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だが剣が喋るはずがない  作者: 娑婆聖堂
第二部 動地剣惑星(まどいぼし)
14/39

ピンチに手段は選んでられない

 階段をのぼり、通路を進む。古びて黒ずんだ床と、塗装がはげて錆の浮いた手すり。歳月は建物に威厳を与えることもなく、ただそのみずみずしさだけを奪い、真新しいペンキの香りは昇華し尽くして、今は埃っぽい空気が漂うだけである。

なるほど普通のアパートだ。心霊スポットなどと言うものをマイナスイオンやプラズマなんとかくらいにしか思っていない堂馬であるが、そういう場所にはそれなりの雰囲気が漂っていることは分かる。

人は空気に流される程度に愚かだが、煙のない所に火の存在を信じ切れるほど信心深くもない。だがここには妖気と仮称できるような寒気は微塵も感じられない。子供が怯えるのが理解し難い。部屋に原因があるのだろうか。


「で、問題の部屋は? 」

「704。7階の奥から4番目だな。もう行くのか?」

「他人のお宅に突撃するのにポン刀持っていくわけにもいかんだろ。抜刀隊じゃないんだから」


未だ尻込みする熊鷹に呆れたように答える。馬鹿にしてはいないが、存在しないものを怖がる感覚がどうも理解できない。果断に富むが故の無神経であるが、天然のものであるだけに自分でもどうしようもない。

例の男の住む部屋の前に立つ。パソコンの動く音が頬の産毛を心なしか震わせたように感じた。床の薄いアパートでは確かに不快な騒音だろう。そして聞いていた通り、我慢できないほどのものではない。ただの機械音である。

インターホンを押す。何となく予想してい通り応えない。大きく三度ノックして叫ぶ。

「すみません!管理人の親族の者なんですがね!」

反応はない。一日どころか一週間に数回外出するだけの生活を送っているらしいが、部屋の内に人の気配がない。ドアの隙間から幽かに腐臭。


ドアノブを回す。抵抗なくドアが開いた。鼻の粘膜を突き刺すような強烈な臭いが熱風と共に襲いかかる。くさい、などというものではない。刺激に反応して無意識に涙が出るほどだ。とにかくゴミが多い。廊下の先が地平線のようだ。電気をつけたが明かるくならない。蛍光灯が全て外されて、棺桶の中のように

堂馬も熊鷹も潔癖とは言えないまでも感性は日本人のそれである。臭いものに蓋を地で行く勢いでドアを閉めた。


「こりゃひどい。問答無用でさらし粉かDDTぶっかけて追い出せばいいんじゃないか?」

堂馬にとっては魑魅魍魎より感染症のほうがよほど怖い。幽霊が何人か殺したか知らないが、病原菌は確実にこれまでの人類の半分くらいはあの世に送っているのだ。何より剣で殺菌は出来ない。

「どんなやつにも人権はある。問答無用という訳にはいかんがしかし、これはひどいな。さすがに靴を脱いで入りたくはない。一旦撤退だ。管理人に相談して装備を整えるぞ。……しかしこりゃ下手したら死んでるかもな」


熊鷹の一声で管理人の部屋に転進し、状況を説明。管理人にも件の部屋を見てもらうと、度を超えた惨状に頭を抱えて、こうなれば業者に清掃してもらって直ぐに出てもらう運びとなった。

まずはゴミが溢れる廊下を突破するために長靴とゴム手袋を装備し、気休めにしかならないがマスクで鼻を防護する。準備が終わる頃には大分暗くなっていたので、懐中電灯も用意しておく。


また部屋に入ると、変わらずに腐敗した空気が出迎えた。外の気温は一桁であるにも関わらず、室内は恒温動物の内臓のように暑く、ねばつく程に湿りけを帯びている。不快な甘さが鼻につく中、浅い所でもくるぶしまで埋まるゴミの海を押しわけて進む。当然堂馬が先頭である。

そう広いアパートではない。小さな家族がやっとこさ住める程度の、1LDKの居住空間である。廊下を乗り越えると洋室にたどり着く。80インチはありそうな大型のモニターが三面鏡のように3つ、上に少し小型のモニターが2つ並び、そこだけが塹壕のように穴が空き、かろうじて床が見える。

恐らく一日の過半、下手をすれば全てをそこで過ごすであろう皮張りの高級そうな椅子は、主がいなくとも周囲に埋没しない存在感を放っていた。雑然、というよりは混沌の字句が相応しいリビングに人の気配はない。

