Cafe Shelly 気がつけばそこに
まさか、という出来事が起きた。悪い出来事ではない、夢のような出来事だ。
今日はバレンタインデー。今年は日曜日ということもあって、義理チョコの数も減るだろうと予想。まぁボクの職場では女子社員一同がみんなに安物のチョコをひとつずつ配るというのが恒例だったのだが。今年は金曜日に早々と配布終了。その他といえば、取引先から、なぜか男性からチョコレートをもらったりすることも多いのだが。
あともらうとすれば、飲み屋のママさんくらい。けれど日曜日にわざわざ取引先にも飲み屋にも行かない。だから、チョコレートは職場の女子社員からのものだけ。そう腹をくくっていたのだが。
「あの…今日午後からお時間ありますか?」
突然かかってきた電話。それはボクがあこがれていた受付嬢の五十嵐ゆりさんからだった。彼女は名前の通り、ゆりの花のように清らかで女性らしい人。男性社員の憧れの的でもあった。彼女に密かに恋心をいだいているヤツは多い。そのゆりさんからなんとバレンタインデーにお誘いの電話があったのだから。もう天にも登る気持ちでいっぱいだった。
でも、何のお誘いだろう? まさか、ボクとデートだなんて。そんなことはありえない…かも。
かも、と言ったのは実はちょっとした心当たりがあるから。会社の新年会の時のこと。ゆりさんとは部署が違うので、当然のごとく新年会は別の場所。だったのだが、二次会に向かう途中でゆりさんの部署とたまたま合流することができた。そのとき、ちょっとした事件が起きた。
同僚の松村が思いっきり酔ってしまって、こともあろうにゆりさんにからみはじめたのだ。せっかくの楽しい場がこのままでは台無しになってしまう。このとき、ボクもちょっと酔っていたのだろう。勢いで松村に説教。一瞬、場は凍りついてしまったが、ゆりさんの最悪の事態はまぬがれた。
その後、場を盛り返そうとボクは思いっきりバカをやってしまった。カラオケで似てもいないモノマネを披露したり、替え歌で笑いをとったり。今思い返すだけで恥ずかしい。でもそのおかげでボクの評価は高くなった。
そして今日の電話。これはひょっとしたらこの前のお礼ってことなのか? これで彼女いない歴二十七年の歴史に幕を閉じることができるかもしれない。そう思うと緊張してくる。どんな服を着て行けばいいんだ? スーツってのはちょっと行き過ぎだし。かといって普段着でデートに着て行けそうなものは持っていない。ちくしょう、もっと着ていける服を持っていればなぁ。とりあえず自分の持っている服の中でそれなりのものをチョイス。
「やべっ、時間だ!」
腕時計を見るとかなり時間が迫っている。この腕時計もだいぶくたびれてる。ブランドものでもないし、確か倒産品とかで安くかったやつだ。靴だってそう。ビジネスシューズ以外はスニーカーしか持っていない。そのスニーカーも靴の安いところで買った二千円ちょっとのもの。ちょいとほころびもでてる。
自転車にまたがって、待ち合わせ場所の駅前まで急ぐ。この自転車も、先輩が福引で当たったのを安くで買ったママチャリ。最近ブレーキがキーキー鳴っている。
よく考えたら、ボクっていいものは一つも持っていないじゃないか。こんなんじゃゆりさんとは釣り合わないよなぁ。
自転車を走らせている途中、ピッとクラクションを鳴らす車が横に。真っ赤なスポーツカーだ。
「よぉ、裕之じゃねぇか」
それは同期の柴田であった。あいつ、そういえば株で儲けたとか言ってたな。それで車を買ったのか。ボクにもこんな車があれば、ゆりさんをドライブに誘えるのに。こんなオンボロ自転車じゃどこにも連れていけないや。
「あわててどこに行くんだ?」
柴田がそう聞いて車さか、今からゆりさんとデート…いや、デートじゃないかもしれないけど。とにかくゆりさんと会うなんてことは口が裂けても言えない。
「あ、ちょっとね」
とお茶を濁してみたが、柴田はしつこく絡んでくる。
「裕之ももっといい格好しないと。女の子にはもてねぇぞ。オレは今から彼女を連れてドライブに行くんだけどよ。車くらい持ってねぇとダメだぞ」
