乙女は言うほど乙女じゃない
雪は天からの手紙である。と言ったのは雪の結晶の観察に人生を捧げた科学者であったか。その言葉を聞いた時、科学者にしてはロマンチックなことを言うものだと芦屋稲は思った。
逆に、彼女の兄は科学者は総じて感傷的なものだと話した。世界の神秘を解き明かし、人類の知識をより高次のものとするため、貴重な時間を際限なく浪費する。そんな生き方など、よほど何かしらに憑かれていなければできない。本当に現実主義者なら経済学部や法学部にでも行って社長か法律屋にでもなるだろうと。
その頃はまだ小学生であったので、中二の兄のいうことは良く分からなかったが、今になってみると多少斜に構えてはいるがそんなものかもしれないと感ずる。そも、300年も下れば科学もオカルトの一分野であったのだ。杖を振るって呪文を唱える儀式と、フラスコを振ってノートに書きつける行為の間に大した違いはなかった。
科学は願いなのだ。森羅万象に然るべき理由が在って欲しいという切なる欲望。理不尽が全てだと悟り得ない俗物達の抵抗である。
雪が降っていた。親指の先ほどもある牡丹雪がゆっくりと革靴に舞い降りる。鼻先を抜けていく丸い塊をつぶさに観察すれば、絡まり合う幾何学模様が乱反射する光を湛え、風に散ってゆく様までが見えた。
積もり始めたばかりの綿菓子のような雪の絨毯の上を、女学生達が心なしか浮足だった調子で歩いている。雪国に長く住む者にとっては、これから果てしなく続く豪雪との闘いへのゴングに過ぎないが、まだ10代も半ばの少女達には心踊るものがあるのだろう。
それに、ここ北山学院において、雪かきに精を出したことのある生徒は少数派だ。県内で女性が高等教育を受けられる場所といえば北山ぐらいのもの、と言われた時代から続く由緒正しきミッション系の教育機関である。宗教系ゆえの、私生活にも清貧と潔白を求める教育姿勢に賛否両論あるものの、未だ経営を支える程度の人気はある。あるいはそれがブランドというものかもしれない。
奥深い山間にある校舎に通じる交通機関は路線バス位のもの。年によっては人が埋まるほどの雪が積もる。徒歩や自転車で辿りつくには大の男であっても辟易するだろう。山の頂き付近に立つ礼拝堂は、ほとんどモンサンミッシェルの要塞要素を抜き出したかのように見える。
通学にはバスか車か、寮生活かになる。稲は家からバスに乗って山の中腹のバス停で下り、斜度20は固い坂を見てげんなりするのが日課であった。
見上げた空は鉛と白の斑模様。通学鞄を手に、部活の着替えが入ったバックを肩にかけて坂を登る。
どか雪と言う程ではないが、視界をレースのカーテンのように覆う雪は払い落とさなければ服に張り付いて体温を奪う。校門をくぐり、行き交う少女たちの邪魔にならないよう道の横にどく。稲は濡れそぼった犬のようにぶるぶると体を振り、雪の塊を払った。
「芦屋さん?その振る舞いは学院生としていかがかと思いますわ」
顔をあげると、お団子に髪をまとめた少女が険のある目つきでこちらを観察していた。肩に少し雪が乗っているが、しわ一つ無い制服は乾いている。朝早くに登校して服務の監視をしていたのか。
うげ、と小さく女子らしからぬ呻きを上げる。大徳寺沙霧。風紀委員にして、北山学院中等部のお局さまの異名を取る少女である。
普段から何かと口うるさいのだが、こと稲の不作法を見つけると鬼の首を取ったように指摘してくる。稲にとっては面倒な相手であった。
「あなたも中等部の3年、最高学年ではありませんか。いくら高等部のお姉さまがたが手本を示していらっしゃるとは言え、後輩がまず初めに見習うのはわたくし達の立ち振る舞いですのよ?」
「わかっていますよ。ただ雪を払っていただけですから」
同級生に猫をかぶって話すのは癪だが、ここで言い争っても仕方がない。喧嘩をするために学校に来ているわけではないのだ。
しかし慇懃無礼ともとれるその態度は、沙霧の神経をより昂らせたようで、舌某が一層鋭さを増す。
「それがいけないのです!無意識にやる仕草を見て、当たり前のことだと勘違いする人が出てくるのです。芦屋さんは特に、皆さんから尊敬される家の出なのですから」
「家は関係ありません。私の問題です」
思わず硬い声が出る。よくないやり方だと思っていても、口が構うものかと動いてしまった。時々家のことを持ち出すところも苦手な理由だ。
