ツバサパーカー
失った夢がある、全ての人に向けて。
ちょっとおかしな夢を見た。黒い半袖のパーカーを羽織って、空を舞う夢。背中からは真っ黒な翼が伸び、いとも簡単に、そして自然に、羽ばたくことが出来た。見えた風景は日ごろから見ていた都会の喧騒なのに、空から見下ろしたそれは、異様に美しく映える。嫌いなはずだった日常も、空から切り取ってしまえば許せるのだろうか。
その捻じれた夢の中で、僕は自由だった。風を切り、人混みも暴力的な人口の灯りも、すべてを超越して余りある空にいた。誰の手も届かず、誰の眼にもとまることなく。無限の時間をそこで過ごしたいと願った時、それは醒めた。内容は明確に頭に刻み付けられていて、僕はぼんやりした頭で空の風の味まで思い出すことが出来た。だけど、それは夢だった。願ったことなのか、何かの暗喩なのか、別に夢占いに長けてもいない僕に分かることは何もない。戻ってきた日常に吐き気を覚えながら、少し汗で湿ったベッドを抜け出す。不安定な夢の記憶は、すぐに現実の苦味酸味に掻き消されて飲み込まれた。ワザとらしい咳を思いっきり吐き散らしてみて、見たくもなかった日常を出迎える。
寝苦しい熱帯夜は終わり、倦怠に満ちた朝が疲労の残る体を襲う。湿度は高く、手のひらのべたつきが気になった。残り僅かなシリアルをヨーグルトに混ぜ込み、酸味を絞り出した蜂蜜で誤魔化しておく。冷凍庫に入れて3分、壁にもたれて時間を潰した。今日のタスクを思い出して心萎えながらも、冷えたヨーグルトは「それなり」に美味しく、気持ちいい。最高の爽快感をずっと見失ったまま、毎日毎秒を仕方なしに過ごしている。
寝汗に湿ったシャツを洗濯機に放り込み、外用の服をハンガーから外した。大したファッションセンスも持ち合わせていないし、スタイリングしてくれるような恋人は夢のまた夢。ここ何年間か進歩のない選択肢から、深く考えもせずに引っ張り出した装いはお世辞にも洒落てはいない。セール特価2300円のイヤホンを両の耳に突っ込み、サンダルをつっかけて鍵を閉める。SNSを開いて、朝の挨拶を呟いておいた。願わくは、誰かに繋がってみたかったから。
駅に程近いのがこの安っぽい物件の強みだろうか。寝苦しい夜の後でも、遅刻することは滅多にない。重い足をイヤホンから溢れかえるロックンロールで無理やり動かし、鞄のポケットからのど飴を一つ口に含む。少しの甘ったるさが脳味噌と喉を刺激し、ぼんやりした風景に輪郭がついていく。擦れ違う人は忙しなく、それはそれで構わない。過干渉の面倒くささは苦い記憶として残されている。
寂しくなる人もいるのだと思う。触れ合える距離、優しさを届けられる距離、それらを大事にして、他者を気遣う人もいるはず。ただ、僕は違う。僕は離れていればいい、僕より優れた誰かの邪魔をする必要なんてどこにもないのだから。踏みしめるアスファルトは硬く熱く、イヤホンからの大音量でそれを誤魔化した。五感をフルに活用したってロクなことはない。鈍感であれ、と胸に刻む。感じず、知らず、思わないでいれば苦しくなんてないのだから。
通り過ぎたゴミ置き場にはカラスが集り、ネットに覆われたゴミ袋を突いていた。誰もが見て見ぬふりをする風景を、僕もそっと横目に流す。知らない誰かの手が汚れる仕事が増える、そう知っていながら、見なくていいと自分に言い聞かせる。自分の手を汚す覚悟がないなんて、自分なりの誤魔化した回答を胸に抱きながら。黒い翼を威圧的に羽ばたかせながら彼らは生きていた。生きる以外のことを考えないかのように、ただ生きていた。それは優雅で、純粋で。
綺麗だ、と思う。ゴミと汚れに塗れて真っすぐに生きるその姿に刹那見惚れる。見るな、あれは違う、憧れてはいけない、と理性のロックが働き、また脳をロックンロールに酔わせて足を動かす。純粋に生きていけないことなんて、生まれた次の瞬間から分かっていたはずだろう。それでも、それでも──。理想を求め続けるほど幼くないのに、理想を諦められるほど大人でもない微妙な自分。もどかしく、ウザったい。この幼さを早く忘れてしまえば、青臭い夢に悩まされることもないのに。吐き散らかしたい悪態を幾通りも思い浮かべて、唾と一緒に飲み込んだ。
駅の改札の人の波に埋まり、無機質な顔が次から次へと過ぎ去っていく。何かを失ったように軽い、彼らの足取りは早い。下唇を少し噛み締めて、その痛みで自分を取り戻す。忘れないようにしなければならない、この自分を。装っているものだろうが、偽物だろうが、生きていくにはこの自分でいなくては。中途半端でも、無意識に握り締めた右手の爪が手のひらに喰い込む。──この痛みさえいずれ、感じなくなる……はず。
轟音を立てホームに到着する電車は一分の狂いもなく、そこに流れ込む人々も淀みない。不自然なまでに統制のとれた全てが、「偽物」のように思え、それを否定し、「偽物」を疑わない「偽物」の自分を取り戻す。危ういバランスをいつまで保っていられるだろうか。吊革一本に体重をかけ、発車の揺れに体が動く。軽く足を踏んだ目の前のサラリーマンは、何事も無かったかのように手元の液晶から目を離さない。誤魔化しばかり、そんな感想が頭に浮かぶ。怒りなんてどこかに忘れてきたから、適当に自分を誤魔化しておく。
窓の外を流れるはずの風景は、人垣に遮られて見えず。覚束ない足元から意識を逸らすため、ボリュームを一上げる。どこを見ていればいいのか、いつも分からなくなるので目を閉じる。呼吸をするタイミングがつかめなくなり、息苦しい中でもう一段回ボリュームを上げた。音漏れはしていないと信じておく。人の目が集まっていないのだから、多分大丈夫だろう。歌っている本人すら理解しているかどうか怪しい歌詞が、閉じた瞼に流れ続けた。
どうして、僕は詰まらないことに縛られ続けているのだろうか。自分で望んだ場所に辿り着いているはずなのに、理想は遠くへ去っていくばかりで。まだ先の長そうな人生に嫌気がさし、それが傲慢だと気づいてまた自己嫌悪に陥る。自分は幸せだと知らされて、それなりの夢も与えられて、それなりの路を歩いてきているはずなのに。目の前も見えない現実が怖くてたまらない。唐突に叫びたくなる衝動をボリュームを上げて誤魔化した。いつもどこでも、誤魔化してばかり──。いつからこんな日々は始まっていた?
