ⅩⅠ
ⅩⅠ
一月一日はどこの国でも例外なく新年祭が開かれる。新暦二九九年の、皇帝が代替わりしたヴァルカニア帝国でもそれは例外ではなく、むしろ新皇帝アンドレアス二世の、戴冠式を除いて初めての公的行事として盛大に行われた。当然ながらその盛大さはアンドレアス二世ことルカの望んだところではなく、ルーデンドルフ候クリストフを始めとした、権力を握った貴族たちの主導するところであった。
ルカとしては、言葉を述べるくらいならばしてもよいのだ。意外と図太いところがあった彼は、対等に話すならともかく、バルコニーから語り掛けるくらいならば、ポテトに話しかけるのと同じくらいの気持ちで話せたのである。問題は、そのあとである。別にかかわりたくもない貴族たちと豪華な食事を取らなければならない。料理人の腕は尊敬されるべきであるとルカは考えているが、しかし食事は行儀作法を気にするよりも、楽しく美味しく食べるべきであると思っている。貴族たちと中身のない、表面だけの会話をしながら食べる食事は、味すらも空虚になったように感じられた。
その点、下町の新年はよかった。然程盛大に祝うわけではないが、先代皇帝の演説を見に行って、愛する人を見て微笑む母は幸せそうで奇麗だった。その後は、前日に買っておいたイヤールス・プレーツェルを食べながら、レナも含めて三人で楽しく談笑するのである。心の通った家族との会話は、とても暖かいもので、しかし失ってから始めて気が付いたものだった。思えば、今日は自分が演説をしたわけだが、レナは見つけてくれただろうか? 自分は大衆の中から探すことが出来なかった……。ルカは僅かな希望とそれ以上の自己嫌悪に苛まれて、口に含んだ柔らかいローストビーフすら、硬い干し肉のように感じられた。
母であるゾフィアが貴族相手の商品であったから、そのためにしっかりとマナーというものを心得ていて、ルカは幼いころからそういうものに触れることが出来た。だからこそ極自然に、生まれついての貴族と並んで食事を取ることが出来る訳であるが、正直な所カトラリーを投げ出してしまいたかった。味覚と嗅覚は喜んでいるのに、それに脳で応答しないような、奇妙な感覚。出来ることならば、身体の内側をかきむしりたいような、それは違和感であった。
デザートの果物だけは良かった。糖分は短期的であるが直接的な活力になって、ルカにポジティブな思考の余地を与えた。即ち、レナを取り戻すためにはどうすれば良いのか、真面目に彼は考えたのである。ルカの瞳は未来と過去から現在へ戻ってきた。結論は少年が考えたものだけあって、単純明快であって、それは正解とは言えずとも、少なくとも完全な間違いではないものであった。
力を以てして掴み取る。
力を以てして取り返す。
力を以てして護り抜く。
出来ることならば皇帝としての権力と使いたかったが、ルカはそれの実質はルーデンドルフ候が握っているものとして諒解していた。納得できるものではないが、理解出来ないほどに、彼は愚かではなかった。
ルカは明日から心身を鍛えることを決めた。藁に向かって剣を振ることを決めた。的に向かって銃を撃つことを決めた。そう思うと、今日の食事は貴族と共に食べるものではなく、レナに会うために摂るものであると考えられる。味覚が正常に戻ってきた。万全とは言えないが、内側の靄は何処かに流れていき、柔らかいローストビーフはやはり柔らかくて美味しかった。
その日、ルカは料理を褒めた。彼が皇帝になってから、初めての誉め言葉であった。
一方で、新年のその日、〝愛する人に見付けて貰えなかった少女〟は演説する愛する人の姿を目に焼き付けていた。
奴隷とは思えないほどに清潔で布の豊かな服を着た彼女は、ゾフィアに言われるがままに王城前の広場に来て、バルコニーを見上げた。豪華絢爛な服装をした愛する人の姿を認めた。どこか遠くへ行ってしまったようにも思えたが、それでも愛する人の堂々たる姿は、彼女の心を叩くには充分であった。
愛しさと懐かしさがこみあげてきて、それが自分の主人であると思うと誇らしい気持ちも湧いてきた。自然と涙が湧いてきた。それはポジティブな感情があり、ネガティブな感情があり、とにかくレナのルカに対する深い情愛を示すものであった。息子を眺めて、その理解者を見て、ゾフィアは思う。――生まれた時からそういうものだと割り切るなら兎も角、どうしてこうにも残酷で、まだ若い彼らが引き裂かれなければならないのだろうか。
彼女は宗教の熱心な信者ではなかったし、むしろ姦淫の大罪に引っ掛かる職に従事していた身ではあったが、ことに神を恨むということはしなかった。神を信じていない訳ではない。彼女の愛する人は、神からその志尊の地位を与えられるという建前ではあったのだし、神だっていることはいるだろう。では何故、神を恨まなかったかというと、答えは簡単で、彼女は人間を恨んだ。彼女の息子を連れ去った貴族たちを敵と認めた。
家に帰るとゾフィアはイヤールス・プレーツェルを齧りながら、同じくそれを頬張るレナに対して優しく語りかけた。それはさながら聖母のようであって、皇帝の母親という意味では、ある種の神聖さも間違いとは言い切れないものではあった。
「レナ、私は息子には幸せになって欲しいと思っているの。そして、そこには私は必要なくて、きっと、貴女が居れば良いのだと思う」
ゾフィアの予想は、事実として彼女の息子の思考を捉えていた。彼は母親を軽んじているわけではないのだが、レナが隣にいてくれることこそが、幸せの必要十分条件であったのだ。他の要素は十分条件にはなりえても、必要条件にはなれなかった。
「ルカは必ず貴女のことを迎えに来る。不器用だから、楽ではない道へ手を引いていくかもしれないけれど、息子のことを好きでいてあげて。きっとあの子は、それだけで幸せになれると思う」
突然のことであったので、レナは軽く狼狽した。それでも彼女はゾフィアの言うことを理解出来たし、ルカのことを愛していたので、はっきりと首を縦方向へ二回振った。
ゾフィアはそんなレナを見て笑った。たくさんの愛情と、僅かばかりの嗜虐心を含んだ表情で、ラピスラズリの瞳は計画的な決意を宿してレナのことを射貫いた。奴隷の少女は再び軽く狼狽して、鮮やかに透き通ったアマゾナイトの瞳が揺れる。奥歯を噛み締めて、視線に抗う。自分こそがルカの隣に立つのだと、決意をした瞳の奥で、緑色の光が輝いた。