他にも部屋はあったが、この部屋の住人はパソコンの周囲1m程を生活空間にして、残りはゴミ置き場と考えていたようで、何もかもが廃棄物で埋れていた。


「やれやれ、誰だか知らんが住んでる奴はゴミに埋まってるんじゃないか?」

熊鷹がぼやく。悪臭と不快感の中作業してわかったのは、この部屋を片付ける便利屋はさぞかし苦労するであろうと言うことだ。

「いや、しかしおかしいぞ牛寅さん。いくらなんだってこんなになるまで気が付かないことはないだろ。大体こんなゴミが3日やそこらでたまるもんか?」


堂馬の疑問ももっともであった。管理人が最後に住人に会った時、汚れてはいただろうが常識の範囲内のはずだ。それから一週間足らずでここまでゴミだらけになるのは並大抵のことではない。汚部屋とて一日では成らないのだ。


「物は黒猫でも密林でもいいが、生ゴミ含めてここまで溜めるには相当な人数が要るぞ」


熊鷹が顔より太い首を傾げる。

「どうにかして詰め込んでたってことか?まあ警備員なんていないし、できなくもねえだろうがよ。なんのためにんなことをやるんだ?独立宣言でも出そうとしたのか?」

「誰かを匿ってたのかもしれん。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりが、ばれたら不味いとこまで足を突っ込んだとか」

「それは……、あるかもしれんな。ばれそうになって蒸発と。となるとただの捜査案件か。やれやれ、一報入れなきゃならんな」

徒労であるとわかった熊鷹の表情にはどこか安堵の色がある。どこまでも心霊現象が苦手な男であった。


「みかんのついでにポンジュースも入れてくれよ。こんな発掘作業は聞いていないぞ。稲に絞られるのは俺なんだからな」

「おうよおうよ。好きなだけ」


ばしゃん、と音がした。壁の薄いアパートだが、隣からのものではない。この部屋で大きい水音のする場所と言えば風呂場しかない。

二人とも風呂場はあえて見ていなかった。この腐敗臭の中で密閉された空間にいれば冗談では無く死にかねない。そしてその中に誰かいるとするなら、風呂場で死んだ人間がどうなるか知識を持っていれば、蓋をしたくもなるものである。

だが音がした、ということは何かあるということにほかならず、そうと知って目を背けるにはどちらも意地や負けん気というものがあり余っていた。難儀な性である。


「入るしかないか」

「入るしかないわな。堂馬、おめえは後詰めに回れや。こうなると本当に隠れてるかもしれん」

「あいよ」


風呂場は中央の廊下の中ほどにある。なんの変哲もないユニットバスのはずだ。堂馬が壁に耳をつけて、気配を探る。微かに水の滴る音がする。人の息づかいは感じられない。

「ドッキリはなさそうだ。あるとしたら火サスかな?」

「よせやい。オッサンが見たってんじゃかっこつかねえだろが」

言いながらもドアを盾にしてゆっくりと開ける。

だいぶ麻痺してきた鼻の粘膜が悲鳴を上げる程の臭気が漏れてきた。


緑か、黒か、赤か、人類の語彙では説明し難いマーブル模様が、そのどろりとした質感を主張するように渦を巻いていた。そこに浮かぶ枯れ木のような物体が何であるか考えたくもない。

汗ばむほどの湿気と気温の中で、なぜか完全にミイラ化した遺体は、その中身が空っぽであることを主張するかのように、水面がとぐろを巻くのに合わせてゆらゆらと揺れていた。

大抵のことでは小揺るぎもしない二人も、吐き気をこらえずにはいられなかった。


「うへぇ、たまんねえな。死後一週間は固いか?」

「言ってる場合かよ!とっとと閉めてくれ、臭いがひどい。」

「そうもいかん。報告して指示をあおがにゃ責任問題になっちまう」

律儀に懐から年季の入ったガラケーを取り出して、ダイアルをポチポチと押し始める。堂馬は心底不快げに鼻をおさえる。ゴミの腐汁で汚れてはいたが、そんなことにかまっていられない。

「これだから親方日の丸ってやつは嫌だね」

「お役所なんざこんなもんよ。悪いな、こんなことになっちまって」

「いいさ別に、世話にはなってるし」


コール音が始まった瞬間に、電話が繋がった。仕事熱心だと少し感心した熊鷹の耳に、人の声の持つ特有の波長を平均化したような、霞がかった声が届いた。


『ああ、ええと、聞こえてますか』

「あ、ああ。いや、すいません、番号間違えたようで」

それなりの期間勤めてきた職場の誰とも合致しない声に戸惑う熊鷹。しかし声は慌てるそぶりもなく続ける。

『いえ、これで合っています。無理を言って変わってもらいました』

「変わったってあんた」

『単刀直入に言いましょう。今アパートにいますね?直ちに脱出して下さい』

「はぁ?!」


熊鷹は混乱していた。自分がここにいることを知っているのは、少し噂話に詳しければおかしくはない。別に秘密任務というわけでもないのだから。だが警察に無理を言って応じさせるなどという話は聞いた事がない。それもこんな、言ってしまえばくだらない相談事に首を突っ込む理由が分からなかった。