くるくると回る思考と、氾濫する言葉。それが空回りであることも、誰にも伝わらない言葉であることも、分かっている。分かっていることにしている。そうでないと、本当に壊れてしまうような気がして。もう、他人からズレているのは明らかなのに。認めてしまっても、楽にはならない。心の底で僕はまだそれを否定したがっているのか、そもそも楽になるなんて選択肢が与えられていなかったのか。
掠れ声を上げ、人混みを掻き分けて列車から降りる。ドアの近くに立っていた老人の不快そうな顔が目についてしまい、奥歯を噛み締めた。黙って退けばいい、という乱暴な思考が形を成し遂げる前に、改札を早足に抜け出す。電子マネーの残額を確認して、自販機によるのを控えた。仮初の解放に一息つきたいような気もしたけど、お財布事情は優しくない。バイトもしない怠惰な専門学生は、親の仕送りに文句を言う資格も持ち合わせていない。幸福なのだから、僕は。
友人が少ないのも幸いして、日々の出費は左程多くない。毎日の食事何て粗末なモノだ。恵まれている、という自覚は幾ら塗り込んでも満足が見えない。これだから、と自分で自分を窘めて自制したと思い込む。恵まれている、恵まれているのだから。自分より辛い人など、星の数ほどいるのだから。この程度の苦しみに耐えなくては、何もできないと。分かっている、はず。教えてくれた誰かがいなかったら、もっと汚くて楽に生きられたのか。
最寄駅から学校までは遠くない。また襲ってくる息苦しさに、自分は望んでここに来ているはず、と言い聞かせた。いつまで誤魔化せるだろうか。この倦怠と不自由に、いつまで耐えられるだろうか。そう、僕は分かっている。僕が、現在に不満を持っていることを。僕が、自分に嘘を吐きながら生きていることを。求めているものはどこにあるんだろう。
だからだろうか、ロクなものは描けやしない。いつだって誰かの真似──いや、下位互換になる僕の絵は、知識や努力でカバーできない何かが足りないような気がしてならなかった。向上心なんて上質なものではない感情を抑え込むため、授業は受けているものの、自分で感じる成長は限りなく少ない。いや、ないのかもしれない。そんな風に思いたくないから、今がスランプなのだと言い張っておく。
分野が分野なだけあって、周りは個性的な人間が多い。だから、基本的に一人でいても浮かないでいられるのはありがたかった。随分長いこと、「一般的」な人の中に埋もれているときには苦痛で仕方がなかった幾つかのことから、ようやく解放される。そしてまた、僕は未だにそんな詰まらないことを気にしている僕を嫌いになる。僕が自然に織り成している思考ほど、僕が不快になるものはない。深く考えているようで、何も考えていない。思索、と名付けるには俗すぎる。だからワザとらしく言葉を選び、誰にも聞かれてない妄言で飾り付ける。
休憩所でサンドイッチを齧り、その安っぽい出来に顔をしかめる。なまじ味覚が育っているのは別に嬉しいことではない。多少の雑さは欲しくて止まない。「食事」の概念は決して楽しみになるようなものではなく、生きる為の栄養補給以外の何物にも成り得なかった。何故生きる、と返されてしまえば黙り込む脆弱な生を維持するために、僕は今日も食べる。僕の為、なのかどうかも、もう自信はない。
午後の倦怠感に耐えられるだろうか、続く数時間を予想して、重くなる心を必死に支えた。
※
今日は耐えられた。襲ってくる眠気に耐え、何度か教室を飛び出したい衝動を抑え込んだ。今日は、今日は──まだ。明日はどうだろうか、明後日は? いつ壊れたっておかしくない、そんな不安が常々圧し掛かる。僕はいつまでこの僕を演じられるのか。当たり障りのない無価値な存在で、いつまでいられるだろう。詰まらないトリガーがあと少し押し込まれれば、食いしばった歯があと少し削れてしまえば、砕け散ってしまうような恐怖が体を襲う。僕が誰かに危害を加えない保証などどこにもないのだ。その強さが備わっているか、疑問は残るけど。
騒音に惹かれて、帰り道のゲームセンターに足を踏み込む。クレーンゲームのセンスはなく、別に日常的にやっている筐体もない。仕方なく欲しくもない縫いぐるみの台に百円を放り込んだ。朝のジュース一本分の自制が、意味を失くして転がり落ちていく。虚しさを誤魔化すのには丁度いい煩さだけど、情けないアームが景品を取り落とす様は心の空虚を加速させた。
4枚目の硬貨を放り込む手前で、踵を返した。成功するようにはできていない、その現実を突きつけられるのに飽きてしまった。無性に乾く喉に唾を流し込み、帰り道を急ぐ。三百円の出費は、今日もインスタントのラーメンで夕食を済ますことを意味している。ジャンキーな味に慣れてきたはずの舌でも、3日続けば嫌になる。明日はまっすぐ帰ろう、そう思った。
太陽が本日最期の光を残しているころ、朝よりは随分と楽な混み具合の列車で家路につく。夕方の暑さは朝ほど嫌いにならない、これから始まるのが気楽な一人の時間だからだろうか。顔の知らない誰かが手を汚して、ゴミ捨て場は綺麗に片付けられていた。罪悪感、に似た何かが心を過ぎ、自分はまだマシだと言い聞かせることが出来る。気づけること、心を痛められること、顔も名も分からない汚れた手の誰かを労わる気持ちを持てること。それらが全部偽物の感情だとしても。
夕暮れ空の片隅を、見慣れた黒い鳥が埋めていた。何日前から鳴き始めたのか分からない蝉の声が道を満たす。帰り道ではイヤホンを外すのが習慣になっていた。今日は、残された数時間は、もうどこからも逃げなくて済むと知っているから。けたたましいロックンロールの力を借りなくても、何とか歩き続けられる。
夏を象徴するような蝉、好きになれない。その喧しさよりも、短い周期で次々に堕ちる死体を見るのが何よりも苦痛だった。突き出た眼に表情はなく、もがいた足の躍動感を残したまま地面にこびりつく。自分の運命も知らぬまま、地中から出てきたのだろうか。こんな世界に何を望んで、鳴いて鳴いて、死ぬのだろうか。