柴田はそう言って去っていった。ったく、やなヤツだ。しかし柴田の言うことももっともなんだよなぁ。やっぱ金がないとダメかぁ。といっても、今の給料じゃなぁ。
自転車をこぐ足がペースダウン。今の自分がゆりさんに会うのって、本当にいいんだろうか。ついそんなことを考えてしまう。そうしているうちに待ち合わせ場所に到着、ゆりさんは先に来ていた。
「ごめんなさい、遅れちゃって」
「遅れてなんかないわよ、まだ約束の時間前だし。木原さん、自転車で行動するんですね。なんか健康的だなぁ」
ゆりさんはにっこり笑ってそう言ってくれる。でも、逆にちょっと恥ずかしい。
「いや、車でも持っていればいいんだろうけど。こんなオンボロ自転車しか持ってないし…」
それ以上言葉を続けられなかった。
「ねぇ、ちょっと歩かない?」
ゆりさんはそう言って先に歩き始めた。ボクはゆりさんに追いつこうと、自転車を押していく。
「あのさ、この前はありがとう。木原さんが助けてくれたこと、すごくうれしかった」
やっぱり松村の件か。
「それでね、どうしてもお礼がしたくて。私、ステキなところを知ってるの。そこにご招待しようと思って」
ステキなところってどこだろう? そこで一瞬、男ならではの妄想が広がってしまった。ひょっとしてステキなホテルで、ステキなことをしてもらえる…いやいや、清らかなゆりさんに限ってそんなことはないだろう。それに、真昼間からわざわざ歩いてそんなところに行くなんてことはありえないし。でも、車があったら…さっきの柴田のことを思い出した。あいつ、今からデートなんだろう。うまくいけば、彼女をホテルに連れ込んでいいことやるんだろうなぁ。
「ん、木原さんどうかしたの?」
ボクが無言で妄想を膨らませていたので、ゆりさんが顔をのぞきこんできた。
「あ、いや、ちょっと…今の状況が信じられなくてとまどってた」
口からでまかせの言い訳だが、半分は本当のこと。まさか、ゆりさんとこうやって肩を並べて街を歩くことができるなんて。
「木原さんって、休みの日はどんなことして過ごしてるの?」
「木原さん、趣味は?」
「木原さん、好き嫌いとかある?」
ゆりさんは気兼ねなくボクに話しかけてくれる。それに対して気の利いた答えをしようと思うけれど、ありきたりのことしか返すことができない。休みの日はブラブラするかDVDを借りて見ている、趣味っていうほどのものは持っていない、嫌いなものは人参とピーマン。うぅん、言えば言うほどつまらない人間だなと実感。なんだか思ったように会話が続かない。後から気づいたのだが、ゆりさんから質問されたら、ボクの方から同じように返せばよかったんだ。会話するより無言の時間のほうが長かったように思える。
「ここなの」
そうしてゆりさんが連れてきたかったところに到着。
「ここって?」
ゆりさんが立ち止まったところには雑貨屋が。ここに連れてきたかったのかな? そしたらゆりさん、その雑貨屋の横にある階段を登り始めた。二階が目的地なのか。ボクはゆりさんの後に続いて二階へ上がる。
カラン、コロン、カラン
心地よいカウベルの音。そのとたん、甘い香りが中から漂ってきた。
「いらっしゃいませ」
中に入って始めてわかった。ここ、喫茶店なんだ。
「こちらへどうぞ」
案内されたのは窓際の半円状になっているテーブル席。四人がけなのだが、すでに二人が座っている。
「なんかいい香りがする。落ち着くなぁ」
ゆりさんが言うとおり、なんだか落ち着く香りがする。見渡すと今日はカップルが多い。いや、カップルばかりだ。カウンターは四席あり、そこにも二組のカップルが。中央には丸テーブルがあり、そこにもカップル。相席の二人もカップルだ。
「あの…今日はこれを持ってきたらサービスがあるって聞いたんですけど」
そういってゆりさんが出したのは一枚のチケット。そこにはこう書いてあった。
『バレンタインデーにカップルでおいでの方にはバレンタインチョコクッキープレゼント』
なるほど、それでボクを誘ったのか。ゆりさん、クッキーが欲しかったのかな?
