の目をした端正な顔立ちの口元には薄っすらと笑みが貼り付いていた。
周りには誰もいない。
影山は動揺を隠そうとしながら、落ち着いた声を意識して返事をした。
「どなたですか?」
那岐はゆっくりと影山に近づいてきた。
「どなたは無いだろ。レースを観戦してくれてたじゃないか」
何もかも見透かされている。影山は自分が危機的状況にあることを知った。
「ええ、レースには行きましたけど、どちらさまでしたっけ」
「とぼけるなよ」
顔は笑ったまま、冷たい声が那岐の口から出た。
「ずいぶんと俺の事を嗅ぎ回ってるみたいじゃないか」
「あなたの? さあ、何のことか……」
影山の言葉は途中で那岐に止められた。
詰め寄った那岐の腕が影山の喉に押し当てられて、そのまま壁まで押し込まれた。
影山は息もできないくらいに喉を圧迫されて、ジタバタともがく。
苦しむ影山の顔が赤黒く染まっていく。
「胡麻化すのか? まあ、構わないけどな」
那岐はさらに影山の喉を腕で押し込んだ。
もがく影山だが、両手で引きはがそうとしても食い込んだ腕は全く動かない。
身体的な能力が圧倒的に違う。影山はもがきながら腕力では歯が立たない事を冷静に分析していた。
そして那岐は腕を少し緩めた。
やっと開いた気道に空気を入れてむせかえる。
「ゲホ、ゲホゲホ」
「唾を飛ばすなよ。いいスーツなんだ。さあ、言えよ。何の目的で俺の事を嗅ぎ回ってたんだ」
「き、君のファンなんだ。だから……」
那岐は再び影山の喉を腕で圧迫した。
「くだらねえ事言ってんじゃねえ。俺の過去を色々と嗅ぎ回ってたのは知ってんだ。こっちから行こうと思ってたところに自分から来てくれて助かったぜ」
「ぐ、ぐうう」
見る見るうちに影山の顔がどす黒く変わり、目が血走って来る。
那岐は影山を押さえたまま少し顔を近づけた。
「まだ気を失うなよ」
那岐は影山の目を覗き込むようにじっと見る。
何かを探っている。飛びそうな意識を何とか保ちながら影山は頭のどこかでそう感じていた。
頭の中に白い靄がかかりだした特、那岐は驚いたような表情をし、少し腕を緩めた。
「おまえ、おかしな物を持っているな」
影山は何かに気を奪われている那岐の脇腹に、ポケットに忍ばせておいたナイフを突き立てた。
「ぐうう」
あばら骨に阻まれた感触があったが、抑えつけていた腕を喉から解放するには充分だった。
影山はせき込みながら、那岐に背を向けて走りだした。
廊下の一番奥にあるエレベーターのボタンを押して振り返る。
那岐は脇腹を押さえながら怒りの形相で影山に迫って来ていた。
那岐の手が影山に伸びかけた時に、エレベーターのドアが開き始めた。
誰かに見られる事を嫌ったのだろう。エレベーターの中に三人程乗っているのを目にして、那岐は背を向けた。
そして影山は落ち着いてエレベーターに乗り込んだ。
とんでもないものの蓋を開けてしまったのではないだろうか……。
平静を装ったまま影山は、背筋が凍り付くような感覚を感じていた。