自宅のドアを開け、鍵を閉めれば襲ってきたのは脱力感。冷蔵庫のジュースをパックの底まで飲み干し、甘味と酸味の混じりあった刺激で疲労を追い払う。肩に背負った重い荷物を放り投げて、ベッドに座り込む。まだ真新しいそれは弾力に富み、乱暴に投げ出した体を優しく受け止めてくれた。スマートフォンを開きSNSの通知を確認する。朝に呟いた「おはようございます」の9文字に反応はなかった。そんなものだよ、と自分で自分を納得させながら、誰かに認められたいなんていう汚い欲望を再確認して溜息を吐く。どうして嫌いなモノまで持ち続けているのか、答えは得られない。
散らかった部屋には読みもしない漫画と画集。それに格好つけて買った参考書と資料本。あとは型落ちのPCが一台。何かを産み出す、という名目でここに来たはずなのに、精々作っているのは粗末な夕飯くらい。どうせ誰にも期待されていない、と自分に呼びかけ安心させるけど、それでもその奥に「期待されたい」という思いがあることを僕は知っている。旅に出る勇気もないくせに、現状を常々憂うその姿勢を自分が誰よりも嫌っている。そして、嫌っていることに安心している。
誰の言葉も伝えてくれないスマートフォンをベッドの上にぽいと捨てた。瞼の上を手首で押さえつけ、眼球に走る痛みが心地いい。今日も色々なものを見たそれは、多分疲れ果てているだろうから。数分その姿勢を続け、手をどけて立ち上がる。このまま眠って、眠り続けて、起きなくていいのならそんなに楽なことはないのに。それが許されても、多分僕は文句を絶やさないだろうけど。
現実はそんなに優しくない。数分の黄昏の後、立ち上がった僕は電気ケトルに水を注ぐ。丼を洗う手間が面倒で、近頃は固形麺に熱湯をかけるスタイルで作っている。味覚に敏感だとのたまっておきながら、抑えきれない面倒くささは何もかもを超越する。矛盾の塊、と自嘲しておいた。お湯が沸くまでの数分、少し散らかった部屋を片付けようとした僕の目に、ベッドに無造作に捨てられた服がとまる。
強烈な違和感と、妙な既視感。僕は──恐らく、間抜けな顔で──それを摘まみ上げた。真っ黒なパーカーらしいそれに、見覚えはない。服のバリエーションが少ないから、持ち物の大体は記憶しているはずだった。何より僕は服を体にかけて寝ることはしない。しかもその黒さは、この猛暑日の中で着ようとはとても思えない代物だった。何故、さっきまで気づかなかったのだろうか。何故、今、ここにあるのだろうか。テンプレート的な疑問文が頭に押し寄せる。
一瞬嫌な予想が頭をよぎり、僕はパーカーを投げ捨てて貴重品の存在を確かめる。通帳、印鑑、カード、現金、全て無事だった。困惑した頭をよそに、電気ケトルの湯が沸く。すぐに食べるつもりにはなれなかった。パーカーを拾いなおしたはずみに、一枚の紙がそのポケットから零れ落ちる。丁寧に折りたたまれたそれは、外側に何の情報も記されていなかった。
警察か誰か、呼ぼうかとも思った。ただ、何かを盗まれたわけでもないらしく、また突然服が一着増えた、などと伝えて信じてもらえるだろうか。そこまで思考が回ると今度は、本当にコレが自分の物ではなかったのかどうかの自信も失われていく。落ち着け、と言い聞かせ、空いたハンガーに一旦吊るす。汚れや臭いは特に気にならず、かといって新品のようにも思えず。自分の物のようで、そうではない、奇妙な感触を確かめた。一旦大きく息を吐き、折りたたまれた紙を丁寧に開く。
最初は単純な構造の様に思えたそれだが、開き始めるとそれは簡単ではなかった。複雑に織り込まれたそれ、破るわけにはいかない。何かの手違いで他人の物であれば、最悪元の形に戻すことも考えなくては。15分程度の苦戦の末、何とか構造を把握して開くことが出来た。
開いたその瞬間、その最初の一文に僕は呼吸を奪われる。
「拝啓 瀬角様」
僕の苗字だった。
有り得ない。その感想で脳の動きが鈍る。それでも何とか気を取り直し、続きの文面に目を通す。
「そこから抜け出す翼」
どこかで見たような字で殴り書かれた一文。僕を更なる困惑に引きずり込むのには十分すぎた。ヒントを探し、神の裏表をひっくり返してみても、何も得られない。小刻みに震える手をしっかりと自覚しながら、僕は短い文字の羅列に繰り返し目を通した。分からない、何が言いたいのか、まるで分からないのに、どうしてだか心を抉る。言葉にできない何か、が胸の奥から迫り上げてきた。それが恐怖を経て吐き気に変わる前に、僕は貼りつく眼を紙から引き剥がして立ち上がった。
電気ケトルの中身がすっかりぬるくなっていることを確認し、とりあえずもう一度スイッチを押す。現実に戻る手がかりが欲しかった。降って沸いた非現実を咀嚼するのに、もうしばらく時間をかける必要がある。「瀬角」の苗字は決して多くない。自分と親戚くらいにしか見たことがないのだから。これが、僕宛ての「何か」であることはほぼ確定だ。
そうだとして、誰からの、何のための? その答えに思いを馳せても、思考は堂々巡りを繰り返すだけ。沸かしなおした熱湯を丼に注ぎ、散漫した注意力の所為で足元に数滴が零れる。熱さに顔をしかめ、空調で程よく冷えた八畳の部屋に硬すぎる麺のラーメンを運ぶ。自然と、視線はハンガーで吊るされた黒いパーカーに向いていた。
考えど答えは出ず、ある意味当たり前の現実と現状を受け入れる以外の選択肢が見当たらなかった。他人に話せばまともに受け答えてもらえないだろうし、送り返すにも送り主は分からず、処分するのも何となく怖い。まだ、知らない誰かが取りに来る可能性を捨てきってはいなかった。そして何より、この不可解な贈り物に対する興味がある。怖いもの見たさ、に近い何かだろうか。
