鍋の夢追い人
「おっ邪魔しまーす!」
彼女は読書に勤しんでいた僕の部屋に朗らかかつ露骨に不法侵入をしてみせた。
彼女の髪には庭に生えた大樹の葉がのっかっていて、空いた窓から入ってくる春風はまだ寒い。三寒四温とはよく言った物だ。じゃなくて!
「おお、どうしたの?急におっきな声出して」
「おま…」
彼女のいつにも増して自由な態度に、はっとして今日の日付を見た。
…ああ、そうか。もう明日で僕らは離れ離れになるんだ。今日までずっと目を反らしていた。
「浮かない顔してるなー、明日卒業だってのに」
「別に」
「ほら、今も。私には分かっちゃうんだよなぁ!」
得意げな彼女の笑みはしかし、心の底からの物ではないようだった。
だから僕は、彼女の言葉を否定はしなかった。そういえばいつの事だったか、彼女が留学するって知ったのは。
「ねえ、私卒業の日に留学するの。イタリアに。何年かは分かんない」
「…へえ、いつから?」
「2ヶ月後。急だけど、ごめんね」
「いいよ。恋愛と夢なら、そりゃ夢のほうが大事でしょ」
彼女は少し、難しい顔をした。
「まあね。頑張って来るよ。絶対ね。だから柊も受験頑張って」
「…おう」
優柔不断気味な彼女が決断したのは、やはりギリギリになってからだった。もしかすると彼女はその時ですら、まだ迷っていたのではないか。いや、多分それを聞いたときも、僕は彼女が迷い続けている事に気がついていた。見て見ぬふりをしていただけだったような気すらする。
あれから二ヶ月経った。
稀にしか見せない弱さを称える彼女に、僕は何をした?
彼女にどんな言葉をかけ、どんな気持ちを伝えた?
迷っていた彼女の背中を押したのか?それとも僕のために行かないでくれ、と引き止めたか。
否。
何も、出来なかった。しなかったのだ。彼女の抱える重荷を、僕はカッコつけて手伝うでもなく。持つのを辞めろと咎めるでもなく。ただひたすらに、見ていただけだった。
「私ね、お腹すいたの」
時計の針を見ると、7時を回っている。今も目に悲しげな色を含んだ彼女の、もう聞くこと無くなるかもしれないわがままだ。
「何が食べたい?」
「うーん。なんだろう。せっかくだから、柊に任せるよ。暖かい料理がいいなぁ」
彼女は外に目をやりながらそう言った。
目を瞑って冷蔵庫を開けて、常備しておいたこんぶ出汁を鍋に注ぐ。ちょうど買っておいた白身魚と、彼女の好きな鶏肉を出汁に沈め、長ネギを大きめに切る。大根、豆腐。白菜も入れよう。
コンロにかけ、火をつけた。グツグツ煮立った鍋に、最後に豆乳を注ぎ、すり胡麻を彩りにした。
「おお、豆乳鍋だ。分かってんじゃん!」
「寒いしね。やっぱり冬の定番だろ」
「そうそう。鍋敷き!お箸!あったあった。よし、食べよ」
「おう」
二人で黙々と箸を動かす。豆乳の香りは口に優しく、ボリュームが無いわけではない。不思議だ。こうやって鍋をつついていたら、身体だけじゃなくて心も温まる気がする。
「美味しいね」
でもそれは、多分彼女が。一緒に美味しそうに食べてくれる人が目の前にいるからで、こんな事だってもう出来ないかもしれない。
「明日、どこで何時からだ?」
「ん?」
「イタリア飛ぶのだよ。見送り行く」
彼女はふふっと寂しそうに笑う。そして、鍋に残った最後の魚を攫っていった。
「いや、見送りはいいよ。これは私が迷った末に流されてした決断だから」
「どういう…」
「来ないで」
「なんで!?」
「別に。私が来てほしく無いからだよ」
彼女がふっと自分の膝に目をやる。
最後の肉に手を伸ばした彼女を見て、僕は瞬速で肉を奪い取った。
「嘘付け」
「嘘じゃない」
「本当に嘘なんだったら。そんな悲しそうな目、してない」
僕は彼女を笑って送り出さなきゃいけない。彼女にそんな目をさせたのは僕だから。
「この二か月ごめん。ずっと、悩みを担いでやることも、引き留める事も出来なかった」
彼女は何も言わない。ただ床を睨みつけている。
「ずっと、悩んでたんだよな。お前の事だから、多分一度決めてはしまっても昨日までは悩み続けてたんだろ?」
「ほんと。馬鹿だよなぁ。俺。分かってたのに、何もできなかったんだ。いつかいつかって先延ばしにしてったらもう今日なんだよ。もっと早くお前に手を差し伸べていれば。選択を導いてやれれば。そんなに苦しむ事もなかったろうに。ほんとにごめん。」
「俺は寂しいよ。すげえ。できればずっとお前と居たかったし、なんなら一緒に住んでも、将来縁側で日向ぼっこしてる時、隣にお前が居たら幸せだったかもしれない。とまで思ってた事もあったんだ。だから、頑張って来いよ。連絡だってするなって言わない。でも、何年かかったって、自分の夢は叶えてくれよ。2ヶ月前の、ずっと前から言ってたじゃねえか」
そう言って、黙り込んだ彼女の皿にすっかり冷めた鶏肉を載せた。
ぽろぽろと、涙を流しながら鶏肉を一口で食べる彼女の髪を、サラリと撫でる。
「あの、さ、」
「ん?」
「絶対引っ越さないで」
「引っ越さないよ。十年は。この家も新しいし、独り暮らしは楽しいし。大学も近く通うから」
「彼女は作らないで。とは言わないから。でも、彼女できたなら、しっかり振ってね」
「そんなネガるなよ。絶対作んねえから安心しろ」
「…じゃあ、もし、帰ってきたら、また鍋食べに来ていい?」
「…夢、叶えたらな。」
彼女の心は多分晴れやしない。でも多分彼女は弱くないから、これ以上は一人で進むんだ。
笑ってみせた彼女の顔は久しぶりに心からのものだった。
「きりたんぽが食べたい!」
部屋に入るなり、頭に木の葉を載せたまま彼女が言う。
「はいはい、そう言うと思ってた」
きりたんぽの寄せ鍋。長葱をいつもより多めに入れて、骨付き肉もたっぷり出汁につけて浸す。
火にかけると、途端に中華スープのカラッとした香りがキッチンに広がる。
「お待たせしました」
蓋を開けると、様々な食材が煮立ったスープに浸かって佇んでいる。
「それじゃあ…」
待ちわびたように彼女がつばを飲む。専門大学入学から2年という驚異的な速さでデザイナーとして仕事を勝ち取り、イタリアでプチ旋風を巻き起こして帰ってきた。
「「いただきますっ!」」
鍋の底に沈んだ鶏肉に我先にと手を伸ばした。
板野かも様、主催の匿名短編コンに出させて頂いた作品です。卒業シーズンということで卒業、別れにまつわる話を書きました。2500文字以内に収めるって難しいですね,,,
これを読んで下さった小説家様も是非、板野かも様の短編コンに参加してみてはいかがでしょうか?




