Ⅶ
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一二月一五日、帝都リンデルの一画に建つゾフィアの家に、ルーデンドルフ候の指示を受けた文官たちがやってきた。
「亡き皇帝陛下の御子である、次期ヴァルカニア皇帝アンドレアス・ルカ殿下をお迎えに参上いたしました」
平民として生活する皇子を迎えに来る様は、ある種ドラマチックではあったものの、当事者たちにとっては迷惑以外の何物でもなかった。先帝の配慮により家と年金を貰える身分であるゾフィアは、それ以上の高望みはしなかったし、今の生活こそが最大の幸せであった。欲を言えば隣にアンドレアスが居ればと思うが、彼は生前皇帝であったし、今となっては手の届かない場所にいる。死の不可逆性を理解できないほど、ゾフィアは愚かな女ではなかった。そして、今の生活で充分というのは、息子にとっても同じであるだろう。
「アンドレアス・ルカという名前の者はここにはおりません」
憮然とした表情で言ったゾフィアに、迎えに寄越された文官たちはたじろいだものの、丁寧な動作と口調で言い直した。そして、同時に圧力をかけることも忘れなかった。
「失礼いたしました。しかし、対外的にはそういうことになっているのです……。ルカ様をお迎えに参上いたしました。また、これは、ルーデンドルフ侯爵クリストフ様の命令であります」
貴族の命令となると、ゾフィアはもう何も言えなかった。心の奥底では、そんなものを振り払って殴り倒したい衝動が、ふつふつと湯の如く沸き上がっているが、命を取られるわけでも無いのに、家族を巻き込んで不幸になるつもりはなかった。彼女の持つ〝帝国名誉貴婦人〟の称号は、〝帝国騎士〟と同等のものであり、あくまでも準貴族。本物の貴族に逆らえば極刑となってもおかしくなかった。
しかし、ルカの幸せの基準は、ゾフィアが思っているよりも極端なものであった。理解者であるレナが居ればそれでよい、という価値基準であり、命あってのものとすら思っていなかった。十六歳の彼は、その人生の過半数を己の奴隷かつ友人かつ理解者である一人の少女に向けており、妄執的な依存状態にあった。レナをここに置いていき、ルカを王城へ連れ去ろうとしたとき、彼はハッキリと言ったのだ。
――「レナの居ない世界に価値なんて無い」と。
「なんで、レナと一緒じゃいけないんだ! おれは、おれには、彼女が全てなのに!」
「神聖な皇帝となるルカ様の隣に、薄汚い奴隷は相応しくないからです!」
ぶち、と何かが千切れるような音がした。少なくともこの時、堪忍袋の緒は切れていた。緩く相対していた発言者に対して、急速に接近した。そして、力のままに拳を振るった。特に鍛えているわけでも無く、格闘技の心得があるわけでも無いが、純粋な怒りが込められた拳は、相応の破壊力を持っていた。
殴られた者は僅かだが体が浮き、背中から床に叩きつけられた。何回か咽こんだ。文官とはいえ、人間である以上プライドというものがあり、殴り返したい衝動に駆られるが、近い未来の玉体に傷を付けるわけにはいかなかった。とはいえ一方的に殴られることを享受はずもなく、二回目以降の拳は受け止めた。流石に貴族である文官の彼は、最低限の護身方法は心得ていた。拳を封じられた物理的な加害者は、価値観への加害者に対して、声で感情を叩きつけた。
「お前に何がわかる。レナのことを、理解するつもりもない癖に!」
普段は音楽的なバリトンを奏でる彼の喉は、今日ばかりは音割れし、猛獣の威嚇めいた咆哮を放った。それによってさらに力がこもったことで、一時的ではあるが、組み合った文官の膂力を凌いだ。しかし、同僚の危機を見過ごすわけにはいかず、二人の文官が後ろからルカの腕を抱え込んだ。