初めに見た時の、妙な既視感の正体が気になり、スープを飲みほしてパーカーを手に取ってみる。一見何の変哲もないのだが、何となく異彩を放つ黒、そして普通の服ならばあるはずのタグの跡さえない。包装もされておらず、適当にベッドに置かれていたが、着古した感じはない。かといって柔軟剤の香りが沸き立つわけでもなく、新品とも中古とも言えない様相を成していた。
ポケットを探ってみるが、特に何も出てこなかった。何度か裏表をひっくり返して眺めるが、特に目立った特徴も無く。どれほどそうしていただろうか、丼を洗っていないことに気づき、差し当たりの日常に思考回路が引き戻される。パーカーをベッドに放置して、僕は重い体を引き摺る。
恐らく、明日は明日の日常がまた展開されていくのだろう。たかが自分の服のバリエーションが一つ増えたからと言って、現実はそんなことで止まってくれるほどヤワじゃない。疲弊する精神と肉体を護るためにも、今日にやれることは今日の内にしておかなくては。非日常は、それなりの年を取ってしまった今では遥か彼方に消え去ってしまったのだから。新鮮味の欠ける日々を、あと何十年過ごせばいいのか、答えは見えない。そんな疑問も傲慢だと、分かっていながら問いたださずにはいられない。
乱雑で稚拙な家事を早々に片付け、一日分の汗を流すべくシャワーの蛇口を捻る。夏だろうと、高めの音頭で思いっきり被るのが好きだった。体への良し悪しなんて、気にしている場合じゃない。今、気持ちいいと思えることをしておきたかった。頭皮、肩、背中、決して逞しいとは言えない体を流れ落ちる熱い雫に、不満も苦痛も、言いようのない閉塞感もすべて任せてしまえるような気がする。
別にスポーツをする訳でもないのに髪を短めにとどめているのは、洗った後が楽なのもある。特に夏は、濡れた髪のまま扇風機に当たってよく絵を描いていた。今ではもう、プライベートの時間に描くことはほとんどなくなってしまったけど。いつからか、誰かに言われるがまま描いているような気がして、絵と向き合うときでさえ閉塞感を感じるようになった。幼いころから好きだったはずの世界に、入り込めなくなっていた。
単純に、才能の限界に気づいてしまったのだろうか。自分の作品を描こうとしたって、できるのは何かの、誰かの下位互換ばかり。そんな自分に嫌気がさして、それでも尚絵の路へ進もうとして、それを支えてもらっているクセに、少しも進歩がないことに苛立ちが募って──思考がネガティヴな無限ループに入り込む前に、頭を振りまわす。今行うべきは、一人人生相談なんかじゃない。迫りくる「明日」という現実に立ち向かうこと。いつからこんなに日常は辛くなってしまったのか、答えを得たって戻れはしないのだから。
差し当たりのノルマを果たし、ベッドに疲れ果てた体を横たえる。何も考えたくはなかったが、自然と思考は黒いパーカーに吸い付けられる。現実から逃げ出せるカギの様に思えて仕方がなかったそれを、天井にかざしてみた。裏表、生地を確認してから、恐る恐る袖に手を通す。思ったよりも軽く、体に馴染むその感触はしかし、ただの服以上の何物でもない。
何を期待していたのか、と自嘲して照明を落とす。何かを望んでいたのは間違いなかった。ただ、それを認めたくも無かった。暗闇の中で危うく泣きそうになっている自分に気づき、一瞬の日現実を感じさせてくれたパーカーを握りしめ堪えた。暗闇に抗うように眼を瞑り、明日が来ないことを祈る。それは不可能な願いだと知っていたけど、祈らずにはいられなかった。それが自分の弱さ故だと知っていたから、僕は僕じゃない誰かに祈り続けた。
※
僕は空にいた。雲がかかって薄暗い月明かりの中、僕は誰よりも高くにいた。黒いパーカーに身を包み、背中からは漆黒の翼。恐れるものは何もなく、悠々と大地を見下ろして星に紛れる。それはとても自然なことで、僕は、自分が夜空を駆けていることに何の疑問を持つ必要も無かった。ここは、僕の場所だ。
光のない部屋では、きっと明日に怯えて誰かが眠っている。見えない未来、知らされることのない一瞬先の現実から目を背ける為に。いつだってリアルタイムに迫りくるそれらと戦うために、体と心を少しでも安ませるために。悲しい、辛い、陳腐な感情を並べ立てたって、結局のところ逃げ出すことも許されないままに。明日を迎える為に生きているはずなのに、その明日に怯えなくてはいけないのは、誰の所為だろうか。翼を傾け、闇に染まった窓の外で風を切る。一瞬、ただ一瞬、その中で眠る誰かの為に祈りを捧げた。今の僕には、その一拍の余裕があった。
光る街並みの中で、孤独を癒そうとする人々を眺める。自由になれず、縛られたままで今を受け入れている人たち。死んだように生きて、日常の責め苦を何とか受け流す。自分が死んでいると言い聞かせ、恐怖を誤魔化そうとする。昼の僕は、多分そんなものだ。娯楽、音楽、文学、形は色々なのだろうが、現実ではない何かを頭に流し込んで夢を見る。それが、生きていくのに必要だから。
翼を押し付けられた僕は、夢の中で自由になる義務を背負った。それが何を意味するかは知らない。それは僕の意志なのだろうけど、僕は、望んでなどいなかった。ただ、僕の生命が途切れてしまわないように、僕のいる現実が崩れて消え去ってしまわないように、僕は羽ばたき続けなければならない。
夜風の冷たさが、肌に心地いい。蒸し暑さ、人混みの喧騒、転がる命の跡、見たくないもの、認めたくないものに溢れた世界から一時の解放。僕は、それを欲しがっていたから、誰も恐れない僕を願った。僕が、気高く純粋であることを願っていた。不条理、か。それはまだ許せる。夢の中は大体、不条理なのだから。許せないのは? 分からない、僕自身か、世界か、それとも顔も知らない誰かなのか。
何よりも高く、誰よりも自由に、雲の上で僕は叫ぶ。
────!
