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活字と朝顔【ショートショート】

作者: 藤トビラ


 僕が大学に通いながら新聞配達を住み込みでやっているのは、それなりの理由がある。

 ひとつは、親への金銭的な負担を軽くする事。僕の父親は祖父の時代から町工場で小さな歯車を作っている。以前は、企業からの発注も沢山とはいえずとも定期的に来ていた。しかし、今では発注も数えるほどしかなく、父と母は家の電話がなるたびに一喜一憂している。まるで危篤人がいる病院からの電話を待っているような雰囲気で、いつも家の中は重い空気が漂っていた。

 ふたつめに、僕は家中に漂う鬱々とした空気から単に抜け出したかったのだ。ひとつめの理由よりは、こちらの方が本音に近い。親不幸者だと、世間は非難するだろうか。僕は逃げたかっただけだ。その空気の澱みは渦を巻き、家を巻き込み、そして家族を呪い殺すのだ。巻き込まれたくはない。澱みの中心は果てないほど底は見えず、得体の知れない何かが後ろ側で大きな口を開き、僕を食い殺そうとしているように思えたのだ。

 しかし、悲しいかな。それが社会の縮図とも言える。とある下町にある工場の跡取り息子である僕が逃げ出したところで、社会の根底にあるシステムに対抗するのに全く意味がなかった。ただの時間稼ぎにしかならずとも、自分は抗ってみたいと家を出た。

 人が自らの苦痛から逃れようとする時に働く真理があることを大学の友人から聞いた。それは苦痛から眼を逸らすこと。苦痛の根本を消去すること。そして苦痛を感じる自分自身を排除することであるという。

 という僕は、死のうと考えたときは一度も無かった。二次成長期、つまり、思春期に味わう生死の苦しみと痛みについて頭を巡らす事はなかった。僕のなかで生とは、美味しい物を食べ、早寝早起きと規則正しい睡眠、親しい女性とのSEX、日課のマスターベーションという認識である。死に関してもただの生理現象だと考えている。昔の偉大なメンヘラ文豪のように、四六時中、死について考えることもなかった。僕は三大欲求を心の底から欲しているから、考える余裕もない訳である。

 このことを大学の知り合いである彼に言うと、彼は僕を幸せものだと笑う。生死に関して淡白で無関心でいることがなぜそんなに幸せなのだろうかと僕は思う。僕は人の死に触れて、泣いたり寂しい気持ちになった事はなかった。祖母が亡くなったときも、僕は涙を流さずにいた。冷たい祖母に触れても僕は『冷たい』以外の感情はなかったのだ。

「君はなぜ死に関して無関心なんだろうね?」そう彼はいう。

「ただ一つ言いたい事は、無関心と初めからそこに存在してないとのでは意味が異なる。僕は多分後者なんだろうね」と僕はいう。

「じゃあ、こう質問を変えよう。なぜ初めから存在していないんだろうね?」

「知らないよ、そんな事」

 彼は眼を細めて、学食のカレーを食べながら僕を見つめる。

「いや、違うな、君の悲しみは確かに君の心の中にあるはずなんだ。人はそういう生き物だと僕は思う。例外はなく遺伝子に埋め込まれた種子なんだよ。嫉妬や憎悪や欲求のように心身の成長と共に外側へ出てくるんだ。まだ、君の中にある種が芽を出していないだけだと僕は思うな。」

「人間じゃないとしたら?宇宙人かもよ」僕が言うと、彼は笑う。

「自分がおかしいと思うかい?」

「少しはおかしいと思うよ」

「例えるなら?」

 僕はその問いにしばらく黙り、頭を巡らすとある言葉が浮かんだ。

「例えるなら……そうだな。歯車がかけた時計だよ」

 形としての『時計』という名前はあるが『時計』として機能していないものだ。つまり、それは無価値であるに違いない。



 夏の終わりが近い。そんな日だった。前日に雨がふったのもあるだろうか。嫌な湿気がシャツに纏わりついて、いつも以上にペダルが重く感じた。早朝、僕はいつもの通りに3時過ぎに目覚める。慣れてくれば別に苦にもならなかった。新聞の仕分けをし、いつものカブに乗り込みセルを回す。そして、朝霧の中を走った。誰も周りにいないことを確認して僕は田んぼのあぜ道で大声を出した。日課の発声練習だ。