「木原さん、あらためてこの前はありがとう。これ、お礼も兼ねて。はい」
ゆりさんはバッグから包みを取り出しボクに手渡した。
「えっ?」
「チョコレート。今日はバレンタインでしょ」
「あ、ありがとう」
急にドキドキしてしまった。手に汗もかいている。
「あの…その…」
言葉をかけようとするけど何も出てこない。くそっ、もっと気の利いた男だったらよかったのに。
「あ、注文がまだだった。ここのオリジナルブレンドコーヒーが人気なんだって。それでいいかな?」
ボクの沈黙を破ってくれたのはゆりさん。ゆりさんは本当に気がきく女性だ。
「うん」
ボクはそれしか返事ができない。そしてまた沈黙。あらためて周りを見回す。ボクが目にしているのはカップルの男性。みんなそれなりにカッコいい。服装もキマッテいるし、髪型だってアイドルみたいだ。それに比べてボクは…情けない。なんだか惨めになってくる。
「あのさ…その…」
「ん、なぁに?」
思い切ってゆりさんに聞いてみよう。そう思ってもなかなか言葉が出てこない。ボクの聞きたいこと、それはなぜボクを誘ったのかということ。この前のお礼というのはわかる。けれど、こんなダサい、何もいいところを持っていないボクが今ここにゆりさんといることが許されるのか。それを聞いてみたかった。でも、その言葉が出てこない。
そうやってモジモジしていると、コーヒーが運ばれてきた。クッキーも一緒だ。
「はい、シェリー・ブレンドです。飲んだ時にちょっとびっくりするかもしれないけれど」
ウエイトレスさんの言葉が気になる。びっくりするってどういうことだろう? とりあえず飲むか。
ボクはコーヒーを手にし、ゆりさんの顔をちらっと見た。このとき、ゆりさんの表情に驚かされた。なんという幸せな顔なんだ。まるでどこか夢の国にでも行ったような感じ。心ここにあらず、と言った方がいいだろう。
「ゆり…さん?」
ボクがそっと声をかけたところで、ゆりさんの表情がパッと変わった。現実に戻ったという感じだ。
「木原さん、このコーヒーすごいよ。わぁ、幸せってこんな感じなんだ」
ゆりさんの言っている意味がわからない。何を興奮しているんだろう。ボクは何気にコーヒーを口にした。その瞬間、心の中のボクが大変身を遂げた。
真っ赤なスポーツカーに乗って、ファッショナブルな服を着て、粋な会話で人々を楽しませる。家も今の一間のオンボロアパートではなく、ちょっとリッチなマンション。何も持っていない今とは真逆の世界。自信にあふれ、みんなから憧れの的となっている。そして隣には一人の女性が。その顔を見ようとしたとき…
「ね、木原さん、すごいでしょ!」
ゆりさんの声でハッと我に返った。今見たのは何だったのだろう?
「やっぱりうわさ通りだった。ここのコーヒーを飲むと、今自分が望んでいるものが見えるんですって」
そんなバカな。でも、さっきボクが見たのは間違いなく望んでいるものだった。赤いスポーツカー、ファッショナブルな服、粋な会話、リッチなマンション、他にも欲しいものが沢山ある。こんなのが手に入れば、憧れのゆりさんだってボクのものになるだろう。こんなのが手に入れば、ボクは幸せになれるに違いない。逆を言えば、ボクが今より幸せになるためには、こういったものを手に入れなければならない。でもそんなお金もないし。どうしたらいいのだろうか? ボクはまた無言になる。
「木原さん、どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないです」
「ね、このクッキーも食べてみましょうよ」
「そうだね」
なんかつまらない会話。ゆりさんの言葉にボクが答えるだけだ。ボクみたいなのといて、ゆりさんも退屈だろうなぁ。
ゆりさんのすすめでクッキーも口にする。そしてまたコーヒーをすする。すると、さっき見た光景がさらに強く頭に浮かんでくる。今度はゆりさんと車でドライブに行く光景まではっきりと見えた。けれどすぐに虚しさが襲ってくる。だって、そんなふうになれるわけがないから。ボクには幸せなんて訪れないんだろうなぁ、とまで思えてきた。
でも、目の前にゆりさんがいる事実はうれしい。この日、ゆりさんと一緒に入られたことはボクとしては信じられない出来事だった。が、一緒にいればいるほど、そしてシェリー・ブレンドを飲めば飲むほど今の自分が情けなく感じてきた。
それを考えるたびに落ち込むボク。何一つ持っていないボクじゃぁ、ゆりさんの期待には応えられないよな。そのせいで、ボクは最後に信じられない言葉を口にしてしまった。
「あ、今日は夕方からちょっと用事があるから。そろそろ帰ろうか」
一方的にボクに話しかけてきてくれたゆりさんの言葉をさえぎって言ってしまったセリフ。用事も何も無いくせに。この場にいるのがだんだんと辛くなってきたんだ。