それは、咆哮というよりも悲鳴に近い、そんな気がした。
────。
無作法な電子音に叩き起こされ、目を擦る。眠ったはずだった、夜中に目が覚めた記憶もないのに、体の疲れが余りとれていない。木曜日の朝はこんなものか、と無理に納得させて気怠い肉の塊を動かす。冷蔵庫を開け、昨日シリアルを買い足すのを忘れたことに気づいた。仕方なくいつもより多めのヨーグルトに蜂蜜を流し込み、冷凍庫の扉を閉める。思い出した様に服用しているビタミン剤を水道のぬるい水で飲み下した。
ふと気づいて、ベッドの上でしわくちゃになった黒いパーカーを摘まみ上げる。結局抱きしめたまま眠ったらしい。他人の物かもしれない、という可能性なんてとうに捨て去っていたことに気が付いて、それをハンガーに吊るした。頭を二三度振り回して、冴えない頭を揺り動かす。この全身の疲労感は何だろうか。悪夢の記憶はない、比較的よく眠れた方だとは思うのだけど。
冷やしたヨーグルトが口から清涼感を送り届けてくれ、新しい朝の訪れを告げる。誰よりも来てほしくない客だけれど、来ることは知っていた。世界がひっくり返りでもしない限り、僕の怠惰な日常は変わってくれない。日常を送れる幸福を感じられるほど、美しくは生きていられないから。割り切ってやっていくしかない、それが悲しいことでも、大人への最終段階の僕は乗り越えなければいけない。
サンダルをつっかけて出た外は、焼けるような炎天下を青すぎる空が彩っていた。その眩しさに目を細め、早くも流れ始めた汗の不快感が纏わりついてくる。この暑さの中でも、冬と変わらない日常を過ごせっていうのは、少し理不尽じゃないだろうか。ハイテンポなロックはイヤホンから殴りつけて来るけど、それに合わせた足取りができるテンションではなかった。誤魔化し、誤魔化し、嘘を吐き続けてこなければもう生きていないのだから仕方ない。
墜ちた蝉の死骸から目を逸らし、ゴミの日ではないことにささやかな感謝を送りながら、ゴミ捨て場の前を早足に通り過ぎた。今日こそは買い出しに行かなければ、と思い出して「タスク」の三文字がまた肩に圧し掛かってきた。脆弱すぎる、と自嘲しながら、誰かに支えてもらうのを待っている。頑張ったね、と言ってもらえるのを待っている。それを弱さと自覚しながら、自覚していることを微かに誇っている。僕が、僕を嫌いである所以──。
流暢に流れ出る感情に、自分自身で驚いた。いつもモヤモヤと喉の奥に凝り固まっていた「何か」が、いつになく自然と、誰かに伝えられる言葉の形を成していた。雫が一滴零れるように、口から小さな息が漏れた。急に鮮やかに脳裏に映し出されるロックの歌詞と、清涼感を醸し出した空に違和感を覚えながら、足を進める。信号待ちの10秒間、電柱にとまったカラスを眺め、自然と構図を考えている自分に気づいた。
駅の自販機をちらりと見やり、今日は要らないな、と思った。改札で擦れ違う人の顔はやはり無機質だけど、それが確かに人だと分かる。自分と同じ、生きている人間だと分かる。ストレスを抱え、軽い絶望を胸にため込みながらも必死に生きている、個人なのだと。いつから、そんな簡単なことも忘れていたのか。自問自答に応えはない、ただ僕は気づいていた。今日は違う、と。
揺れる車両の中で、吊革を頼りに自分の足で立つ。偶然、外を流れる景色を見られる位置に立っていた。流れていく街並み、走る車に道行く人。一人一人に、目的地があるのかと思えば、世界のスケールに圧倒される。今まで耳を塞ぎ、目を閉じていたのは何のためだったか、分からなくなっていた。ただ今の僕は、この躁状態を生かそうと思えた。久しぶりに自室で絵を描いてもいい。一人、カラオケで歌うのもいい。妙な解放感の中で、「楽しみな」予定を考えることが出来る。忘れていた感触を取り戻して、僕は景色を楽しんでもみた。
駅の人の波に押し潰されそうになりながら、潜り抜けて改札を抜ける。太陽の下へ体を晒す三歩手前で、その「声」は聞こえた。
「──翼、欲しい?」
擦れ違い様の一瞬、投げつけられたそれだけの言葉。足に鉛の重りがかかり、息が詰まる。視界が揺れ、頭の奥が脈動するのを感じた。妙な寒気が背筋を襲い、現実離れした一秒に満たない時間を過ごす。
振り返った時、その姿はなかった。通路の真ん中で立ち止まった僕を迷惑そうに睨みつけた男が隣を早足に抜けていき、その奥からも人の壁が迫る。一拍遅れて太陽の熱気が身体中に流れ込み、むせる。手のひらの汗が生々しく鮮やかな感触をダイレクトに伝え、飲み下そうとして唾が喉に詰まる。
──誰だ?