 お得意様の彼等にとって1日の始まりの挨拶が僕になる。だから、挨拶には気が抜けない。元気のない声で適当に返されれば、僕ならばいい気はしないと思う。嫌なことがあれば僕も態度に出やすい方だ。だが、そこは我慢して明るく元気よく発声している。おかげで、僕の新聞配達員としての評判はすこぶる良かったし、近所の人もよく声をかけてくれる。たまには野菜をくれる老人もいるし、何も仕事に不満はない。

 ただ出会う人達が毎日一緒なので仕事に何の新鮮味は感じられなかった。気にする事といえば、その日の天気くらいなもので、他に気に留めるものなど皆無だった。しかし、どういうわけか。その日は新しい人に出会ったのだ。別に新しい配達先が増えた訳でもない。たまたまその時間、早朝に彼女が庭先にいただけの話だ。

 この住宅街から少し離れた家の住人は夫婦だけと聞いていたから、少し妙な気がした。が、いるものだから仕方がない。帰省でもしているのだろう。彼女はただ庭先の縁側から、玄関にいる僕を見つめている。黒目の大きな二重の目は全てを見透かされてように、澄んで透明だった。

「おはようございます。配達ご苦労様です」

 同い年くらいの彼女が頭を下げる。Tシャツから覗く、胸元に眼がいく。ただ白い。そこに何の性的衝動などなく、僕はただ単に「白い」とそう感じた。胸元に殆ど膨らみはなく、化粧もしていないせいで年下に感じた。

「おはようございます。新聞入れておきますね」

 僕は新聞を配達すると彼女に一礼し、家を後にした。ミラー越しに後ろに目をやる。彼女はしばらく庭先にある朝顔の前にうずくまり、じっと見つめていた。

 次の日も彼女は昨日と同じように、縁側にいる。片手にブリキの如雨露を持って、水色のワンピースを着ていた。妙に絵になる光景だった。

 今日は僕から挨拶をしようと声をあげた。

「おはようございます。早いですね」

「ええ、早く目が覚めてしまって」

 彼女は、庭先の朝顔に眼をやる。彼女のワンピースのような花弁が頭を下げていた。水をあげたばかりなのだろう。かすかに表面に水玉が数適見受けられた。

「綺麗な朝顔ですね」

「綺麗ですよね。でもちょっと残念なんです」

「どうしですか?」

「枯れてしまうんです」彼女は当たり前のことを、酷く悲しんだ。

「でも、また来年の夏には見れますよ?」

「いいえ。でも、私は同じ朝顔でも、この朝顔が好きなんですよ。そう決めたので」

 彼女はまた悲しい顔をし、指先で軽く朝顔をなでる。すると、一滴の水滴が葉を伝い、そして土にかえった。



 僕はその彼女のことを友人に話した。

「それは不思議だね。何が不思議かと言われると表現しづらいんだけど、言葉の節々のニュアンスで君がなにを伝えたいかは、何となくわかるよ」と、彼は言った。

「僕もうまく表現はできないんだけどさ。前髪に髪がくっついてるよ」僕は彼の額を指差し、そう伝えた。

「そういう君もへばりついてるよ。それはそうとして、今日はいつも以上に暑いね。さっき講義受けている最中に、救急車のサイレンが数台なっていたよ」

「この暑さで、熱中症になる人もいるだろうし。最悪、亡くなる人ももしかしたらいるかもしれないな」

「ああ...本当に今年の夏は暑くなりそうだね」

 僕はその亡くなるという言葉に、何の前触れもなく彼女が僕の頭に浮かんだ。頭に浮かんだ彼女は、朝顔を見つめるときのような悲しい顔をしていた。



 やはりその次の日また次の日も、彼女はあの時間にそこに座り朝顔を見ていた。僕が来ると、挨拶をし朝顔の話を彼女はする。今日は水をやりすぎただの、肥料は何がいいのか?と僕に尋ねたりもした。あいにく僕にそういう知識はないので明日までに調べておくと言っておいた。

