暮井慈の事件簿
《プロローグ》
「うふふ………ふふふふ………あはははははは!!」
女の笑い声がリノリウムに反響する。高いというよりは甲高い、うるさいというよりは耳障りな、そんな笑い声が。ああ、笑いというのも相応しくない。これは嗤い声だ。もしくは、悪魔に魅入られたものの悲鳴か。
「ふふふ………これで、やっと………」
女は横たわる『同僚だったモノ』を見下ろした。
《1》
朝も早い時間、扶木町に幾つものサイレンが鳴り響いていた。赤いライトを灯したパトカーが集まるのは、町内にある中学校だ。周囲を警官がぐるりと囲む、そのさらに周りを大勢の野次馬が取り巻いていた。
「随分と恨みを買ってたみたいだな」
その場の指揮をとる男が被害者の遺体を見下ろしている。
もはや肉塊と成り果ててしまったそれは、殺害された後にも暴行された痕跡が夥しく残っていた。死因は鋭利な凶器で心臓を一突きされたことによる刺殺。次いで腹部、首、手足などその他複数箇所を滅多刺しにされているのに顔だけは無傷というのが返って目を引く。明らかに通り魔の犯行とは異なっていた。
哀れなものだ。死んでしまっては何にもならないというのに。
生きていれば大層美人だっただろう顔も、化粧は崩れ、失血により青白いこともあってさながら幽鬼だ。
それにしても、この学校は随分と汚い。学校というものは時の経過から総じて薄汚れているものだが、それにしてもとりわけ酷い。飛び散る血痕は仕方が無いにしろ、この廊下には無数の黒い塵が散乱している。それが逃げる時に付着したのだろう、被害者の体や、風で吹き上げられたのかところどころの傷口にまで入り込んでいる。固まって完全なゴミと化していないだけマシなのか、散在して逆に見苦しいと感じるかはともかくとして、自分ならば少なくともこんなに不衛生な場所で息を引き取りたくはない。どうしても浮かばれない被害者である。
「警部、身元の確認が取れました。被害者は日向紗夜子、二十六歳。この扶木中学校の数学教師で、水泳部の顧問をしていたようです」
報告は続く。扶木に来て今年で二年目、駅に程近いアパートで一人暮らし。担任は持っておらず、しかし生徒に慕われていて質問に来る生徒が途絶えた日は無い。教員同士でも信頼関係は友好で、気立てのよい人柄だったという。問題事を起こしたことも無く、むしろ昨年の水泳部の県大会進出は彼女による功績だとまでいう。
「こりゃ嫉妬か逆恨みか?」
見た目よし、性格よし。そのうえ一年目で実績があれば嫉妬の一つや二つも買うだろう。つくづく人間というものは業が深い。
嫌んなるぜ、と独り言ちていると、喧騒が増した。
見晴らしのいい校庭を通り越した門の外に洒落っ気のかけらもないバンが停まっている。運び出される機材はマイクとカメラ。それに続くようにスーツを来た男の姿が見えた。
「今朝、扶木町の中学校で女性の遺体が発見されました。被害者はこの学校の教員で、遺体の状態から殺人事件であると判明しました。ごらんのとおり現場はいまだ騒然としており、……………」
レポーターの言葉は続く。彼の言葉通り、この学校の教員達は等しく平静を失っている。指導する立場の人間がどうなんだとも思うが、これが一般人として正常の反応だろう。
その中で、誰よりも顔色の悪い女がいた。年頃は、恐らく被害者と近しいくらいだろうか。十人並みより少し上程度の見た目の彼女は、よほど飛び抜けた美女が同僚にいない限り好意を寄せられやすいだろう。
その隣で、涙ぐみながらも懸命に彼女を支えようとしている女がいた。
「おい、彼女は?」
「ああ。彼女は市野実奈。この学校の家庭科教師で、遺体の第一発見者です。その隣は歌垣透子。彼女の友人で国美術の教師です」