答えは得られず、幾人もの人が隣を過ぎ去っていく中で立ち尽くした。鮮明な夜空とネオン街のコントラストが脳裏を過ぎり、部屋に吊るした黒いパーカーがフラッシュバックする。それは直感で、でもその瞬間には限りなく確信に近いもので。先ほど擦れ違ったように感じた「何か」が何かを知っている。上りかけた階段を早足に下り、人の壁を押しのける。ただ、どれだけ走ったところで追いつけないことは心のどこかで分かっていた。
※
結局、僕は入学してから初めて学校をサボった。アテもなく走り、何も得ることなく時間だけが過ぎた。「声」はもう聞こえなかったし、空は相変わらず青くて、掴み処を与えてくれない。僕は、どこに向かっているのか分からなくなり、朝の謎の躁状態はとっくに終わっていた。時間を潰す場所も分からず、かといって午後からの授業に出る気にもなれず、駅のベンチでイヤホンを耳にねじ込み座っていた。
曲の中身は少しも頭に入ってこない。過行く人の顔はまっさらのノッペラボウで、何本見逃がしたか分からない、列車の轟音さえ遠く感じる。僕は、どこにいる? ここは現実、分かっているはずだ。超常的な現象は起こってくれないし、僕の周りは変わらない。それはきっと幸福なことで、この倦怠感は酷く贅沢なものだということも、知っている。
それでも、僕は満足なんてしていない。どうしてだか胸の奥の何かはずっと叫んでいる。ここにはいたくない、変わりたい、消えてしまいたい。それは時と場合によって変わっていく不安定な声だけど、一つだけ突き通っていることがある。そしてそれこそが、多分僕の未熟さであり、最後の理想なのだと。
──何か、が欲しい。それが何なのか、決して明確に形にならない何か。それはロックンロールに似ていて、さもなければ衝動的に描きたくなったカラスのようで、もしかしたら訳の分からないあのパーカーのような形をしていて、目の前にあるようで、覚えているようで、ふとすれば失ってしまう何か。僕の、僕の知っている理想のカタチ。「今、ここ」にない何か。多分多くの大人たちはそれを見失って、多くの子供たちは自然過ぎて気づくことなく、失いかけた僕にだけ、明確な意志を以て襲い掛かってくるモノ。例えるならば──。
頭の中で鳴り響くロックンロールが邪魔臭くなり、乱暴にイヤホンを引きはがした。世界の雑音が一斉に脳髄に攻め寄せ、堪らなくなった僕は走り出す。駅を出て、雑踏を抜けて、普段から見ていたのに何も知らない街並みを蹴り飛ばして走る。奇異の眼で見る人々も、きっと今日の夜には僕のことなどすっかり忘れている。それで日常に埋もれていき、気づかないままに見えていた何かを失っていく。
──僕は、嫌だ。
覚えていたい、この衝動、バカげた疾走。多分昔は見えていた、幼稚な理想と夢。僕は、まだ忘れられない。それがこの妙な疲労と徒労の元凶だったとしても、それが僕の一部であったことなのは間違いないのだから。否定されたくない、否定したくない。かつての僕は、今よりずっと綺麗だったじゃないか。
解放されたい、と思っていた。この日常から、現実から。そうじゃなかった。僕は、自分で自分を縛り始めていただけで。自由を置き忘れ、「現実」という言葉に甘えて達観したフリをして、妥協して生き延びることを覚えてしまい、生きる為に死んでいた。死ぬために生きていた。違ったはずだ。
初めて色鉛筆を握ったあの日、自分一人で電車に乗って遠くへ出かけた日、僕は確かに楽しんでいたはずなんだ。珍しく高価な外食に連れてもらった時、小学校のころ好きだった女の子と話していた時、僕は純粋に楽しめていた。純粋に、生きていることが楽しかった。そんなことを考えなくても、「今」を生きられたのに。
ゴミ捨て場を漁るカラスの様に、自然に流されるままで生きていられた。自分で自分をなだめてすかして誤魔化さなくても、前に進めた。あのころの僕はどこへ行った? 思い出したい衝動と感情は目の前をふっと通り過ぎて掴めない。掴みたい、戻りたい、あの頃の自分に。時が戻せなくとも、自分が変わることができるのなら。理想に傷がつく前のあの世界に、帰らせてくれ。
走り疲れた足が止まる。噴き出た汗を腕で拭い、その細さと頼りなさが身に染みた。弱すぎる、だけど、これが僕なんだと認めないといけない。夢を捨てて現実だけに生きられるほど強くなく、成長していないということを。まだ、絶望してもいいと思えないのだから。喉元にせり上がる感情の吐き場所を見つけられず、頼りない右手で片隅の電柱を叩く。太陽に照らされ続けたコンクリートは硬く熱く、僕の脆弱な右手に確かな痛みを伝えた。
変わっていない、この痛み。まだ感じられることが、少し嬉しい。僕は忘れていない。見失いかけていたけれど、痛みが残っているのなら喜びも残っているはずだから。もう一歩、踏み出そうとして視界が歪んだ。
最後に見えた青い空は、無慈悲に綺麗だった。
※
明るすぎる太陽が、目に痛い。翼が風を受け、ふわりと体が浮いているのを感じる。スクランブルの交差点は人で埋まり、誰もが流れる汗を忘れるように急いでいた。コンクリートで埋まった大地はさながら鉄板。だとしたらここにいる人々は皆、鉄下駄を履かされて踊る罪人だろうか。違うと否定して、それでも残るその不埒な発想は僕の本心、なのか。
罪、彼らに罪があるとしたら、それは何か? それとも罪なんてものは初めから無くて、誰かの気紛れか憂さ晴らしに焼かれているのか。報われないな、と呟いてくるりと回る。漆黒の翼はロウではないから、どれほどの灼熱を吸いこもうと溶け落ちはしない。僕に授けられた、自由のカタチ。風を切り人を見下ろす僕は、恐らく傲慢なのだろうなと独り言ちる。