『理解し難い話でしょうが、時間がありません。何しろまだ人がいるとは』

「おい、ちょっと待ってくれ。まだ人がいる(・・・・・・)?ここはアパートだぞ。どこかと間違えてるんじゃ」

訝しげな熊鷹に構わず声は続ける。態度は平静そのものだが、どこか焦りがあるようであった。

『いいえ、間違いではありません。我々は後手に回りました。その建築は12時までに破壊されます。これは生存者の有無を考慮せずに実行されます。直ちに避難してくださ』


ばしゃん、と水音がした。携帯からの声がノイズ混じりになる。湿ったなにかが床を這う音。

「おい。牛寅さん」

堂馬の固い声。腰が引けている。

その目線の先で、それが立ち上がった。全身の肌は、何が入っているのかパンパンに膨れ上がっている。顔だけが干物のようだ。息をしているのか、生前の癖なのか、ひゅう、という掠れた息遣いに混じって、ごぼり、と腐汁が飛びちった。


『残念なが……らで………どうしようも……こうう…を』

電話が切れた。足裏の皮膚を削って、体を引きずるように近づいてくる。熊鷹は目を見開いたまま動けない。

「おい、牛寅さん!」

堂馬が耐えかねるように叫ぶ。


「なんか蘇生したんだが病院呼んだほうがいいのか!?」

「いやいやいやいや!」

金縛りはあっさり解けた。

「なんかこう……問題なんだろうけど介抱するのはきついっつーか、感染症とか怖いんだけど」

芦屋堂馬、清潔が本能に備わっている大和民族である。

「いやっ、そういうレベルじゃないだろうが!」

「なんだよ、まさかゾンビだとでも言うんじゃねえだろうな」

「まさかだろ!」

「だよな」


絶妙に噛み合っていない会話を無視して、あるいは聞こえてもいないのか、屍鬼が熊鷹の首筋目掛けて飛びかかる。

だが鍛えているだけあって、硬直さえ解ければ動きは速い。即座に転がるように廊下に逃げる。後ろにいた堂馬はドアを全力で蹴って半分ほど出ていた死体を挟み潰した。曇りガラスが飛び散り、安っぽいアルミのフレームがねじ曲がる。肉まで食い込んでいるにも関わらず、四足獣じみた猛烈な力で暴れる。堂馬の筋力でも不安定な姿勢では抑えきれない。


「絡めろ!」

熊鷹が叫ぶ。咄嗟に足を離し、踏みとどまろうともせずに転がりでた屍鬼をぐにゃぐにゃになったドアのフレームで掬いとる。所々亀裂の入ったアルミ材が突き刺さり、手足に絡まる。

「ぬあ!!」

それを熊鷹が掴むや否や、縄のような筋肉が盛り上がり、ドアと一体化した化け物が天井に突き刺さった。

信じられないことにまだ動いていたが、五体の主だった骨が折れて飛び出ている上に、金属と絡んで天井に肩まで埋まっていてはどうしようもない。ギシギシと背筋が寒くなる異音をたてるので精一杯である。熊鷹が気が抜けたように座りこんだ。体力はともかく精神が参っている。今さらながら怪奇現象に慄いたということもあった。


「まず最初に言うべきはこれが緊急避難的な正当防衛と言うことであってこれは日本国民に認められた基本的人権のうちの生存権を守るための」

一方堂馬は傷害でしょっぴかれた時の釈明を考えていた。

「言い訳しとる場合か!緊急だ緊急」

「でもこの歳で前科持ちはちょっと、稲にも迷惑が……」

「ええい!国家権力でなんとかしてやるから今は脱出だ!」

普段とは別人に見える弱々しさだが、妹がからむといつもこれである。それが武術の極みを志す者としての最大の欠点でもあったが、逆に言えば妹の存在がこの武術狂いを一般社会にとどめている最大の理由でもある。

熊鷹が堂馬の人間性を信頼する理由もまたそれであったが、この状況では人情などかなぐり捨てた曲者であった方がいい。引きずるように玄関に向かい、靴箱のあたりで足を止めた。


「おい」

確認のため堂馬を呼ぶ。

「ふむ」

ゴミ袋から手頃なバナナの皮を抜き出して覗き穴の前でひらひら振ってみる。

湿っぽい破裂音とガラスの割れる音がして、覗き穴から突出した指の骨がバナナの皮を貫通した。

「駄目だなこりゃ。囲まれた」

安アパートはすでに、屍蠢く魔窟と化していた。堂馬は少し首を傾げた後に微笑んだ。

「面白くなってきたな」

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