Ⅰ
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少年ルカは退屈していた。
ダークブラウンの前髪の奥に揺れる、ラピスラズリの瞳の更に深いところに、白い光を揺らしながら、広く豪華なだけで中身のない、謁見の間を眺めやる。
本当に空っぽだ、必要なものは何もない――ルカはそう思わずにはいられない。そもそもからして、彼は志尊の冠など望んではいなかったのであるから、深々と腰掛ける玉座の柔らかさも、一切の慰めにはならなかった。
彼は本来、一人の少女と、最低限の衣食住があれば満足だったのである。
しかし、視界に映るのは望んでいたものではなく、中央から端まで貴族だけである。彼らは誰もが整った容姿を持ち合わせているが、機械的な張り付けたような表情がルカの不快を誘った。下町の住人と比べるのが間違いというものであるが、ルカは生まれも育ちも下町であったから、貴族に対しては親近感を覚えず、むしろ異物感のほうが強い。本当は自分のほうが異物であったとしても、主観としては考慮するに値しなかった。
そんな異物の中でも、表面上は最も自然であるが、実際に触れると最も異物感の強い男が、政治の重要案件を提示してきた。帝国宰相ルーデンドルフ候クリストフは、現在の帝国における、実質的な最高権力者で、ルカを現在の立場に引き込んだ張本人でもあった。ルカの仕事は、今回のような重要案件に対して「よきにはからえ」と言うことであり、ルーデンドルフ候の「御意」という定型句と化した返事を聞くことである。それでおしまいだ。ルカは文字を理解出来ないわけではなかったが、国の政治に関しては理解できなかったし、興味も持てなかったのである。
そんなわけであるから、ルカの、ヴァルカニア帝国第十三代皇帝アンドレアス二世こと、アンドレアス・ルカ・ヨナス・フォン・ヴァルカニアの評価は、現在においても、後世においても、〝傀儡皇帝〟という不名誉なものであった。これ以上ないほどの酷評であるが、ルカは他人の評価に対して、たった一人のものを除いて、無関心であったので、虚無感だけを息とともに吐き出しながら、玉座にありながらも、自分のためだけに思考を回していた。
どうすれば大切な人に会えるだろうか?
なんといっても、ルカの大切な人は奴隷である。だから、帝国の法に基づいていえば人ですらない。帝国で最も神聖な存在となってしまったルカにとっては、天の上ならぬ崖の下か、はたまた深海の底にいるような存在であって、汚らわしい奴隷に会うことなど許されはしなかった。何故、最も偉い存在であり、神聖不可侵とされながらも、他人に指図されて心を侵害されなければならないのか。意見が通らず、制約が増えたのでは、玉座と王冠に縛り付けられたも同然ではないのか。
もしもルカが大きな野心を抱いていたならば、自らの与えられた権力を盾に、ルーデンドルフ候たち貴族の期待を裏切って、野望に向かって走り出したことだろう。けれどもルカはそういったものとは一切無縁であった。人に虐げられたとしても、復讐に燃えるのではなく、保身に走るタイプの人間であった。それが皇帝としての才幹としてどうかは未知数であるが、少なくともそれは、生まれ故郷の下町では賢明なものであった。
「自由が欲しい。いや、そんな贅沢は言わない。彼女がいれば、それでいいのに……」
そのような述懐を残したのは、皇帝となって何回目の夜であっただろうか。天蓋付きのベッドの置かれた広い寝室から、権力的な打算で、あるいはご機嫌取りで押し付けられた美姫達を追い出して、月明かりの下で、万年筆で羊皮紙に書きなぐったものである。
そのような言葉から分かるように、ルカは貴族に対して好意的になれる理由など一つも有していなかった。権威や権力に執着出来ない人間にとって、偉くなるというのは責任が増えることに他ならず、利点といえば給金くらいのものであった。それも、失うものと比較すればあまりにも些細といえる。
その執着出来ない権威をルカに与えたのは、他でもない、表面上はルカの一番の忠臣である、帝国宰相ルーデンドルフ候であった。己を玉座に縛り付けた張本人であるルーデンドルフ候に対しては、ルカにとって最も恨むべき存在であった。彼は復讐しよう、等と思う質ではなかったが、それでも近くに居られることで不快感が増幅するのは、致し方のないことでもあった。加えて言うならば、玉座の周りにいる重臣たちは、殆どがルーデンドルフ候の息がかかった者達である。上座から順に、次のようになる。
帝国宰相ルーデンドルフ候クリストフ
国務大臣ヴィッテンバッハ伯アントーン
財務大臣ブランケンハイム伯エッカルト
宮内大臣グリューネヴェラー候クラウス
軍務大臣リヒテンシュタイン候ジキスヴァルト
五人の最高幹部のうち、ルーデンドルフ侯爵派閥でない者は、リヒテンシュタイン候ジキスヴァルトだけであった。それすらも、軍務大臣は軍の元帥がなるものであり、政治からある種独立していたからこそ実現できたことである。ルーデンドルフ候は、己の力で決められる全ての枠を、自分の派閥で塗り固めたのである。しかし、これは結果としてはルカにとって良いことであったかもしれない。
例えば、リヒテンシュタイン候がルカにとって味方足り得るかというとそんなことはなく、むしろ明確な敵であると言えるだろう。ルーデンドルフ候とその派閥の者にとって、ルカは利用価値のある、替えの効かない傀儡である。しかし、それ以外の貴族にとっては、先帝の実の息子であるとはいえ、無教養な平民であるにもかかわらず志尊の冠を手にいれた、不遜者である。
にもかかわらず、表面上は笑みか無表情を向けてくるあたり、貴族というものは非常に良く訓練されておる。――玉座の柔らかさを確かめながら、ルカはそう思わずにはいられなかった。そして、それこそが不快感を刺激する一要素であると、再確認をするのである。
ルーデンドルフ候がまた書類を持ってきた。いつも通りの言葉を返し、いつも通りの言葉を聞く。最近はこれしかやっていない。なんら生産的ではない、あまりにも無為な日々であった。
幸せだった過去と、これから作るべき幸せな未来に向けられた瑠璃色の瞳は、白い光を奥底に揺らして、現在はまともに見ていなかった。