芦屋家は確かに古い家だ。家系図を辿れば平安時代の貴族の何がしに行き着くのだとか。だが言ってしまえば辿り着くというそれだけのことである。
狭い日本、10代も遡れば大抵の人は貴族だのやれやんごとない血筋だのに引っかかりもする。何百年と百万石の都の片隅に住んでいたために残っていた、それだけの家だ。囚われる理由など無い。
空気が変わるのを感じ取ったか、沙霧が刃物を突きつけられたように顎を引き、歩いていた生徒たちが歩幅を縮めて心配そうに2人の方へ視線を流す。沙霧も風紀を取り締まる責務を負う立場。言われっぱなしで引き下がることはできない。
腹を膨らませて息を吸い、より強い言葉を打ちだそうとしたのか。その真意は分からない。口が意味ある声を結ぶ前に。
山が、揺れた。
木々のざわめきは鳴く暇も惜しんで飛び立つ鳥の羽ばたきか。野を這うもの、地を蹴る獣、流れを渡る水棲の存在。動く術もない植物と菌類以外の生きとし生けるもの全てが、それを畏れ、山を下る。
いつもより早い。道にいた全員が、そう思いながら体を縮こめたのは寒さのせいではなかった。高等部では受験を控えて、生徒たちによる自主勉強会などという意識高い行事が行われていたことを知り、その時点で登校していた学院生らが歯噛みするのは後ほどのことである。
ごつ、とボーリング玉を道路に落としたような音が、静まりかえる通学路を吹き抜ける。ごつ、ごつ、と連続する音は、一つ刻まれるごとに強さを増し、それが移動していること、あまつさえ接近しているという冷厳たる事実を知らしめていた。しかしこの異音。何がどう動けばこうも重々しい、非生物的な波を起こせるのであろう。断続して続く地震と言われても納得しかねない。
まず坂の下から現れたのは、舞い降りる新雪を黒く染めあげそうなぬばたまの髪。この時点で道を歩む人は、白い草むらに蟻のごとく列を作り、前屈と見まがうほどに腰を折っていた。これは謙譲の心からでた行為では無い。降りかかる死から目をそらす死刑囚の心理そのものである。
髪から頭が出てくる前に、その左から真っ白なフリル付きのカチューシャが出てくる。一部の特殊な喫茶店の従業員が着用していそうなものだ。かぶっていたのは小柄な少女。学校指定の制服のはずだが、頭に輝くカチューシャ、清楚なデザインと暗色のカラーリングの制服の相互作用によって、英国の女子使用人服に見えないでもない。鞄を両手に1つずつ握っているのは、主人の手間を省くためか。
ごつ、と、玄武岩を叩き合わせたような重低音を先ぶれとして、遂に巨大な気配の源が浮上した。
少女、と呼ぶべきなのだろうか?少なくとも頭に1が付く年頃に見える。肌は化粧研ぎを終えた日本刀の刃のように白く、固く結ばれた唇は、血とは鉄であると否応無しに思い知らされる赤。
その肉の隆起は列島の背骨を貫く山脈の険しさを湛え、瞳に通う毛細血管の一筋までが、夜の嵐に荒れ狂う暴河の威力を秘めている。
従者の小柄な体を差し引いても、その頭が水月の高さにくるほどの抜きん出た長身。170cm台の後半はある。しかし絶対的な基準である長さの指標は、彼女に限っては無意味だろう。その威圧の前では何人たりとも彼女の上に頭を置くことは出来まい。物言わぬ山ですらが、己の高さを恥じているようであった。
立てば炸薬、座れば砲弾、歩く姿は妖星ゴラス。その絶世の迫力をほんの僅かに緩めるのは奇妙な髪型である。
腿までくるカミソリのような冷たい光沢。そのひと房を取り、前髪にゆわえて簾のごとく左貌を隠している。当然校則に許された頭髪ではないが、誰がそれを指摘出来よう。黙示録の光輝を放つ双眸の視認を可能にする人物は、教師を含め学内に3名のみである。
普通ならばただ単に奇をてらった、見る者によってはふざけた髪の結びであるが、目を向けるのに深淵を覗く勇気を必要とする美貌を覆うことで、ロダンの地獄門の如き美を獲得していた。
その名。唯一の神を奉ずる北山学院において、ともすれば4文字の名より畏れられたその名。"天よりも威なるお方"の異名をとる学院の覇王こと、山央白姫。
お嬢様である。
