お嬢様に隙はない 前編
皆すまねえ!待たせた……。本当に待たせてしまった……。三部はこれから一気に終わらせる!がんばりゅ!
星が輝いていた。否、あれは雪であろうか。光の中を堂馬は遊ぶ。意識が星となって雲の間を回っていた。
"おい!死んでる場合じゃねえぞ!起きろ!喰われるのは俺様なんだからよ!"
何か声が聞こえる気がする。だが真夜中の、それも雪山のふもとで何が吠えるのだろう。気のせいに違いない。
そこまで思考がいった時、堂馬は己がいた場所を思い出した。視覚は戻らないが、かすかに感じられる上下の勘に従い、身体をひねる。
コンクリートが踵を削る音が耳を不快に刺激して、ようやく意識が時間に追い付いた。敵影は眼に映らない。しかし眼は必要ない。光よりはっきりとした殺気に逆袈裟に切り上げる。
わっはっはっはっは
わあっはっはっはっはっは
わあっはっはっはっはっはっは
笑っている。嘲笑っている。どこからか。少女の、山央白姫の体内からである。
水銀を漕いでいるかのようであった。足元から手首までの全力の集中は、練乳のように白く滑らかな指、薬指と親指の間に沈んで寸分たりとも進まない。
女子のものにしては太い、しかしその体格からみれば細すぎるほどの手首が返り、堂馬の持つ質量を軽々放逐する。
またもや宙を舞う堂馬だが、今度は遅れを取らない。器用に足を鉛直下に押し込め、着地した瞬間に転がる。足元に横薙ぎの斬撃。歩く足取りにも関わらず、飛翔する堂馬に少しの大股で追い付く白姫。そのアキレス腱のあたりに、刃が、確かに鋼鉄の魔刃が滑った。
冬用の厚手の靴下が、黒蜜のようにとろりと分かれる。餅肌との表現が似合う白い皮膚に赤い線。これはもう理解できない。只人ならばカッターナイフでもよほど切れるだろう。
従者が従者なら、その主人にふさわしい強健ぶりであった。
「鍛練ではこういかないな。天性とはこれか」
"そうゆうレベルじゃねって見れば分かるだろが!刀で斬れねえタンパク質があるかってんだよ!"
この世には近代医学の偉大なる成果に真っ向から唾をかけるような、特異な体質というものがある。そうあるものではもちろん無いが、確実に存在するのだ。
一種の関節技がまるで通じない者。致死の病を患っても、平然と生活を続ける者。
諸説はあれ、世界最高峰の斬具であることに論をまたない日本刀であるが、人の打ち出したものである以上、自ずと限界はある。
刀槍を受け入れぬ密度の人体が存在する。目の前の事実がそう告げているのなら、そう理解せねばならない。
"その柔軟さを、あのアマが人間じゃねえって認めることに使うんだよおー!!ありゃあ山王だ!信じらんねえ、残ってやがったのか!"
耳鳴りがひどい。己の技術と練度に少なからず自信を持つ堂馬であっても、認めざるを得なかった。
恐れているのだ。あの怪女を。愚直に流儀を積んできた己とはモノが違う。骨格が、筋骨が、五感が、基盤が違うのだ。
笑い声は止まない。腹話術であろうか。それにしても凄まじい肺活量である。
右よりの袈裟。はたきのように揺らめく指が巻き付いて静止。されども堂馬とて破れかぶれではない。刀が止まったなら己が動くまで。押し出す動きに屈するように手首と肘を折り、腕を身体に巻き込むように回転する。刀を取った手をひねり、相手の肘を脇に挟めば脇固めが極まる。
極まるまでの早さ、一瞬で肘を砕く威力、そして立った状態から入る奇襲性。軍事組織の格闘術においても真っ先に教わる技の一つであり、実戦性は高い。
それも人間相手においては、であるが。
軟骨がはじけるあの鈍い音が響かないと感知した時には、堂馬は刀だけを取り返して転がった。地面から一寸ばかり脚が離れる地震。白姫が一歩を踏み出した余波である。
道路に断崖のように垂直な足跡。砕かれた、どころではない。超高速かつ高圧の踏み込みによって、凝灰の路面が打ち抜かれたのだ。おそらく足元数十mにわたって断層が発生したことだろう。
「速い」
先に戦った、という妄想を行った幻の怪物との戦いで目が慣れていなければ、うっかり踏んづけたセミの抜け殻になっていただろう。だが、あの幻が知恵を持つ俊敏な獣だというのなら、この少女の形をした天変は、音を置き去りにして滑空する鋼鉄の柱だ。単純だが、ゆえに隙がない。獣を殺す術はあっても、頭上の巨岩を除ける技は存在しない。
”俺様はまだ怪異が薄いからあの程度なんだ!喰われる喰われる!逃げろ馬鹿!”
