Ⅲ
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奴隷というものは、ヴァルカニア帝国の建国の時点で、既に生活に根強く定着しているものであった。もっとも、ある程度裕福な者でなければ奴隷を所持すること等ないが、国の経済的にも、富裕層の生活的にも、奴隷が無ければ成り立たなくなってしまうだろう。主人が奴隷に対して衣食住と結婚まで面倒を見る代わりに、奴隷は生殺与奪を除く全てのことに対して主人に絶対服従する――そういったものが奴隷契約である。
奴隷というものは扱いとしては国民の下に数えられ、おおよそ〝半人〟とでも形容するのが最も近い存在であった。少なくとも、人であるということは保証されていなかったのである。しかしながら、人権という概念自体が成立しておらず、平民の中で下位の者が飢え死んで行く一方で、衣食住が保証されていたわけであるから、本当の意味では労働者階級よりも幸せであったかもしれない。主観によるところが大きいので、判断は各個人に任せるとしよう。
そんな奴隷階級や労働者階級に対して、年金を貰える親を持つルカは、平民の中でも明らかに裕福な部類に属していた。衣食住は余剰するほどであったから、彼は経済学的に見れば幸せなのであろう。しかしながら現実は、彼は虐めに遭って、不幸のどん底に沈んでいた。人間の幸せというものは、簡単に規格化出来ないのである。
経済学的のみならず、心理学的にも幸せにするために、ゾフィアは己の息子を奴隷商館につれてきた。何をすればよいか分からない彼は、何となく椅子に腰かけて、壁にかかった絵画を眺めていた。創世記の神の絵であった。人間の神だから、人神、そう呼ばれる存在だ。人間離れした整った容姿に、美しい宝剣を握り、如何にも有能そうな表情を浮かべている。
そんな美しい絵画にかぶさるように、視界の右から人が入ってきた。あまり美しい容姿とは言えず、母を見慣れたうえに、先程まで絵画を見ていたルカには目の毒であったが、人好きのする笑みにだけは好感を覚えた。有能な商人のそれである。彼は美しい親子に感心したように「ほぅ」と溜息をもらすと、少年に向かって問いを投げた。
「良い絵画でしょう? 気に入りましたか?」
予想していなかったルカは反応が遅れるが、短いものではあるが、何とか言葉を紡ぎ出した。
「ええ、とても」
「それは良かった。うちの奴隷たちも、この絵画ほどではありませんが、美しいか、有能か、あるいはその両方を備えている者ばかりですから、気に入っていただけると思います」
柔らかい笑みを浮かべた奴隷商人が手招きすると、ルカと同年齢ほどの男女が、それそれ五人ずつ商人の後ろに並んだ。彼らの感情には、敵意も害意も微粒子レベルですら含まれてはいなかったが、同年代の少年少女というだけで、ルカは不快感と恐怖感を抱いてしまった。それを見たゾフィアが首を振ると、奴隷商人は頷き、奴隷たちに退室を施した。
奴隷商人も、母も、少年に対して優しく声をかけた。
「事情は聴いています。しかし、うちには沢山の奴隷がいますから、一人くらいは貴方と合う方も見つかるでしょう」
「そうよ、最初から全員と話せる必要はないの。先ずは一人、少しずつで良いの」
その一人すら見つかっていない今、それは気休めに過ぎない、その場しのぎの慰めであったが、とにかくルカは頷いた。母が心配してくれていることは分かっていたし、少年自身も友人が欲しかったのである。もしかしたら、という希望は捨てきれなかった。奴隷商人の言葉に従って、ルカは順に現れる奴隷たちを見た。そして、半数の場合はすぐに、残り半数の場合は暫くして、恐怖感に打ち負けた。商人の柔らかい笑みは硬い笑みに変わり、ゾフィアの表情には不安が浮かんでいた。そして何よりも、恐怖感と期待とで板挟みになって、ルカ自身が一番苦しんでいた。
しかし、最後に彼は報われた。「これで最期です」という奴隷商人の声に頷きを返し、入室してくる奴隷を眺めた。直後、ルカの時間は静止した。視覚から雷光が貫いて、思考力を奪った。それは一般的には〝一目惚れ〟と呼ばれるもので、恐怖感も嫌悪感も飛び越えて、それ以上に強い感情がルカを支配した。半ば無意識に、しかし積極的に、ルカは彼女に話し掛けた。
「君は?」
「レナといいます」
「レナ、か。ぼくは、ルカだ」
「ルカさま、ですね」
短い会話だが、ルカが初めて能動的に動いた。その事実が大切であった。ルカはどうやら、その奴隷を気に入ったようだ。決して綺麗なものではないが、愛と呼んで差し支えないものが渦巻く娼館にいたゾフィアは、息子の感情が友情以上のものであることを察していたが、それでも良いかと思った。人と積極的に仲良くなる息子を見るのは、一年ぶりのことであった。それは、嬉しいことであったのだ。
後の話は早かった。買うと言えば、奴隷商人はすぐに書類を作り、金額を提示してきた。外にいる使用人に声をかけて、金銭を持ってきてもらい、即金で支払った。こうして、ルカはレナの主人になった。ゾフィアが主人でも良かったのだが、彼女はあくまでも、息子の為に〝息子の友人〟を買ったのであるから、ルカが所有権を有する方が好ましいように思えたのである。
奴隷は丁寧に一礼して、己の王に微笑みを向けた。少年は少女に、服従ではなく、握手を求めた。
「その、……これからよろしく」
まだぎこちないものであったが、少年にとっては最大の、そしてある意味では最後の一歩であったといえる。後にルカは、レナとは仲良くなり、同年代とも会話できるようになるが、喧嘩した彼らとの仲は最後まで修復せず、また、大人になってからも子供というものが苦手であった。