Ⅸ
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ランチカ共和国首都リンス。
そこで最も巨大な建物は議会議事堂で、二番目は大統領官邸である。どちらも他国にある城と異なり、生活感は排除されていて、純粋な政治施設であった。そこで権力を振るうのも血統によって相続された王と貴族ではなく、国民の投票によって選ばれた議員や大統領と呼ばれる身分の人間である。それらは全て、ランチカ共和国が共和政治・民主主義を謳う国家であることの証明であった。
大統領官邸の執務室で、ランチカ共和国の元首たるドミニク・セルヴァン大統領は、自国のスパイが持ち帰った情報を聞いていた。目の前にいる男は首相である自分でさえ、生まれや年齢はおろか名前すら知らない相手ではあったが、それはその男のスパイとしての優秀さを裏付けるものに他ならない。彼は表情をニュートラルに保ったままに、セルヴァンに対して見聞きしたことを語った。語った者の表面上の態度とは裏腹に、ランチカ共和国の首相は表情をマイナスに崩さざるを得なかった。
「アンドレアス・ルカなる者が、新しい皇帝らしい。彼は我が国の情報網によると、皇帝の血統を正当に受け継ぐものでありながら、一市民として暮らしていたという。ここから分かることは単純明快にて深刻だ。我が国が行ったヴィルヘルム大公暗殺は、幼い命を徒に散らしたに過ぎず、なんら歴史的正義を持ちえないということだ」
セルヴァンは政府の大臣クラスの重鎮十四人を集めて、そう発表した。国民に公表するには些か問題があるが、幹部の中では情報共有がされてしかるべき問題だったからである。長い間戦争を続ける憎き隣国の、あらゆる意味での中核を折り去ったと思っていたのに、しっかりと芯が残っていたのであるから。正面からぶつかるには些か強すぎる国に対して、内部からの崩壊を狙ったものであったが、これからも暫くは正面から戦うしかないように思えた。
十年間の事実的休戦により、平時では無能とは縁遠いところにあるが、緊急事態には弱い政治家が上を収めていたので、彼らは不安と不満の交響曲を奏で始めた。より正確に表現するならば、たとえば金管楽器と木管楽器とは、別々の音楽を奏でているような有様であったが。この時冷静でいたのはセルヴァンの他には、モルガン・ド・リール外交長官と、ヴィルヘルム大公暗殺を提案した張本人でもあるエドモン・サン=ジュスト国防委員長の二人きりであった。サン=ジュストは何としたことの無い口調で語った。
「ならば、戦うしかないでしょう。某国の我々に対する宣戦布告の理由が『共和主義なる愚劣で不敬な思想を葬り去るため』なのですから、その愚劣さを大切にする我々としては、はいそうですか、と降参する訳にはいきません」
それは少なくとも正論ではあったのだが、言った者が導火線に火をつけた男であったので、彼は同僚たちの怒りの導火線にも火をつけることになった。
「当たり前だ! しかし、そもそも、君があのような提案をしなければ、〝ラインコード=レスシア〟の悲劇はなかったのだぞ」
サン=ジュスト国防委員長は肩を竦めるにとどまった。回答したのはリール外交長官である。
「かの戦いが悲劇であったことは否定し得ないが、事実としてヴァルカニア帝国は、我が国の根幹を否定している。仮初の平和を続けたところで、お互いの思想が交わることは訪れないのだ。ルカなる者が居なければ、帝国は宗主を失い、瓦解していたはずなのだから。……そもそも、我々も賛成票を入れたのですから、なにも国防委員長ばかりに責任を問えますまい?」
「その通りだな。何よりも、起きてしまったことは既に歴史に過ぎない。我々は、それを踏まえて未来を作らなければならないのだから」
セルヴァンはそう纏めて、咳払いをすると、改めて重臣たちに意見を求めた。
「我らが共和政治の国を守る為、諸君らの力を貸してほしい。勝つ必要はない、最終的に〝負けさせれば〟良いのだ」
サン=ジュストに言わせれば、セルヴァンやリールはともかく、殆どの重鎮たちは「たった十年で痛みを忘れた、事なかれ主義の無能共」ということになる。彼はあまり得るものの無かった会議を終えると、国防委員長としてのデスクに座り込む。与えられた職務をこなすだけだと、シビリアンコントロールの操縦者である彼は、第一に防衛を固める必要があると判断した。これは会議でも出た意見ではあるが、あまりにも抽象的過ぎて、参考にはならなかった。
秘書に伝言を頼むと、彼は備え付けのものを使ってではあるが、自ら二人分のコーヒーを入れた。一つは自分用のものである。砂糖を二つで、ミルクは入れない。一口口に含んで、その苦みと甘さのバランスに満足すると、ローテーブルにコーヒーを運んでソファーに腰掛ける。僅かの間コーヒーの湯気を顎に当てながら待っていると、コツコツと扉を二度叩く音がした。「どうぞ」と返事をすると、入室してきた男は見事な敬礼を示す。
「マチアス・モーツァルト上級大将、参上いたしました」
陸軍総司令官でもあるその男は、年齢で言うと六十を過ぎていて、老練とか老獪という言葉が良く似合った。未だに毛量の衰えない頭部と整えられた豊かな顎髭は白色であるが、それがプラチナブロンドではなく白髪であることを示すように、僅かばかりダークブラウンの髪が残っていた。眼光は未だ鋭く、茶色い瞳の奥に、赤い光が揺蕩っていた。とにかく軍服の似合う男で、仮に若いころであっても特段美男子ではなかったが、ランチカ共和国の軍服を彼よりも着こなせるものはいないだろうと思われた。
そんな彼に、未だ四十代のスーツ姿のサン=ジュストは敬意を払い、着席とコーヒーを進めた。上級大将は国防委員長の好意を受け取り、柔らかいソファーに腰を下ろす。コーヒーをノンシュガーのままに飲むと、彼は僅かに頬を緩めた。
「私は紅茶派ですが、このコーヒーは美味しいですな。少なくとも、軍部の食堂で飲み放題のものは、飲めたものではありませんので」
それは「政治家は良いものを飲んでいるのだな」という皮肉にも受け取れるものであったが、モーツァルト上級大将のそれは純粋な誉め言葉であったので、サン=ジュストはそれを感じ取り、会釈するだけで応じた。ともあれ、兵の士気を考えると好ましくない案件が思わず露見した訳である。心のメモ欄に書き留めておく。
性急なことでもないので幾らか雑談を交わしたのち、国防委員長閣下は陸軍総司令官に対して一つの命令を下した。
「防衛のためにレスシアに布陣せよ。こちらから攻勢の必要なし。あくまでも国防に専念するべし」と。
老練な将軍は、見事な敬礼で応じた。