1. boy and sora
この青空をきっと忘れない――。
僕がクラスの中に溶け込めず、自分の置き場がない気がして思い悩んでいた時、初めてその場所から青空を眺めた。なんて大きいんだろう、と体が学校の屋上から落下していくような感覚を覚えた。まるで海の上に漂いながら、遮るもの一つない青空を眺めているような、そんな心が膨らむ独特の体験。
うちの学校の屋上は本当は開放していなかったのだけれど、ドアの鉄の鎖が錆びていて取り外し可能だったので、一人、そこを訪れては給水塔の上に登り、空を見つめていたのだ。もう駄目だ、と学校を辞めようかと思った時、その青空を見たら、何故か不思議と――胸の痞えが取れたのだ。
こんなことがあるのか、と思った。鎧で覆われていた心にはいつしか隙間が生まれ、そこから心地良い風が吹き込み、底へ溜まり、やがて光の迸りが起こって、僕は殻を打ち破ったのだ。そんな想像をしてしまうほどに、その青空の広がる様は破格のものだったのだ。
こんなに空って広かったっけ? こんなに空って、近かったっけ?
僕はコンクリの固い感触を背骨に感じながら、それでも掌を翳し、入道雲漂う青空の透き通った色合いを網膜に映していく。それは海の底に散りばめられた硝子の煌めきのような、きらきらと心に瞬く不思議な光景だった。それを見ながら、僕は自分の抱えている問題を簡単に打ち壊すことができるような気がして、ふっと口元が緩んだのを感じた。
この青空が広がっている限り、僕の心はどこまでも羽ばたけるのかもしれない。それは僕自身の心と青空の美しさが重なり合い、やがて水平線に溶け込むまでの、小さな奇跡だった。僕はその空を見上げたまま、何で今までこんな大切なことを忘れていたんだろう、と思った。
いつも空はすぐ傍にあったのに、今の今までそれを見つめるということをしなかった。それがあると認識していないというのは、毎日を噛み締めて生きていないということなのかもしれない。
僕は青空の透き通った色彩を目に焼き付け、ゆっくりと起き上がり、頬を叩いた。こんなことでくよくよしている暇があったら、もっとそれに向けて手を尽くそう。そう思えて、僕はようやく心が晴れた気がした。
その体験がきっかけで屋上に通うようになり、僕はそれでもいつもと変わらずクラスには溶け込めず、孤独な毎日を過ごしていた。けれど、少しは人に声を掛けて、雑談ぐらいには話を持ち込めるようになったので、進歩したと言えば進歩したのかもしれない。
結局僕の思い描いていたことは、日常の延長線上の、やっぱり日常というささやかな幸せだったのだ。
そうしたある日、学校の校舎を歩いていて、階段の下で誰かが生徒に囲まれて蹲っているのが見えた。僕は何気なくそちらへと視線を向け、彼女が苦しそうに喘ぎながら、胸を抑えて体を震わせている様子を目にした。何というか、本当に尋常でない雰囲気だ。僕は立ち止まりかけたけれど、そっと脇を通り過ぎる。
「先生、呼んできて!」
「大丈夫? 胸が苦しいの? またいつもの発作よ、早く持ってきて!」
「保健室の先生、早く連れてきてよ! 何やってるの!」
僕は何だかその張り詰めた空気に気圧されて、早足でそこを通り過ぎた。あんまり遠目に見物するのも悪いし、何より関わり合いたくなかったからだ。
けれど、そこでその女子生徒が少しだけ顔を上げて、こちらを見たような気がした。苦しげに歪められたその顔から黒目がちの瞳が覗き、僕をじっと見つめている。それでも彼女はすぐに顔を伏せ、大きく息を切らせ始める。
僕はどこか後ろめたい気持ちを感じながらも、渡り廊下に出て、前だけを見据えて歩き続けた。遠くからまだ生徒達の大きな声が飛び交っているのが聞こえてきて、僕は最後にもう一度だけ、振り返った。
そして、少し硬直してしまう。その少女が、じっと、視線を伸ばしてこちらを見ていたような気がしたからだ。
*
彼女がこちらに気付いていたというのはやっぱり気の所為だろう、と僕はあまり気にせず、下校時にはすっかり忘れてその日を終えたのだけれど、やっぱりそれは気の所為じゃなくて、むしろもっと悪い意味でのあの眼差しだった。
「人が苦しんでいるのに、平然と素通りして、渡り廊下を歩く君の後ろ姿が見えてさ」
中庭で僕はまっすぐ前を見据えて、木々が立ち並び、芝生が広がる長閑な学園の風景に心を和ませていたけれど――和ませようと努力していたけれど、隣に座って恨み節を繰り返す彼女の言葉がもう無視できなくなってきた。
「あのさ、あの時周りに何人もの生徒がいただろ? それだけでもう平気じゃんか。僕が出る幕がどこにある?」
「あの時の君の冷めた視線ときたら、ドライアイスも生温かいと錯覚するほどだったよ」
「それは言い過ぎだ。というより、お前は誰だ。何で僕の昼食を邪魔して、さっきから隣で弁当食ってるんだよ」
