死の覚悟と憧れ
「…ナア゛ァ゛ァウ゛」
「……?」
目を閉じたまま、数秒が経った。
何故、来ない……?
来たるべき攻撃が、来ない。
これはおかしい、何事じゃろうか。
そろり、と瞼を上げてみる。
そこに居たのは、猫であった。
勿論、尋常な大きさでなく、その頭は儂がこの腕に抱きかかえたとて収まらぬであろう程に。行きの道すがら見かけた、(かなりの体格を持っているが)以前に見かけた身体が一部透き通るあの猫と同種に見える。
だが、その肉体は顔面の一部が焼け焦げ爛れており、眼球は熱にやられてたのか白濁し何も見えていない様だった。左の後肢と尾は半ばから失われ、半ば引きずるようにこちらへ近づいてきて来たようだ。血の轍が見て取れる。
この後肢はその透明になる特異性によって隠されている訳ではなさそうだ。
「…お前、身籠って、おるのか。」
そしてその傷付いた肉体は、風前の灯火の如き命なれどもしかし、生き足掻いていた。
生きているのが不思議なほどの重症を負いながらも、戦った相手から逃げ切り、儂の元へ辿り着いた。
見て分かる程に腹が大きい。
すぐにでも産気づいてもおかしくない程に。
おそらくこの魔の物は、生まれ来る子の為に生きている。
森の中で死ねば子も諸共死ぬだろう。屍肉喰らい共に食い散らかされる、それだけだ。
だがそれだけは避けるべく、強敵と戦ったこの場所まで戻ってきた。森の中であれば無事産まれたとしても、すぐに死ぬ。普通の環境でそうであるのだ。この魔境なら尚更だろう。まず、健やかに生きられはすまい。
故に、一縷の望みをかけて戻ってきたのだ。
強者の気配残るこの場所に。せめて産み落とすその時を平穏無事に過ごす為に。
……やはり、母は強いな。
幾度も、目にしてきた。悲劇も、奇跡も。争いの絶えないこの世において理不尽な出来事はありふれたものである。しかしそれらに決して負けず、挫けずに立ち続ける人の強さを知っている。その中でも、子を守る母というのは一層強い。最期の瞬間まで子を案じ、命を燃やす。
そうした人間が多かった。
この猫もまた、そうして子を守る為に命を燃やす母なのだ。
儂にもまた、母はいるのだろう。
戦禍に呑まれ、孤児ではあったが、それでと父が居て、そして母が居て、生命を繋いでくれたのだろう。
儂はもはや尋常な人間であれば数世代は重ねる程の月日を生きた。そんな過去の人間の父母なぞ探した所で血縁すら見つからんだろう。
そして、父母の、そして祖先の繋いだ血は儂より先には続かず、絶える。
……儂は、父母の様に何か遺せただろうか。
魔王を斃すという使命は果たした。
しかし、後に托す物は何も……何も、無い。
女々しいのぅ……。
十二分以上に生き、為すべき事を為し、死を受け入れたと思った矢先にコレじゃ。懸命に生きる母の姿を前に、こうも容易に覚悟が揺らぐとは。
死を悟った上で、その後の事を考え、自らが出来る事を懸命にやり通す……儂のソレとは随分と違う、覚悟。
……儂も何か遺せれば、遺せるのならその方が良い。
それは痛切に思う事だ。死を目前に、受け入れたが故にこそ湧いてくる願いだ。死への覚悟が揺らいだ今、様々な欲望が湧いて出てくる。未練や後悔。押さえつけていた感情が次々に溢れてくる。
『美味い飯が食いたい』安心して眠りたい』なんて下らないものから、『戦友に会いたい』『もし人里まで帰れたなら』『家族が欲しい』『生きた意味を示したい』なんて自分自身知りもしなかった願いまで。
だがしかし、現実では子を成せる歳でも無し、弟子が居る訳でも無い。
もはや生きて人里まで辿り着く事すら難しい。
思い返してみると、儂には何も無い事実に気が付く。
たくさんの戦災孤児達が魔王を斃す為に拾い上げられ、雑な教育と訓練を施され、その中で死んだ子は弔われる事もなく、死ななかった者達は幼いまま戦いに駆り出された。数多の戦場を練り歩き、無謀な作戦をどうにか生き抜き、やがてやぶれかぶれに立案された勇者作戦の一人として抜擢され、ここまで来た。
自ら道を選ぶ事も出来ず、ただ延々と戦い命を奪い続けてきた、そんな人間が今更になって後世に何か残そう等と足掻いた所でみっともないだけだと、諦念に至った。
やるべき事はやったのだ。
今更なんだ、他の事なぞどうせ何も出来ない。
やるだけ無駄だ。
いいだろう、もう。
疲れた。
休ませてくれ。
みっともない、生きあぐねた小汚い老人一人。
誰も居ない森の中で孤独に死ぬのだと。
もう生きたくないのだと。
諦め、投げやりになった愚者。
それが見てみろ、老いたるウォーデン・ラースよ。
この母の、生命の強さを。この気高さを
逃げ、又は戦う為の脚を失い、視界の半分を失い、飢餓や痛みに苦しみ、もはや死は免れ得ぬと否応無しに悟らずには居られぬだろうに。
それでも……それでも、なお胎の子を守り、生かそうとするその姿を見てみろ。
この美しき姿のどこがみっともない?
確かに生き汚くはあるだろう。
泥を啜り、腐肉を喰らい、肋は浮き出て毛並みはボロボロ。獣としての美しさはは捨て去った姿である。
さりとて、諦めないという一点だけをもって、この生命は美しい。……儂と違って。
「……何が潔く諦めた方が良いだ。何が死を受け入れるだ。なんと、まぁ…傲慢な思い違いよ。何も分かっていないのは儂ではないか。儂は何と浅ましく、見窄らしく……」
続く言葉が見つからず、溜め息を吐く。
そうあるのも一つの道ではあるのだろう。潔さはある。
だが、もはや良い選択だと思えない。覚悟は揺らいでしまった。
「頼みがある。その胎の子を、儂の命の限りではあるが、守らせては貰えんだろうか。」
この通りじゃ。
儂はもう憧れてしまった。
この生命の美しさに。その魂の気高さに。諦めない強さに。
飢えた獣に面と向かい、頭を下げる。
馬鹿げた行為だ。言葉も通じる訳がない。もし襲われたとて抵抗も出来ず喰い殺されるだろう。
それでも良い。それでも良いのだ。
荒んだ脳裏にやる気がにわかに湧いてきて、疲れた肉体に活が入る。
きっと、夢とはこうやって見るものなのだ。
憧れとは、こうやって紡ぐものなのだ。
この歳になって、儂はまだまだ物を知らん。
ただただ只管に戦い続けてきただけなのだ。
他には何も知らんのだ。
やりたい事も、他にやるべき事が何かも分からんのだ。
今からでも他の事を知る事が出来るだろうか。
守り、育む事が出来るだろうか。
この愚かな老人は、まだ生きたいと願っても良いのだろうか。
「ナア゛……ァ゛」
やがて、ドシン……と獣の気配が地面に横たわった気配がした。