「あ、そうなんだ。じゃぁ出ようか」
ボクの言葉に嫌な顔ひとつせず、むしろ天使のような微笑を投げかけてくれるゆりさん。お勘定くらいはボクが出そうとしたところ、
「今日はバレンタインだから私におごらせて」
とゆりさんから言われた。なんだか男として情けないなぁ。こんなときにカッコよく財布を出すことができないなんて。
ゆりさんがお金を払っているとき、この喫茶店のマスターがボクに小声で話しかけてきた。
「これ、後で読んで」
そう言ってメモ紙を手渡したのだ。なんだろう、これ? マスターから渡されたメモはポケットに入れ、店を出る。
「じゃぁ、また明日会社でね」
ゆりさんと店の前で分かれることに。なんだか半分ホッとした。本当なら別れを惜しむところなのに。
何度も思うことだが、今のボクじゃゆりさんには釣り合わない。せめて柴田みたいな車を持っていればなぁ。オンボロ自転車にまたがり、今の自分の状況を情けなく思いながら家路についた。家に帰りつき、何気なくポケットに手をやる。すると一枚の紙に手が触れる。あ、そういえばマスターからメモをもらったんだった。なんなんだろう。
メモを開いてみると、こんなことが書いてあった。
「おせっかいかもしれませんが、なんだか悩みがあるように思えました。もしよろしければ、またお店にお越しください。お力になれると思います」
なんだ、これ。新手の勧誘広告にも見えるぞ。ボクはメモをクシャクシャに丸めてゴミ箱へ。そして敷きっぱなしのせんべい布団に寝転がった。
ふぅ、せっかくゆりさんとお近づきになれるチャンスだったのに。どうしてボクはこんなに気が回らないかなぁ。そもそもボクが何一つ持っていないのが悪いんだ。かっこいい車も、洒落た服も、ゆりさんにおごるお金も、そしてセンスも。もっとお金があれば、もっとセンスがあれば、もっと度胸があれば。もっと、もっと、もっと…
そう考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。目がさめたのは夜中の二時過ぎ。
「あちゃっ…」
お腹も空いたし、シャワーも浴びなきゃ。カップラーメンを作り、シャワーを浴びて着替をする。ふと携帯に目をやると、メール着信のランプが点灯していた。誰だろう?
『木原さん、今日はカフェ・シェリーにつきあっていただきありがとうございました。おかげで自分の望む未来がはっきりしてきました。またぜひ一緒に行きましょうね ゆり』
ゆりさんからだ。しかもまたのお誘い。こういうメールを送ることなんてのも頭になかった。気のきかない男だな、ホントに。でもゆりさんの望んでいた未来ってなんだったんだろう。それを聞きそびれたな。それにあのコーヒー、ホント不思議だった。ボクが望んでいるものを本当に見せてくれたし。あの喫茶店ってなんなのだろう?
そう思ったとき、あのマスターから手渡されたメモを思い出した。
「おせっかいかもしれませんが、なんだか悩みがあるように思えました。もしよろしければ、またお店にお越しください。お力になれると思います」
お力になれると思います。あのマスターがボクにどのように協力をしてくれるというのだろうか。やっぱなんかの勧誘なのかな。しかし気になる。どうする、もう一度あの喫茶店カフェ・シェリーに行ってみるか? もう一度寝床につきながら今度はそれを考えながら眠りについた。
翌日、いつものように出勤。受付ではゆりさんがさわやかな笑顔を周りにふりまきながらあいさつをしている。
「おはようございます」
ボクの方を向いてニコリと笑う。
「あ、おはようございます」
いつものようにあいさつをするボク。だが気持ちはいつもとは異なる。ゆりさんが特別な存在であるという意識と同時に、ボクみたいな人とはつり合わない人だという意識。ゆりさんにつり合うにはどんなものを身に付けなければならないのだろうか。でも、こんなこと誰にも相談できない。
「木原さん、どうかしたの?」
ボクがボーッと立っているのを見て、ゆりさんは不思議そうな顔でボクに声をかけてきた。
「あ、いや、なんでもないです」
そう言ってそそくさとゆりさんの前から立ち去るボク。あちゃっ、嫌われたかなぁ…。その日、ボクは仕事が手につかなかった。どうすればいいんだろう。そのことばかりが頭の中をグルグルまわっていた。そして出した結論がこれ。
カラン、コロン、カラン
夕方六時前にその扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
可愛らしい女性の声。つづいて男性の低く渋い声で
「いらっしゃいませ」
が続く。結局来てしまった、カフェ・シェリーに。
「あ、昨日の。よかったらこちらにどうぞ」