今日は一限目から調理実習があるためその準備に出勤したところで被害者の遺体を発見したらしい。年若い女の身で殺人事件の第一発見者とは、運のない女である。
「彼女は被害者の後輩に当たるそうです。高校時代からの付き合いで、プライベートでも親しくしていたとか」
「そりゃあまた、都合がいいこった」
家庭科室には凶器に成り得るものなどいくらでもあるだろうし、長い付き合いだというならそれだけ思うことも少なくないだろう。第一発見者を疑うのは定石だが、彼女はその中でも特に立場の悪い部類というわけだ。
「他、事情聴取は済んでんのか?」
「あ、はい。とりあえず今日のところは学校も閉鎖して、何かあった時にはすぐ連絡が着くよう外出は控えるよう伝えてあります」
まとめた資料はこちらです、と差し出された紙の束を受け取って、気もそぞろに目を通す。いや、通してもいない。眺めているだけだ。
そもそも、自分はこういったことには向いていないのだ。考えるより先に体が動くような自分がどうしてこの部署に配属されたのかわからない。
ぱらりと最後の一枚が落ち切って、溜息を吐きながら重い足で一歩進む。
「俺はいつも通り別で動くが、いつも通り頼むぜ」
「はい!」
威勢の良い返答にひらひらと手を振って、彼は中学校を後にした。
《2》
『異常』という言葉の正しい意味を理解している人間は果たしてどの程度いるのだろう。『いつもと違うこと』『普通とは違うこと』。辞書を引いたなら恐らくこの辺りの解釈が出てくるだろう。
その言葉の通り、暮井慈は異常な女である。母親譲りの日本人離れした顔立ちはエキゾチックだ。しかしどんなに見た目が良かろうとも、彼女は結局普通ではない。
「兄さん、またですか」
そう言えるほど、彼女はこの状況に慣れていた。
彼女が兄と呼ぶ彼は、本当の兄ではない。正しい間柄を言うなら従兄である。一緒に暮らしたことがあるというわけではない。幼少期からの付き合いだということでもない。それでも、慈は彼を兄と呼び続けている。
兄と呼ばれた波野雄という男は、彼女とは対照的に平凡な男である。容姿が優れているわけでもなく、勉学に秀でているわけでもない。相対評価として運動が得意としているが、それでも警察の中ではごまんといる程度だ。
「そうは言うがな、慈。俺がこういうことが苦手なのは、お前が一番知っているだろう」
雑に紙束をセンターテーブルに放り投げる。慈は態とらしく溜息を吐いてティーカップを脇に置いた。
「ええ、ええ、知っていますとも。兄さんが昔テストで『適当に選べ』といわれて本当に適当に回答したことも、『下線部を英語で書け』といわれて『undar line』と回答したことも、よーくよーく知っていますとも」
「………んな大昔のこと、よく覚えてんな」
「ご自分の年をご存知かしら?たった二十年前のことじゃない」
「普通は二十年をたったとは言わねぇし、そもそも俺が中一の時お前幾つだったと思ってんだ!三歳だぞ、さ・ん・さ・い!」
食ってかかる従兄を煩いと一睨みして、慈はまたティーカップに口をつけた。淹れたてのアールグレイの爽やかな香りが鼻腔を擽る。ちらりと視線を移動させた先には先程放り投げられた紙束ーー事件の捜査資料があった。
「小さな町の公立中学校で殺人、ねぇ……穏やかではないけれど、今のご時世じゃ別に珍しくもないわね」
「それでも人ひとりが殺されてんだ。何もしないわけにはいかねぇだろう」
「それに否を唱える気は無いけれど、だからと言って一般市民に過ぎない女子大生を頼るっていうのはどうかと思うわよ」
兄さんも大概普通じゃないわよねぇ、と艶然としてころころ笑う姿は子供のように無邪気でありながらも、悪女とも言うべき雰囲気を醸し出していた。少なくとも、雄にはそう感じられた。