抑え込む形にはなったが、もう話し合うことは無理と判断した彼らは、そのままにルカを連行すると決めた。この先のことは兎も角、今この瞬間は貴族と平民なのである。或いは自分たちは新皇帝に恨まれるかもしれないが、命令を下したルーデンドルフ候が最低限は守ってくれるだろう。
「嗚呼! レナっ……レナっ……!」
「ルカさま、ルカさま! ルカさまっ!」
猛獣と奴隷は、お互いの名を呼び合った。体においても抵抗し、必死に手を伸ばすものの、それは全て文官たちに阻まれてしまった。ルカは馬車に押し込められて、レナは路上に倒れ伏した。愛するものを公然と引き裂く様は、誘拐の様相すら見せていたが、誰一人文句を言うものはいなかった。怖かったのである。ただ一人、攫われた張本人であり、明日には皇帝となる少年を除いては。
彼は馬車に乗せられると物理的抵抗は――少なくともその瞬間は――諦めたが、言語においては抵抗意志を示し続けた。その内容は多岐にわたるが、自分は望んでいないだとか、幸せな暮らしを返せだとか、後はレナに対することであった。聞きたくもないのにヘビーローテーションで聞かされた文官たちは、流石に彼がレナを愛していることを理解したが、何故奴隷などという〝人間未満のもの〟を愛することが出来るのか不思議でならなかった。
価値観の隔たりは大きすぎた。自分がルカではなく、アンドレアス・ルカ・フォン・ヴァルカニアという長ったらしい名前になることを知ると、あからさまな嫌悪感を示した。更に明日の戴冠式で洗礼名が与えられることを知ると、呆れかえったように溜息を吐いた。ルカは図太かったし、自頭は賢かった。自分が〝必要不可欠な存在〟であると理解して、遠慮なく呪詛の言葉を吐き続けたのである。また、ここで暴れてもレナのもとには帰れないことも透察して、言葉以上の抵抗はしなかったし、質問にはちゃんと答えた。
その日は客室に案内されて、夜は柔らかいベッドに体を沈めた。落ち着かない。寂しい。人肌恋しい。レナが欲しい。失って初めて、自分にとって彼女の大切さを理解した。もとから彼女が全てではあったけれど、ここまでの虚無感に襲われるのは想像以上であった。ベッドが柔らかすぎて眠れなかった――彼は後にそう語るが、別の理由であったことは明白であった。
一方、ルカを見送ったレナは、粒のような涙を流して嗚咽を鳴らしていた。ヒックヒックと吃逆も止まらず、「うう……ああ……」という意味のない言葉が漏れるのを止められなかった。
生まれた時から奴隷であったレナは、主人が全てだと教えられてきた。そこに疑問を挟む余地はなかった。レナにとって、それは常識であったのだ。そして、ルカは理想的な主人で会った。むしろ、理想よりもはるかに上で、優しく、奴隷である自分を対等に扱ってくれた。
そんな主人を失った。今ルカが連れていかれたことは、彼にも逆らうことが不可能な類であるのだろう。今生の別れにするつもりは毛頭無いが、所詮は奴隷に過ぎない自分が何を思っても、世界には何の影響も与えないことは百も承知であった。だからこそ、無力感に苛まれた。虚無感に襲われた。自分はどう生きていけば良いのだろう?
首の輪が恨めしかった。これを付けている限り、どんなに綺麗な服を着ていても、奴隷として扱われる。ヴァルカニア帝国には奴隷解放の制度はなく、間違って奴隷になった者以外が首輪を外すことはない。生まれた時からの奴隷には無縁の話であった。そんな首輪が、主人を助けに行くことすら阻んでいた。奴隷では何もできないのだ。
見かねたゾフィアがレナの肩を抱いて、自分の涙も拭かないままに、レナの涙を拭いてくれた。その晩、ルカが居なくなったにも関わらず、実の娘のように優しくしてくれた。それでも、主人の温もりには敵わなかった。