歩道を歩く。それ以外何一つ特異な行動はとっていない。だが足を石畳に落とすたび、一握の砂を飲まされたように下腹が重くなる。まだ入学して日の浅い中等部の生徒たちの中には、卒倒しないように身を支え合うものさえいた。それにしても、速い。足音はむしろ悠々とした、上品なリズムを刻んでいるはずなのに、気が付けば堤を破る直前の濁流の如く、抗う気力も萎える破壊力が通り抜けているのだ。
死線を前にした体感時間の遅延でないことは、主人の前を告死鳥の如く進む従者の少女が、ほとんど小走りのように足を忙しなく入れ替えていることから分かる。日本人女子としてはかなりの長身であることを差し引いても、歩行の速度ではない。
道の両脇に体を折りたたんだ少女らが灯篭のように並ぶ中、足音が止まる。稲たちの言い争っていた場であった。
「大徳寺さん?」
沙霧の膝がおこりのごとく震える。唇の色は紫に変じ、冬の日本海に百数えるまで漬けたかのようであった。
「は、い」
末期の息で辛うじて出した。そんな声で答える。合気道の練習で、運悪く肝臓に肘が入った時に自分が出した声と似ている。などと場違いな連想をする稲。
「朝早くから風紀委員のお仕事をするのはとても立派ですし、芦屋さんにも非があることは分かります。ですけれど、お家のことで責めるのは少し強引ではないかしら。どなたも生まれは選べないものですから」
決して強い言い回しはせずに、相手を傷つけない配慮を感じる口調。しかしそれが地球の中心まで続いていそうな口より発せられると、たちまちスレッジハンマーのごとき重量を獲得し、生真面目な風紀委員の横隔膜を打つ。並みの女生徒であれば、半日は保健室で寝込まねばなるまい。周囲の生徒達が心配そうに眼を動かす。
だが、今にも崩れそうであった脚でしかと雪を踏みしめ、腰の角度を最敬礼の大きさまでに戻す。周りから驚愕に息を飲む音が聞こえた。大徳寺沙霧とて、一癖ある女学院の変人相手に校則を叩きつけて戦ってきた風紀の守護者。こんなところで倒れるわけにはいかない。
「ええ、わたくしも言い過ぎたようですわ。ごめんなさい芦屋さん」
腹に力を込めて発声する。先ほどの死相はもう見えない。
「いえ、私もつい頭に血がのぼって、こちらこそごめんなさい。先輩も、お手数おかけしました」
沙霧と白姫にぺこりと頭を下げる。驚天動地の精神力。芦屋稲、学院で山央白姫の目を見て会話できる、3名の勇者のうちの1人である。
「構いません。皆さん仲良くしていただけるなら、私も嬉しいもの」
にこりと笑うと、半分髪に隠れた顔が愛嬌のある表情になる。猫科の猛獣も、狩りでなければ案外可愛い所もあるものだ。隣の山から一斉に鳥が飛びたったのは偶然であろう。
「あ、山女先輩。この前もらった差し入れのおからクッキー、とっても美味しかったよ!また遊びにきてね」
稲がくだけた調子で話しかけたカチューシャの少女、八尺山女は、後輩の態度に気分を害した様子もなく、軽く頷くと主人を促した。
「お嬢様。学友の皆様が待っておられます」
「あら、もうそんな時間なのね。ごめんなさい、2人とも。仲が良いのはいいけれど、喧嘩はほどほどにね?」
「「仲良くありません(わ)!」」
稲は不満そうな顔で、沙霧は最敬礼の姿勢のままで声を揃える。見事な連携であった。
少女というにはあまりに色々と巨大なお嬢様は、くすりと笑うと高等部の校舎に向けて歩き出す。従者も2人に会釈し、その後を小走りで追った。
ごつ、と肉から出るには重々し過ぎる足音が去り、辺りに安堵の気配が漂う。重圧を除けば10代の少女たち。すぐに元気を取り戻して、話しながらもとの経路を歩き始める。
「芦屋さん」
「なんですか?」
挑戦的な沙霧の態度に、今度はわざと慇懃に問う。
「確かにあなたの力は認めますわ。ですが!その力も正しく使われてこそのもの!風紀委員の意地にかけて、必ず更正させてみせますわ!」
今日の所はこのくらいで勘弁して差し上げましょう。と捨て台詞を残して足早にその場を離れる沙霧。スカートがはためかない最大限の大股で歩いていくのは流石である。
「更正って。1984年じゃないんだからさ」
ぼやきは手短に終えると、稲もまた自らの定められた居場所に足を運ぶ。見上げれば礼拝堂の尖塔の先に立つ、氷雪に鎧われた十字架。信仰のためのただの記号が、その深層を衆目から遮るために白をまとったように思えて。
どこか不気味な印象を覚える。
異常な事件が雪の要塞に暗躍する前日。その日の内では変わらぬ日常の、朝早くの出来事であった。