「あ、もしかして食べたいの? うちのお母さん、本当に料理が得意で、私も教えてもらってるんだよ?」
「お前の弁当には興味はないが、僕の弁当をさっきから物欲しそうにじっと見るのはやめろ」
彼女は唇を尖らせて「意地悪だなあ、君は」とぶつぶつつぶやきながら、タコさんウインナーを一口で平らげる。僕はもう言い返す気がなくなって、ただ無視して食事を進めた。
「私が校舎でいい弁当スポットはないかと目を光らせていたら、木漏れ日の中で一人美味しそうに弁当を食べる君の姿が見えてね。邪魔する気はなかったけど、とても美味しそうに見えたから、ごめんね」
「邪魔する気、満々じゃないか」
「そうかな? 邪魔してるんじゃなくて、素直に会話を楽しんでいるんだよ」
彼女はそんなことを言って笑いながら、もう一つ、タコさんウインナーをつまんだ。
「あのさ、こんなにべらべら喋ってて、体は大丈夫なの? 突然ぶっ倒れられたら、僕の肩身が狭くなるだろ」
「私を気遣ってくれてるなら、ありがと。でも、大丈夫。大丈夫じゃないけど、たぶん大丈夫」
「どっちなんだよ、危なっかしいな」
「あ、一個貰うね。カレーコロッケ!」
「人の弁当に箸伸ばすんじゃねえ、行儀悪い」
「カレーコロッケ、うまっ!」
そんなどうしようもない会話を繰り返していると、せっかくの休み時間が終わり、間延びしたチャイムの音が響き渡った。
「あ、そろそろ行かないとね。美味しかった!」
彼女は弁当箱を包みに仕舞うと、にこっと笑って振り返った。
「ありがとう、三嶋君! 今度、カレーコロッケの埋め合わせするね!」
「今日のカレーコロッケの穴埋めなんて、もうできないよ。僕が楽しみに最後まで取っておいたのに、食いやがって」
「じゃあ、私が今度カレーコロッケ、作ってきてあげるよ! じゃあね!」
彼女はそう言って小走りに――いや、早い歩調で渡り廊下を抜けて下駄箱へと戻っていった。やっぱり速くは走れないんだな、と先程の元気な様子から忘れていたけれど、彼女は病弱なんだと改めて思い出された。そして、少しだけ空しくなって、僕は弁当箱に蓋をした。
*
それからというもの、廊下ですれ違ったり、放課後駐輪場で声を掛けられたり、と接触する機会が多くなり、その度に僕はあしらう文句を捻り出さなくてはいけなかった。彼女はとにかく元気で、活発で、それでいて体は脆くて、見ていて危なっかしかった。
一体、こいつは元気なのか病弱なのかはっきりしないな。僕は八度目の邂逅に溜息を吐き、廊下でそのまま無視してすれ違おうとしたけれど、そこで彼女が何か手に包みを提げているのが見えた。
「ねえねえ、お弁当作ってきてあげたから、食べてみてよ」
彼女が小走りの所為か息を切らせながら、廊下の中程で立ち止まり、その包みを見せてくる。僕は昼食は中庭で取ろうと思っていたけれど、毎度ながらのイレギュラーの出現により、スポットを変えようと思っていた。
「悪いけど、もうコンビニでパン、買ってあるんだ。別のイケメン男子にあげた方がいいと思うよ?」
「いいじゃん、そんなの。私がパンなんてペロリと平らげてあげるからさ! それとも、何? 女の子がせっかく作ってきてくれたお弁当を受け取れないって言うの?」
「悪いよ、そんなの」
「あ、少しは罪悪感あるんだ」
「悪いよ、そんなの、心と体に」
「どういう意味!」
僕らがそんなやり取りをしていると周囲を通り過ぎる生徒達がくすくす笑うので、僕はそのまま踵を返して歩き出した。
「ちょっと、待ってよ! 三嶋君!」
「本当に、大丈夫だから。昼は一人で食べたいんだ。じゃあね」
そう言って僕は一気に駆け出した。背後から彼女の悲鳴が聞こえ、「ずるいッ! 薄情者ッ!」と絶叫するのが聞こえたけど気にしない。
そうして僕が行き着いた場所は、あの屋上だった。鎖をゆっくりと解いて床に下ろし、僕はドアノブを握る。ゆっくりと女の人が絶頂を迎えるような、高い金属音が鳴り響き、ドアが開いた。ようやくほっと息を吐き、屋上へと出る。
その瞬間、暖かな陽射しが燦々と照り付けてきて、視界一杯に青空が広がった。僕は頭上へと視線を向け、口元を緩める。まただ、と思った。この青空は僕の想いを全てどこか遠くへ吹き流してくれて、心地良い広がりを心の中に与えてくれる。
僕はゆっくりと給水塔へ近づき、よじ登り、その上に横になった。コンクリートの固い感触が、今は体に心地良い。そして、青空が目の前に迫ってくると、僕は心の底からほっとできた。たぶん、この場所はこの学校で一番心を通り過ぎる風が涼しい、軽やかな聖域だ。僕はゆっくりと深呼吸し、ゆっくりと起き上がってコンビニ袋を開こうとした。
すると、そこで――。
「うわっ、と、うわわっ、あっ」
足元から危険な女の声がして、僕は危うく給水塔から転げ落ちそうになる。
続く