しかしおかしなことがある。あれほどの剛力、隙を見せないためとしても、手首から先でも用いれば堂馬を粉々にすることも容易いはず。あまりに消極的な、いやむしろ戦いを知らないお嬢様そのものではないか。
圧倒的な地力の差を埋め得るには、そこを突くべきか。だが足りない。攻撃に移らないにしても、隙が無いことは確かなのだ。
しかし、だがしかしである。いたいけなメイドを、実際に犯罪を行っていたとはいえ、脅迫じみた手段で誘い出し捕まえた。そのことで主人の怒りを買い、あの異様な迫力が攻撃力に転化するのではと、仮にも勝利を志す芦屋堂馬が、予想していなかったのであろうか。
否、呼び寄せたのだ。山女は布石である。
隆起し、礫となった道路の欠片を蹴る。狙いは無論、白姫ではない。
回転と共に地を二度打って、跪くように寝かされた山女の額で跳ねる。
”あ、女子を逆さにして辱めてやんの!鬼畜!”
喋らずに人を斬る刃物に言われたくはないし当然のことながら剣は喋らない。喋るのは人である。頸動脈を締めて意識を飛ばした程度では、自然に意識を取り戻す可能性は高く、また刺激を加えればその蘇生も早まる。頭を下にして血流を送り込むのも効果的な活性法である。
腿のあたりに感じる少女の感触に、意識が通い始めた。身じろぎをして堂馬の足から逃げる。
「ん……。お嬢様」
眠りこけていた意味を思い出せていないのだろう。とにもかくにも主人にみっともないさまを見られまいと、反射的に襟を正す。足元はまだおぼつかない。
白姫の目つきが変わった。正確には左の眼が。磁石に引き寄せられたかのように的確に、素早く、山女へ視線を指向する。そこに込められた圧に山女は硬直するが、脳に冷や水を浴びせられたことで記憶を戻したようであった。瞳孔が拡大し、堂馬を視界に入れる。
[や、まめ?そこに、そこにそこにいた、そKsokokokokoosdmkfneuer[@pdfa]
ぶん、と白姫の首が振れた。頭を砕かれ、神経節の電光で暴れる蟲のごとく。統制から解き放たれた四肢が自由を謳歌し、物理演算の狂ったアバターのように暴走を始める。
「お嬢様!いけません!」
山女が懇願する。だが嘲笑う声は止まない。より高らかに歌い上げる。
「おお、思ったより効果あるな」
”何やってんの!?”
相手の隙を突く、というのは闘争のいろはのい。子供とて教わることなく対手の動きをうかがうものである。しかし言うは易けれど、現実には困難が付きまとう。
故にこそ手を変え品を変えて、思考を反射を重心を誘導するのであるが、これもまた予想外と無縁ではいられない。他人の心を意のままに操るなど、所詮は机上の空論。神経の電火の中でどのような化学反応が起こるのかは、やってみなければ分からない。
その意味では、堂馬の策は辛うじて成功の範疇に収まったといえよう。
白姫が炸裂した。骨の髄にまで叩き込まれた身体制御が手足より失われた、ねずみ花火のように跳ねる。速度は間違いなく最高。だが堂馬には見える。弾丸の域にあるといえども、曲線を描く軌道。そして意志を失ったがゆえに、物理に従属した運動。質点さえ見極めれば、危険の範囲から離れることは困難ではない。
山女の身体を生垣にして転がり避ける。もう下女に対する容赦もないのか、あるいはその地位が獲物にまで変わったのか。山女のどこかに手足がかすり、主人同様に錐もみして跳ねだされる。
しかし直撃はしない。逸れたのは白姫のほうだ。
「バグってるな。脳にまでなんかキてるんじゃねーか?」
”うわー!うわー!あぶねえ!俺様は斬るのが好きなんであって戦いは嫌いなんだっつの!”