暮井慈という女は普通ではない。彼女本人は自分を普通・平凡と思い込んでいるのだろうが、普通ではなく、平凡でもなく、異常なのである。それを知っているからこそ、雄は事件が起こる度、一人捜査チームとは別行動してこの従妹のもとを訪れるのだ。
「学生探偵だなんて非常識なモノ、許されるのは作り物の中だけなのよ」
口ではそう言いながらも、彼女は既に抵抗を諦めていた。パラパラと退屈そうに捜査資料を見ているのがその証拠である。警察が個人情報を漏洩していいのかという指摘は今更である。この非公式の協力は六年前ーー彼女が高校生だった頃から今日に至るまで続いているのだから。そしてその結果こそが、雄の現在の地位なのである。
「刺殺って、ナイフ?包丁?学校にありそうなものってあと何があったかしら……」
「わからん、見つかってないからな。他にあるものっつったら彫刻刀とかだな」
挙げられたそれらは、しかしどれも反応は出なかったと締め括られる。この場合の反応とは刑事ドラマなどでも捜査手段として用いられるルミノール反応のことだ。血色素に反応して青白く発光する現象であり、非常に鋭敏であるため鑑識現場において重宝されている。
つまり、この時点で校内の備品をした可能性は格段に下がるということになるのだ。
外部から持ち込んでの犯行となると、現状手の出し様は無いに等しい。持ち去られたのだとしてもそれに変わりはなく、犯人の目星すらついていないということは何もわかっていないと同義である。それは言い換えれば学校職員全員が容疑者だということであり、最悪学校外の交友関係もひっくるめた全員が容疑者だということである。
「なぁんで、こんな面倒事にばっかり巻き込まれるのかなぁ」
私自身は至って普通の、何処にでもいる、しがない女子大生なのに。
ぼやきと言うには大きすぎる慈の独り言を黙殺して、彼はこっそり溜息を吐いた。無自覚を罪とするならば、自分は迷わず彼女を現行犯逮捕するのにという思いを胸に秘めて。
夜の学校というものは、古びた外観も相俟って薄気味悪い。コンクリートに固められた壁が心まで寒くさせるし、音が響くのも今は不快である。それでも寝静まった頃合いを見計らって現場を訪れたのは、ひとえに協力者が非公式だからにほかならない。
カツーン…カツーン…とヒールがうち鳴らす音が響く。暗くて見えていないだけだろうか、昼間よりもまだ綺麗な気がしている。
靴音が止まった。十歩も行かない先が、遺体の横たわっていた場所だ。
慈がその場にしゃがみこんだように、自分も同じくしゃがみこむ。近くなったせいで視認できるようになった足元はやっぱり薄汚いのだが、明るいところで見るよりははるかに綺麗に見えた。
「事件に関係するような物は大概押収してあるぞ」
凶器も見つかっていない以上、どこから犯人特定に繋がる情報が出てくるかわからない。それを探しに来たのなら見当はずれなのだが、ふと慈が夜目にもわかるほど盛大に顔を顰めた。
「この学校、異常なほど汚くない?」
いきなり何を言い出すかと思えばそんなことか。自分も気にした事だというのに棚上げしてケチをつける。そんなことが捜査の何の役に立つと言うのだ。
「んなことより、何かわかるのか?」
名目上の部外者を立ち入らせて何も見つからなかったではリスクばかりが大きすぎる。せめて何か気づいたことでもあればいいのだが、この従妹は汚い汚いとそればかりを繰り返す。
突然、彼女は何を思ったのかその手をぺったりと床に密着させた。汚いんじゃなかったのかと口を出すよりも先に彼女はそれを離し、汚れた手のひらをまじまじと見つめている。先程まで汚れのひとつも付いていなかった手だったのに、今は塵だの何だので廊下と同じく黒っぽくなっていた。
「ガラスでも落ちてねぇかと思ったんなら残念だったな。それもしっかり調べた上での凶器未発見だ」