「あ、はい」
マスターはボクの顔を見るなり、カウンター席へと案内してくれた。カウンターには一人の男性が座ってコーヒーを飲んでいた。メガネをかけた長身で、そのしぐさがなんかカッコいい人だな。
「あの…」
ボクがマスターに声をかけようとしたとき、マスターは隣の男性にボクを紹介し始めた。
「羽賀さん、さっきお話したお客さんです。よかったら話しを聴いてあげてもらえないですか?」
「あぁ、マスターの頼みならよろこんで」
えっ、この人とボクが話しをするの? でもどうしてだろう。ボクはマスターに相談しようと思って来たのに。マスターは続けてその羽賀さんと呼ばれた男性をボクに紹介し始めた。
「こちらは私の友達の羽賀さんといって、コーチングをやっている方なんですよ。羽賀さんは今まで多くの人の悩みを解決しています。とても信頼できる方ですから、よかったら相談してみてください」
羽賀さんはにっこり笑って「よろしく」と声をかけてくれた。その一瞬で、この人はなんだか信頼できる人だと感じることができた。ボクにもこんなことができるといいのにな。
「さっきマスターから聞いたよ。昨日、彼女とここに来たけれど、なんだか浮かない顔をしていたようだね。おっと、名前をまだ聞いていなかったな」
「あ、はい。木原裕之といいます」
「裕之さんか。あらためて、羽賀純一といいます」
羽賀さんは右手を差し出し、ボクに握手を求めてきた。ボクはついそれにつられて握手。
「マスター、裕之さんのどこが気になったのかもう一度教えてくれないかな」
「えぇ、昨日見ていたら、彼女に対しての何か恐れというか不安みたいなものを感じたんですよね。せっかくのバレンタインで彼女とデートに来ているのに、どうしてだろうと思ったんです。直感ですけど、ひょっとしたら彼女に対しての悩みを何か持っているんじゃないか、そう感じたんですよ」
「なるほど。裕之さんは今のマスターの話しを聞いてどう思ったかな?」
「あ、はい。今マスターが言われた通りです。実はゆりさん…昨日一緒に来た女性ですが、まだ彼女というわけじゃなくて…」
「なるほど、それでか」
「ん、マスター、何か気づいたことがあったのかな?」
「えぇ、裕之さん、なんだか自分に自信がないように見えたもので。何度も自分の服や時計を見ては、しまったというような顔をしていましたから」
図星だ。昨日はゆりさんと会話を重ねる度に、こんな自分が情けないと何度も思った。それが態度に出ていたようだ。
「はい、実はその通りなんです。ゆりさんは会社の受付嬢で、みんなの憧れのまとなんです。先月の新年会の時に、同僚がゆりさんにからんでいたところを助けてあげて。そのお礼ということで昨日は誘われたんです。でも、ゆりさんとボクじゃ月とスッポンです。普段のボクは何一ついいところがないし」
「いいところがない、というと?」
羽賀さんのその質問で、ふだんボクが抱いている自分自身への不満が爆発した。
「お金もないし、車だって持っていない、昨日みたいなデートで着て行く服もないし、持ち物だってブランド品なんて一つもないし。それだけじゃありません、気の利いた会話ができるセンスもないし、昨日はありがとうって言う心遣いもできていない。やさしさもなければ、仕事の才能だってない。何一ついいところがないんです」
一気にしゃべってしまった。
「はい、お冷です」
そのタイミングでウエイトレスの女性がお冷を持ってきてくれた。その半分を一気にノドに流し込む。
「落ち着いたかな? さて、今自分で自分のことを話してみて、どんな気持ちだい?」
羽賀さんの質問でボクが思いついた答えはこうだ。
「なんだか自分が情けなくて。どうしてこんなに何も持っていないんだろうって思いました。別に無駄遣いしているつもりはないんだけど、貯金もないし、財産になるようなものも持っていないし。同じ給料で他のヤツは車を持っていたり、いい服を持っていたり、ブランド物のアクセサリーを持っていたりするのはどうしてなんでしょうね?」
言いながら、また自分が情けなくなってしまった。が、このときウエイトレスの女性がボクにこんな言葉をかけてくれた。
「そんな裕之さんにゆりさんは心惹かれたんでしょ」
そんなボクにゆりさんが心を惹かれた? 本当に心を惹かれたのだろうか。こんなボクなのに、ゆりさんは本当にボクのことを思ってくれているんだろうか。そのことを口にしたら、ウエイトレスさんはこう回答してくれた。
「女性がバレンタインデーという特別な日に一緒にいる人を、どうでもいいと思うってことはないですよ」
「そ、そんなもんなんですか…」
ボクはゆりさんの気持ちに目を向けていなかった。ボク自身のことばかり考えていた。でも、こんなボクのどこを気に入ってくれたのだろうか?