羽をたたみ、真っ逆さまに地上に墜ちる。雲を貫き、点を見上げる高層ビルが鼻先まで迫った時その加速の全てを消して浮かび上がってみた。もう、疲れたなと思う。あの熱すぎる大地は狭すぎて、息が詰まる。この青すぎる空は、自由だけれど、体は重い。何もかもを忘れて、不満も理想も投げ捨てて逃げ出してしまえば戻りたくなるはずもない。僕は、「あっち側の僕」は、もうとっくに逃げ出してしまっているのだから。ただ、僕を置き去りにして。
羽ばたいた弾みに零れた一本の羽を手にすくい、太陽にかざしてみる。無作法で傲慢で、尚且つ乱暴なその光を前にしてもそれは黒さを失わなかった。そう、もう迷うこともブレることも、誰かに染められることもない。僕は、僕でいられる。この広い空ならば、僕が僕のままでいることも許してくれる。手のひらから飛び立ち風に揺れる黒羽はゆっくりと地面に向けて墜ちて行った。
もう失わない。自分も、自分が自分でいられるこの場所も。僕が、僕であるために。
────。
白い、清潔そうなLEDの光が目に差し込む。どれほど眠っていたのだろうか。整えられたシーツと快適な室内環境。自分の部屋でないことは確かだった。恐らく病院か、暑さでやられたのだろうか。バカなことをしたな、と反省しておく。頭はぼんやりと濁り、記憶が定かではない。何か答えを感じたあの瞬間の記憶は、もういない。
多分、善意の誰かが救急車でも呼んでくれたのだろう。ありがたい話なのだろうけど、一瞬あのまま焼け落ちてしまえばいいと思ってしまう。──何故? 具体的な言葉が見つからず、不快感と脱力感が襲ってきた。疲れたのだろうか、僕は。大した苦労もしていないはずだったのに。僕の苦しみなんて、大したものじゃあないはずだったのに。
熱されたアスファルトと、暴力的な日差しが脳裏によみがえる。熱に浮かされたのか、それとも? 僕が何をしていたのか、何を想っていたのか、どこへ行こうとしていたのか、僕にはもう分からない。ベッドの傍らに置かれた時計は、七時。外の暗さからして、恐らくもう夜なのだろう。半日を無為に過ごした罪悪感と、家族への申し訳なさ。微妙に残る頭痛に右手を当てて、僕は俯く。
自分がどうしたいのか、どこへ行きたいのか、答えを得たような気がした。なのに、今の僕にはもう何も見えてはいない。自分の行き先も、過去も、誰かの愛も、空から見た世界も。少し消毒液っぽい空気を思いっきり吸い込んで、吐いてみる。新鮮な酸素は喉を駆け、生きている実感を与えてくれた。とりあえず、今はこれでいいかもしれない。
霧がかかった視界の端に、黒い何かが映る。半袖の、フードのついたパーカーが一着。付き添い人用らしい椅子の背に、掛けられていた。着ていた記憶はない。そもそも、持ち出した記憶もない。ただ、ぼんやりとした視界でもそれが、例のパーカーであることははっきりと分かった。分かってしまった。得も言われぬ恐怖と寒気が背筋を走り上がり、息が詰まる。
やはり、「アレ」は何かが違う。連動して記憶が掘り起こされ、擦れ違った「何か」の声が明瞭に耳に蘇る。
──翼、欲しい?
呼吸を荒げ、左手に刺さった点滴にようやく気付いた。落ち着け、と言い聞かせて体を倒す。LEDの明るさから隠れるように手のひらで目を覆い、必死に現実に戻る手がかりを探る。違う、ここにはない。これは、非日常なのだから。
──『翼』は。
違う。
ここは、違う。
現実じゃない、日常じゃない、平凡じゃない。ここは違う。不安定な足場が砕け散って、何かを掴もうとした手は空を舞った。信じていた、甘えていた日常は僕の中で脆くも崩れ去り、居場所を見失った心が恐怖に打ち震える。どこでもないどこかへ、墜ちて行くような恐怖が呼吸を握り潰し、心臓の奥底を暴力的に殴りつける。
目を閉じ、逃げても追いかけてくる非現実。夢まで辿り着ければ逃げられるだろうか。そうすれば、また詰まらなくて安心できる朝が迎えてくれるだろうか。その期待は捨てられない。なのに、眠れない。閉じた瞼の奥で、しっかりと、自我が囁いていた。もう、戻れないと。戻りたくないと、逃げ出したいと言っていたのは、僕自身だと追いつめる。それを誰よりも知っている僕は、逃げる場所も見つけられない。
震えて、ドアが開くのを待った。誰かが来てくれる、一縷の望みを託して僕は目を閉じ続ける。誰かが、この非日常から僕を引き摺り戻してくれるはずだと信じていた。それなのに、開くはずのドアは静寂を保ち、窓の外は闇に包まれる。眠れない長い時間を過ごすうちに、LEDの照明が落とされて夜を知らせた。目の上の手をどけると、誰もいない暗闇が静かに横たわっていた。
ベッドから出る気にもなれず、闇に溶け込んだパーカーを見やる。徐々に強まる頭痛を堪えて置き上がってみれば、酷い眩暈でベッドに押し戻された。抗い、立ち上がろうとすれど体は動かず、見えない何かに首を絞められる。息を止める意志に満ちたその暴力的な指先に、僕は抵抗できない。点滴に封じられた左手は動かせず、酸素を失った喉からは声も出ず。抵抗する力は、最初から無かったのだろうか。僕が、僕が弱すぎる故に。逃げ出すことしか、考えてこなかったから。決して望んでなどいない形で僕は終わっていくのか。
揺れる視界に、圧し掛かる黒い人影──いや、闇からも浮き出る黒い影の形は人ではない。その体を掴もうとして伸ばした右手は、途中で力を失い無様に垂れ下がる。嫌だ、死にたくない。本能だった。邪魔で邪魔で仕方がなかった、生存の本能が叫んでいた。ずっと知っていて、聞こえていて、だけど邪魔だと思い込んで目を背け続けた自分の声。ずっと否定しようとしていたのに、諦めようと思っていたのに。
締め付ける力は徐々に強まり、そこに何故か馴染んだ指の感触を感じた。細く、頼りなく、精々色鉛筆くらいしか持てないこの指は、きっと間違いない。こんなに力を持っていたなんて、こんなにストレートにぶつかることができたなんて、知らなかった。自分が弱いと思い込むことで予防線を張り、僕は逃げ続けていたんだろうか。こんなに、こんなにも生きようとしていた自分から。
