苦手なものは仕方がない 風花
木刀の鍔を頭上まで上げて、振り下ろす。髪はまだ三つ編みに編んだままだ。
何度も何度も繰り返す。なんてことはない、ただの素振りである。風花とてこれを一万回繰り返しても彼には勝てないことは分かっている。
能島道場は一刀流系の道場で、竹刀稽古も取り入れているが、門人と試合をしてもどうもしっくりこない。
間合いやタイミングを測る勘を養成するには役立つが、ぶん殴り合いにおいてそれが正常に機能するかは疑問が残る。相手は白刃の下に切り込むくそ度胸の持ち主なのだ。虚実の駆け引きなど悠長にやっていられない。
風花より強い者なら、数は減ったといえ道場にも何人かいる。武道において男女差というのは歴然として存在する。
幼少から仕込まれた技において負けたと思うことは今やめったにない。だが体力の違いでもなんでも、負けは負けと認める気概は風花にもある。
目下の課題は、その体力で芦屋堂馬に勝つのは不可能であることだ。
木刀を鞘に納めて、自分の腕を見る。うっすら汗の滲む、柔らかい腕。脂肪が筋肉を覆い、二の腕を触ってみれば低反発枕のような感触。
鍛えた分だけ肉は付いているが、あくまで女のものだ。引き締まった腹筋は、線の細さを強調し、頼りなさしか感じない。
身長166cm。脚が長いのはいいが、筋肉量が足りないせいで足払いをかけられるとすぐに転んでしまう。武術向けの体ではないのだ。
足腰を重視する日本武道は、多少ずんぐりした体型の方が有利である。だいたいそういった体型の日本人に合わせて作ってあるのだ。
実際スポーツでもそうだが、鍛えるのが最も困難なのは基礎体力である。
才能のある者なら一度見た技をすぐに覚える。といった芸当も可能である。だが体力となると、確実に底上げするには最低で3か月、100日は欲しい所だ。そして鍛えた所で生来の体の造りが壁となる。
堂馬の流儀は介者剣法に近く、剣術として洗練されてはいない。だが、圧倒的な体力と鍛錬の量から生み出された精密な剛剣と、奇想天外な奇襲攻撃の数々は、生半可な理合では太刀打ちできない。
生活の中で垣間見える全身これ武器と言わんばかりの筋肉。前腕部は漫画のような切れ込みが入り、足の指は猫科の猛獣にも似て、地面に爪を立てている。
以前など天井に張り付いて這い回っていた。物凄い気持ち悪かったが、その時は稲が竹帚ではたき落とした。
とにかくほぼ人間を辞めている存在に対して、どう立ち向かうかが風花には掴めなかった。木刀を振って、素早く切り返す。耳に心地良い風切り音。
だめだ。これでは勝てない。無数の形が浮かび、水泡のようにはじける。募るのは弱い己への絶望ばかり。
道場の戸を引く音。振り返ると、以前より顔色が良くなった壮年の男。
「お父さん」
「悩んでいるようだな。風花」
能島花伝は、正面と神棚に一礼して道場に入る。外はもうだいぶ暗くなっていた。
「聞いたぞ。堂馬くんと決闘とは、ずいぶん無茶をする」
だれに似たのやら。笑う花伝だが、嘲笑ではない。
娘が意地のために不可能に挑戦する。その意地を眩しげに見つめていた。
「はい、ですが」
風花はうなだれる。感情に任せて挑戦状を叩きつけたはいいが、実力がついてこなければ話にならない。このままではただの道化だ。
「みなまで云わずとも分かっている。今のお前が剣術で彼に勝つ確率は万に一つもない」
その通りだ。反論のしようも無い。木刀対素手でも難しいだろう。真剣でさえ負けているのだ。
「ですが、こちらが勝負を挑んだからには、能島道場の娘として、せめて一矢」
「それは愚かな考えだぞ。風花」
はっとして父を見る。いつになく厳めしい表情。武人の顔だ。
「初めから勝ちを捨ててどうする。あらゆる面で彼に劣るお前が、唯一勝ることができるのは気概ではないか。勝負とは勝つか負けるか。勝ちのない勝負など、勝負とは言わん。そして武術家は勝たねばならんのだ」
正論である。勝ちを捨てては勝機を拾うことさえ出来ない。だが勝ち目がないのもまた事実。
「ですが、私にはどうしても」
「風花。お前は囚われているのではないか?」
「え?」
「剣で勝てぬと分かっていながら、尚剣で戦うのは賢い方策ではない。屁理屈でも勝ちに行くのが術というもの」
花伝は懐から何かを取り出した。
「こ……、これは!?」
「私にも剣では勝てないと悟った相手がいた。その道場破りは力、技、速さ全てで私に勝っていた。剣では倒せぬ。だが道場は守らねばならない。その時私はこれを使って勝ちを奪った」
風花はそれを凝視する。これなら、これならば勝てるかもしれない。思考の端にかすりさえしなかった秘策。
それを授けた父の親心を受けて、風花は深く平伏した。