「裕之さん、ここでちょっと面白いことを教えてあげましょう」
羽賀さんが小声でボクにささやいた。なんだろう、面白いことって。ボクはそっと羽賀さんに顔を近づけた。すると羽賀さんは周りに聞こえるか聞こえないかくらいの微妙な小声でボクにこんなことを教えてくれた。
「実はね、ここのマスターとさっきの子、マイちゃんは夫婦なんだよ」
「えーっ!」
これには驚いた。どう見てもかなり年の差がある。
「ははは、かなりびっくりしたみたいだね。まぁそういうことなんだ」
マスターはカップを磨きながらニコニコしてボクにそう言ってくれた。
「マスター、まさかこんな若くてきれいな女の子と結婚できるなんて思わなかったでしょ」
羽賀さんの問い掛けにマスターはこう答えてくれた。
「えぇ、こんな中年のおじさんと結婚してくれる人がいるなんてね。私も以前は高校の教師で、お金があるわけじゃないし車だって中古のオンボロに乗ってたし、服もダサいし、ブランド物なんて何一つ持っていませんでしたよ」
「そうよねぇ、どうしてこの人と結婚しちゃったんだろう? なぁんてね」
ウエイトレスのマイさんはおどけてそう言った。けれどその言葉は逆に愛情を感じさせるものだった。
「ははは、ボクから見ればマスターほどマイちゃんにとって必要なものを持ち合わせている人はいないと思ってるけどね。車でもお金でも洋服でもない、そして気の利いた言葉でもない。本当に必要なものをマスターは持っているんだよ」
羽賀さんはマスターに対して何かを見抜いている。そんな気がした。
「でも、ボクはゆりさんにとって本当に必要なものなんて持ってませんよ」
「いや、持ってるよ。ただ裕之さん自身がそれに気づいていないだけ。それに気づきさえすれば、今のままでいいと思えるようになるよ。そして、本当の幸せってのに気づくだろうね」
「本当の幸せ?」
「そう、本当の幸せ。あ、そういえばまだ注文もしていなかったね。よかったらシェリー・ブレンドを飲まないか? 今日はボクがおごるよ」
「あ、羽賀さん、そんな…」
「マスター、裕之さんにシェリー・ブレンドね」
「かしこまりました」
ボクがもぞもぞと遠慮をしているうちに、羽賀さんにコーヒーをおごってもらうことになってしまった。マスターがコーヒーを入れてくれている間、羽賀さんがこんなことを聞いてきた。
「裕之さん、さっき車も服もお金もないって言っていましたよね。じゃぁ、そういった望むものが全て手に入ったら、生活はどんなふうに変わると思いますか?」
「生活、ですか。そりゃ満ち足りたものになるでしょうね。それに、ゆりさんに対しても堂々と胸を張って付き合えるし」
言いながら頭の中で想像をふくらませていた。かっこいい車に乗って、かっこいい服を来て、ブランド物を身につけ、気の利いた言葉でゆりさんとドライブしながら会話を交わす。なんだか幸せを感じるな。
「じゃぁ、それらを追い求めること、それが今の裕之さんの目標になるのかな?」
「そうですね」
そう言いながらも、自分のセリフに少し違和感を感じた。なんだろう、これ。
「で、そういうものを手にするのは何のためですか?」
「何のためって…ゆりさんと対等に付き合えるようになるため、かな…」
「ということは、ゆりさんと対等に付き合えることが目的なんだ。で、ゆりさんはそれを望んでいるのかな?」
「いや、それは確認はしていませんが…でも女性ってそういうものじゃありませんか?」
ここでマスターが口を挟んだ。
「女性ってそういうものだったら、私はマイとは結婚できなかったですね。マイは特に何も持っていない私と一緒になってくれたんですよ」
「でも…でもマスターには人柄とかそういうのがあるじゃないですか。やっぱり気持ちが大事なんじゃないですか?」
ボクは口から先にその言葉が出てしまった。
「あれっ、裕之さんさっきと言っていることが違いましたね。さっきはゆりさんと対等に付き合うためには、車や服が必要だって言っていたのに」
羽賀さんの言葉は嫌味ではなく、ボクに何かを気づかせようという感じ。羽賀さんの笑顔はボクの気持ちを安心させるものだった。物やお金よりも気持ちが大事。自分の言った言葉を再度かみしめるボク。