──ごめんね。
もう声の出ない喉で呟く。ごめん、ずっと目を背けていて、ずっと向き合おうとしなくって。僕は知っていたのに、知らないフリをし続けていたんだって。やっと分かった、遅すぎたけれど、僕はやっと分かったんだ。死に誰よりも近づいた今、やっと。生きていたいことに。夢を追い求めてぶっ壊れるくらいに、誰よりも生きていたいって。才能、環境、自分、全部言い訳に過ぎなかった。夢から目を背けて現実を見るフリで誤魔化して、僕は、弱かった。
意識が消えるその刹那、一本の羽根が視界を過ぎる。それは誰かの涙の様に、静かに、しかし確かに、墜ちて行った。その軌跡を見送り、意識は飲まれる。
僕は、帰らないだろう。
※
左肩の翼は、何の違和感もなくそこに在った。当たり前かのように、それこそが、日常であるかのように。広げ、羽ばたいてみれば、それは優雅に動いた。幾本かの黒い羽根が散り、スカッとした青い空に零れていく。高い、コンクリートのビルの屋上から見下ろした街並みはシンプルで、一人の人影も見えない。現実じゃないな、と落ち着いて心に刻んでいた。片翼じゃ空も飛べないだろう。
空と床を隔てるフェンスに腰掛けてみれば、涼やかな風が髪と羽根を揺らす。肩の力を抜いて目を閉じれば、風の音に紛れて足音が聞こえた。聞きなれた、足音。だけど、他人の視点からそれを感じるのは初めてで。奇妙なコトなんだけど、不快感は無かった。彼が、どうしてここに来たのかは知っていたから。誰よりも、僕自信が。
彼の右肩の翼が、ふわりと広がる。黒い羽根を散らし、青い空の一角を斬り裂いたそれは美しい。表情を見せない顔だけれど、その目の光を見るだけで僕にはわかる。彼の辛さ、悲しさ、翼は至る所が欠けていて、背負い続けた荷の重さを語っていた。
虚空を背もたれに、フェンスに座りなおす。恐怖はなかった。片翼では飛べないことは知っていたけど、堕ちることはもう、怖くなかったから。言葉を発さないもう一人の僕から目を逸らして、バカみたいに透き通った空を眺めてみる。その果てない高さに吸い込まれそうになりながら、息を吸って目を閉じた。不思議なほどに力の抜けた肩から色々と落ちていく。今まで振りほどこうとして振りほどけなかった、色々なモノが。睫毛に風の冷たさを感じて、無意識に握り締めていたフェンスから手を放した。消え去ってしまえるほどに自由だった。
とん、という音と一歩近づく気配。数秒の間をおいて、もう一歩、またもう一歩。近づいてくる僕は、泣いているのか、怒っているのか。きっと両方だと結論づけて、それならばと笑ってみる。バカバカしくて、涙が出そうだ。まっさらな空に似合いそうな、空っぽの雫が。
「ねえ」
目の前半メートルに近づいた僕に、こう尋ねてみた。
「僕は、飛べるだろうか」
返事はない。不意に襟首をつかまれて、視界の青空が埋め尽くされる。口の一端も歪めないまま、左目から雫を垂らしている「僕」が、そこにいた。溜まり切った何かを流し出すように立ち尽くす僕が。何かを堪えていた僕が。ずっと、ずっと誰にも見られないまま戦い続けていた、僕が。色んな僕を、僕は知れた。いや、思い出せた。笑っていた僕、泣いていた僕、逃げ出した僕も、戦った僕も。そして、それら全てを忘れてしまった愚かな僕を。
「色々投げ捨てて軽くなった僕なら、どこへでも飛んでいけるだろうか」
嘘を吐かない僕に、聞いてみる。自由だったはずの僕に。その自由さ故に、何もかもを背負って辛すぎる空を飛んでいた僕に。答えは得られない、知っていた。飛ぶことの恐ろしさも、悲しさも、彼は知っているのだから。飛べない僕が一方的に投げつけ続けた苦しみは、空に無限に溶けていた。襟首を離そうとしない細い腕を、掴んでみる。その弱さは、間違いなく僕の物だった。
「もう、飛べない?」
尋ねたその瞬間、視界がぐにゃりと歪み、寸での所で引き摺り戻される。思いっきり右の頬を殴られたと分かったのは、数秒後の話だった。痛みは大したことはない、弱すぎる僕の拳。多分誰かを傷つけようとしても、痛みは自分の方が大きいのだろう。貧弱で、脆弱で、繊細過ぎるから。哀しい笑いが口の端から洩れて、切れた唇が少し痛んだ。
「殴ればいい。痛いのは僕も、君も、同じなんだろう」
どれだけ気に入らなくても、どれだけ嫌いであっても、自分は自分だ。変えられない。
「気が済むまで『僕』を殴ればいい、押し付けたければその左の翼も引き千切ればいい」
能面のような顔を睨みつけて、僕は言ってみる。その涙に濡れた、無表情な瞳の中で僕の顔が無限ループしていた。僕の眼は笑っているだろう。妙な落ち着き、勢いが、僕にはあった。この高さから堕ちるのならば堕ちてしまえばいい。何もかも失って消え去るなら、消え去ってしまえばいい。これは僕だ。不条理な扱いに耐えかねた、不条理な僕だ。
「僕はもう、覚悟だって決めているから────」
言い終える暇を与えられずフェンスから引きずり落とされ、体がコンクリートに強かに打ち付けられた。妙に鮮やかな痛みを長すぎる一秒で感じながら、僕は回る。目を開けた時、そこには青すぎる空が残っていた。右肩の翼はいつの間にか無くなっていて、僕は独り、たった一人、コンクリの屋上で寝転んで空を見ていた。落ちてはいない。
へっ、と頼りない笑い声が漏れて、零れた涎が切れた唇に沁みる。痛みは、僕の物だった。バカバカしくなるほど青すぎる空を見上げたまま、僕は目を閉じる。都合のいい心地よい風に体を任せてみれば、炎天下だって悪くなかった。もう少し、寝転んでいようか。もう少しだけ、この夢に身を投げ出しておこうか。帰る場所は大体分かっているのだから。