 肌寒くなったある日、彼女は姿を見せなかった。朝から台風がきていて酷い雨が降り続いている。以前も、嵐の朝もあったが彼女は縁側にいたのに。

 台風が過ぎ去った次の朝は、彼女はまたその場所にいた。

「おはようございます、昨日は珍しくいませんでしたね」

 彼女は太陽がまぶしいのか手でヒカリを遮るように、眼を隠している。

「ええ、昨日はちょっと起きれなかったんです。いつも使っている時計が壊れていて、二度寝してしまって」恥ずかしそうに彼女は笑った。

 すると彼女はポケットから懐中時計を取り出し、僕に見せてくれた。真鍮で古びた懐中時計だ。中を見ると、3時で針は止まっている。

「ああ、このせいで...」

「そうなんです、昔から使っていたものなんですけど……残念です」

「時計屋に持っていって直してもらったらいかがですか?」

「いいえ、もう良いんです。寿命だったんでしょうし、この時計はもう役目を終えたのです」時計を見ながら彼女は言った。

「もったいないですね。こんなに良い時計なのに」

「中身を入れ替えてまで、第二の人生を歩ませようとはどうしても思わなくて」

「大切に使われていたんですね。懐中時計もきっと嬉しいと思いますよ」

「ありがとうございます」

 彼女はその時、初めて笑ったと思った。長い黒髪が涼風に揺れる。ひとつ呼吸をおいて、風は勢いを増し、朝顔も揺らした。朝顔から水が地面に流れ落ちた。

 そして、僕は言ってから気づいたのだ。彼女に放ったすべての言葉は自分自身に当てられているものだと。カブを走らせ、僕はまたいつものように振り返る。すると、彼女は朝顔を見る彼女とはまた違う表情で、じっと僕の後ろ姿を眺めていた。



 それから数日、彼女は会うたびにいつも笑っている。それを見るたびに僕は、初めて彼女の表情を見たときの違和感と危うさは消え失せていくのを感じた。何か今にも崩れ落ちそうだった輪郭は、はっきりとその彼女を象っている。一度、枯れそうになっていた朝顔も元気を取り戻したように、生き生きとしている。

 僕はそんな彼女の変わっていく様子を、大学で彼にいつも話していた。そんな彼は僕を何か恋でもしているようだと笑ったが、僕はそんなことはないと話す。

「それが恋と呼ぶのかもしれないよ。君はきっと出会ったときから、もしかしたら彼女に恋をしているのかもしれないね。もし、それを確かめたかったらまずは彼女の名前くらい知っておかなきゃいけないんじゃないかな?君は彼女の名前さえ知らないんだろう?」

「恋と呼ぶにはいささか早計だと思うけどね。ただ名前くらい聞いたとしてもいいとは思っているよ」

 次の朝に聞くと半ば強制的な約束をさせられた。何の聞ける保証はないよ、と言ったら彼は別にかまわないと言ってくれた。ただ、緊張で食事ものどを通らなかった。

 今日は雲一つとない快晴だった。蝉の音はない。どの軒下の朝顔も枯れている。

 僕が彼女の家に訪れるとそこに彼女はいなかった。家は以前の夏のように静まりかえっている。それだけのことだ。以前に戻っただけなのだ。僕は自分自身にそう言い聞かせた。

 枯れた朝顔。そして、朝顔のそばに懐中時計が落ちている。それを拾い上げようと僕はしなかった。そうだとも、この夏は死んだのだ。

 僕は溢れてくるものを止められなかった。止める為に少しだけ、上を向いた。横切る風がそれをぬぐい去り、どこかへ運んでいく。君も同じ気持ちであって欲しいと、まぶしい夏の終わりに願った。



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