「はい、シェリー・ブレンドです。私の特性クッキーもぜひ食べてくださいね。裕之さん、これできっと心の奥で望んでいる本当の姿が見えてくると思いますよ」
マイさんが運んできたコーヒー、シェリー・ブレンドとクッキー。これでボクの心の奥で望んでいる本当の姿が見えてくる。それを見るのはちょっと怖い気もするけれど、でもそれを見ることで前に進めそうな気もする。ボクは思い切ってクッキーを一かじりし、コーヒーを口に含んでみた。一瞬にして目の前の光景が変わった。
薄いピンク色で、ハートが飛び交うような感じ。そして目の前にいるのはゆりさん。そしてボクは…なんと何も身に着けていない。まるっきりの裸。といっても、いやらしいイメージはそこにはない。ゆりさんは裸のボクを見て微笑んでくれている。裸だから笑っているのではない。何も身に着けていないボクを選んでくれた。ボクの何を見て選んでくれたのだろう?
そう思ったときに、ゆりさんがこんな言葉をかけてくれた。
「今、あなたと一緒にいること、それが幸せなの」
一緒にいること、それが幸せ。その言葉をかみしめてみた。ゆりさんはボクに何かを望んでいるわけではない。ただ一緒にいるだけでいい。ボクもゆりさんには何かを望んでいるのではない。一緒にいるだけで幸せを感じる。そう、お互いに何も無くてもいい。そこに愛情があればそれでいい。うん、それでいいんだ、それで。
「裕之さん、どうだったかな?」
羽賀さんの言葉で目が覚めた。今まで見たのは夢だったのだろうか?
「あ…っと、そうだった、喫茶店の中にいたんだ」
「で、どんな光景が見えたかな?」
羽賀さんに質問されたが、裸だったなんてちょっと恥ずかしくて言えないな。
「そ、そうですね…えっと…なんて言うか…」
うまく説明できない。
「誰か出てきたかな?」
「あ、はい。ゆりさんが…」
「で、どんな気持ちになった?」
「はい、一緒にいるだけで幸せな気持ちになりました」
「そのとき、裕之さんは車や服やブランド物は持っていたかな?」
「いえ、何も、何一つ持っていませんでした。ゆりさんはボクと一緒にいること、それが幸せだって言ってくれました」
「そうか、じゃぁ裕之さんはそこから何を感じたかな?」
ここでボクは考えた。ゆりさんが望んでいるのは車や服やブランド物ではない。ボク自身なんだ。今いるボクそのものを見てくれているんだ。なのにボクはボクじゃないボクを見てもらおうとしていた。車や服やブランド物、それらに注目してもらおうとしていたんだ。ゆりさんがバレンタインデーにボクを誘ったということは、ボクそのものを見てくれていたってことになる。なのにボクはそれに気づかずにモジモジしていたのか。
そのことを羽賀さんやマスター、マイさんに伝えてみた。
「裕之さん、そこに気づいてくれたんだね。本当の愛情は物や見た目から生まれるものじゃないんだよ」
「でも…」
羽賀さんにそう言われても、まだ自信がない。
「大丈夫よ。だって、私がマスターに恋をしたくらいなんだから」
マイさんがウインクをしてそう言ってくれた。それとボクのこととは直接関係ないけれど、なんだか勇気が湧いてきた。
「裕之さん、まずはそこにある幸せ、それをしっかりと味わってみませんか。何かを持っていないと幸せになれない。そんなことはないんですよ。気がつけばそこに、幸せはあるんですから」
「はい、ありがとうございます」
まだ正直なところ、自信満々に胸を張ってゆりさんの前に立つことはできないだろう。けれど、ゆりさんが昨日のバレンタインデーにボクを誘ってくれた。そのことは事実なんだから。誰かに気に入られようと、無理をして何かを持とうとする。それは意味の無いことだということはわかった。今の自分でいいんだ。今の自分をゆりさんは気に入ってくれたんだから。今日はカフェ・シェリーに来てよかった。
「マスター、羽賀さん、マイさん、ありがとうございます」
「うん、今度来たときには嬉しい報告があることを願ってるよ」
そうしてボクはカフェ・シェリーを後にした。空を見上げると、満天の星空。それを見られたことで、なんだか幸せを感じることができた。
よし、がんばるぞ!