奇行は激しさの度を増す。関節のそれぞれに別な意思が宿ったかのようである。見境の無い力の噴出が、彼女自身を壊し始めていた。食欲に抗する人間性の残り香が消費し尽くされるまでの、あといくばくかの時間で、自壊するか変態に至るかが決まるのであろう。
しかしその時を待つ理由は堂馬にはなかった。八双に構える。一動作で袈裟に打つことができるのもあるが、何より八双は腕に負担が少ない。堂馬とて余裕がある訳ではないのだ。動けるのはあといくらか。あの暴獣につけいる経路をその間に見出さねばならない。
殺気を感知してか、白姫の左目が堂馬を、その手に掲げられた刃を睨む。従者にくれたような慈悲は期待できないようであった。
眼球が電気に当たったように震え、止まる。その前に攻めに転じたのは堂馬であった。守ったところで防げはしない。積極攻勢がむしろ防御である。速度差は比べるまでもないが、一足一刀の距離ならば不意を突くことで埋められる差だ。
白姫の手が刀身を追う。堂馬の眼ではそれを見切ることは出来ない。だが見れずともその裏をかくことは可能だった。
直ぐであった刃筋が横に滑る。人の手から逃れる羽虫のように、あえて安定を捨てることで軌跡を読ませない。長刀の先端、それも使用者でさえ追いきれない胡乱な一閃を、しかし繊手はその爪先で齧る。
堂馬の横蹴りがみぞおちに入った理由は、白姫が棒立ち同然であったこと。堂馬が腕だけで剣を振っていた、要するに虚の斬撃であったこと。何よりも、白姫の狙いが敵対者ではなくその得物にあったためである。
初めて白姫の方が後ずさる。体重は堂馬に分があるようであった。岩壁を蹴ったような、骨を長く揺らす痛み。細身の少女は、風にそよぐ稲穂のように一度二度重心を入れ替え、また棒立ちに戻った。
「狙っているのは刃。衝撃で数秒自失する……」
”人様を餌に分析してんじゃねえ!あ、俺様人じゃなかった!”
人ではないし喋りもしない。そして剣を餌にすることで、敵の無敵は必ずしも完全ではないことが分かる。獣ではない。むしろ蟲。固定的なプログラムを延髄に流された機械に近い。瑕は多いわけではない。だがその間に入ることは、可能であると判断した。
天才。それは間違いない。絶対の差として、白姫は堂馬を上回っている。理解は出来ていた。
その上で勝つ。弱かろうとも勝つ。堂馬が望むのは乾いた有利不利でなく、一時のどを潤す勝利であるからだ。
乾坤を擲つと決意する。堂馬の剣尖がゆるりと下った。速くはないが、途切れも無い連続した所作。手の内の質量を確かめるように小指を絞る。脱力。
白姫の瞳孔が猫のごとく広がった。昏い穴蔵から観測不能の熱量が注がれる。刃に緊張が走ったように、はばきがきちり、と鳴った。その奔流からの抵抗を、わずかでも下げるように、無銘の太刀の投射面積が狭まる。面が線に、線が点に。そして雪よりも小さな、宙に揺れる星と成った。
「天山鳶流。受けてみるか、獲物の手妻を」
挑発は聞こえもしなかっただろう。だが悪食をむき出しにした怪物は、逃げぬ餌を見放すことは無かった。
「いけません!駄目です!」
山女の、普段の抑揚から大きく外れた叫び。
「お姉様!」
ちらちらと落ちる雪が、放射状に霞む。動いた、と感知した時には堂馬もまた動いた。
勝負は一瞬。打つか魔剣。成るか惑星。