そして翌日。
「おはようございます」
いつもの笑顔でゆりさんは受付でみんなにあいさつをしている。
「おはよう!」
今日はボクの方から手を振り笑顔で声をかけた。
「あ、木原さん、おはようございます。今日はなんだか元気ですね。何かいいことあったんですか?」
「うん、ちょっとね。ねぇ、この前のお礼に一緒に行って欲しいところがあるんだけど。今度の日曜日は空いていますか?」
「えっ!?」
ゆりさんは一瞬戸惑った様子。
「あ、そのお返事はまた後で…」
あれっ、ひょっとしてフラれちゃった? 次々と出社してくる社員の波。徐々にその流れに押されるように、ボクは一旦職場へと足を運ぶ事になった。仕事についても頭はゆりさんのことでいっぱい。さっきは何かまずかったかなぁ。だんだん、気弱なボクに戻りつつあるのが実感できた。せっかくカフェ・シェリーで自信をつけたのに。やっぱりバレンタインのことはボクの錯覚なのかな。頭に浮かぶのは悪いことばかり。もうゆりさんとデートなんてありえないかも。あぁ、もうダメだ…
「おい木原っ、お前たるんでるぞ!」
課長にまでそう怒られてしまう始末。やっぱボクはダメ人間なのかなぁ。そして失意のままお昼休みを迎えた。
「はぁ…やっぱボクじゃダメなのかな…」
コンビニで買ったパンと牛乳。それを抱えて近くの公園のベンチで昼食。今日はとても暖かく、公園にはたくさんの人がいる。空も青いし、のどかな天気。けれどボクの気持ちは落ち込むばかり。
「はぁ…」
「そんなに落ち込んで、どうしたんですか? お仕事で何かミスでもしちゃいましたか?」
えっ!? 声のする方に振り向くと、そこにはゆりさんが。
「木原さん、一緒にいいですか?」
「あ、はいっ」
ゆりさんはお弁当を抱えている。ボクはあわててベンチをひとり分空けてゆりさんを迎え入れた。
「ど、どうしてここが?」
ボクのその質問に答えることなく、ゆりさんはお弁当を開きながら話を始めた。
「今日は気持ちいいですね。ほら見て、あっちの方で小さい子どもが遊んでる」
何を話しかければいいんだろう。迷っていたら、またゆりさんの方から言葉が。
「木原さん、誘ってくれてありがとう。日曜日は美樹と約束してたの。ほら、隣にいた受付の子」
やっぱり断られるのか。それを覚悟してうつむくボク。
「でも、それ断ってきちゃった」
ボクはパッと顔を上げてゆりさんの方を見つめた。ってことは…
「日曜日、どこに連れていってくれるのかな?」
「あ、えっと、か、カフェ・シェリーにまた一緒に」
「うん、私もまた行きたかったの。そしてもう一度未来を見たいの」
ゆりさんのその笑顔は、今のボクにとって一番の幸せをもたらしてくれた。そうか、これでいいんだ。ボクが欲しかったのはこれなんだから。車でも、洋服でも、ブランド物でも、気の利いたトークでもない。これが欲しかった、ゆりさんの笑顔が。
「ところで、ゆりさんが見たい未来ってどんなの?」
「えっ、それは…」
ここでゆりさんは急にハニカミだした。やべっ、聞いちゃいけなかったんだろうか?
「それはね…今度一緒にカフェ・シェリーに行ったときに話すね。じゃぁ木原さんはどんな未来を見たいの?」
「えっ、えっと…」
まさか、ゆりさんと一緒に過ごしている未来なんて今は言えない。
「じゃぁさ、今度カフェ・シェリーでシェリ・ブレンドを飲んだ時に見た未来、これを正直に話すっていうのはどう?」
そう言ってボクに微笑みかけるゆりさん。
「うん、そうしよう」
その微笑につられて、ついそう言ってしまった。けれどそれも悪くはない。今の自分、それをありのままゆりさんに見てもらい、ありのままの自分で幸せをつかむ。
気がつけばそこにある幸せを。
<気がつけばそこに 完>