わかったらとっとと手を洗ってこい。そうは言っても彼女は何をそんなにも気にしているのか、右手から目を逸らさない。潔癖症でもないくせに。
いつまでもそうしているつもりもなく、仕方なく汚れていない方の手を引いて無理矢理に立たせる。ヒールだからか覚束無かった足元が落ち着くのを待ち、自分のペースで引っ張った。
手洗い場は遠くなかった。大概の学校には廊下の一角に設置されているので男女の別を気にする必要もなく彼女をそこに立たせる。
気が進まないとでもいうつもりなのだろうか、蛇口を捻ったかと思えば指先を僅かに濡らして、その圧倒的に少ない水で洗い落とすように手のひらを摩った。流すはずのものは流れることなく、水と摩擦によって形を崩され慈の手のひらを黒く汚していく。
「おい、手を洗うだけのことにどんだけ時間をかけるつもりだ?お前の趣味に興味はねぇが、そういうのは事件を解決させてからにしてくれ」
「んもぅ…兄さんのダメなところはそうやって焦ってばかりなところよ。急がば回れ、急いては事を仕損じる。昔から言われてることでしょう?」
「思い立ったが吉日、とも言うだろう」
むっとした声を作って言い返すが、慈は急ぐ気配を見せてくれない。悠長なものだと溜息を吐きたくなるが、思い返せばいつものことだと気づいてさらに気が滅入った。
「おい、まだ行く所はあるんだぞ。それとも何か、お前はこの現場を見て、床に触れただけで事件の真相を見抜いたとでも言うつもりか?」
SFドラマに出てくるようなサイコメトラーでもあるまいに、そんなことあるはずがない。あるはずがないのに、彼女は思わせぶりに口端を釣り上げた。
月の光を浴びて真っ赤な唇だけがくっきりと浮かび上がり、鮮やかに存在を主張する。魔女、吸血鬼、悪魔、堕天使。そんな言葉が頭から離れなくなった。血のような、赤。
「兄さんにもう一つ故人からの言葉を贈るわ。灯台もと暗し、ってね……」
ふふふ。ふふ、ふふふふ。
夜の校舎に響く笑い声は、稚い少女のようで---…………。
《3》
日付が変わるより前に滑り込み帰宅を果たした慈だが、それには余分なものが付属していた。いくら従兄妹の間柄にあるとはいえ、夜も更けた時間帯に、成人した男が、同じく成人した女の家に上がり込むというのはいかがなものだろう。そう苦言を呈してはみたのだが、彼には「んなもん知るか」と一蹴されてしまった。万が一誤解されたとき被害を被るのは彼だというのに、本当に頭が弱いというか先読みが甘いというか。
「恋人に誤解されても私は一切手出ししませんからね?」
「んなもんいねぇから問題ねぇな」
人の気も知らないで勝手気侭に振舞う彼に気のせいでなく痛んで止まない頭を押さえるように手を添えて、付き合っていられないと吐き捨てさっさと自室へ引っ込んでいく。彼ならリビングのソファーで寝るだろう。それがわかる程度には、このやり取りも定型化していた。
今日一日中あちらこちらへと動き回っていた彼のことだから、それより先にシャワーを浴びに行くだろう。
その予想は外れず、暫くして壁伝いに液体がタイルを打つ音が聞こえてきた。
ベッドに寝転んだまま、天井に向かって手を伸ばす。阻害する物のない空間は認識を間違えてよもや届きそうだと感じてしまうが、腕という物差しを存在させてしまえば、それはいとも容易く修正される。
手のひらで目元を覆い隠す。今度は真っ暗闇の中だ。不完全な闇。目の前にあるものが見えなくなる、さっきとは逆の今。
雨音に似た音が止む。もう上がるらしい。何でもかんでも焦るから物事を見落とすのだ。治らない彼の悪癖を慈は笑う。
彼が自室の前を通る頃合いにドアを開ける。廊下の半分以上が塞がれて、ぺたぺたと裸足の足音が不自然に途絶えた。
「いきなり開けんじゃねぇよ、危ねぇだろうが」
「あら、兄さんいたの?気づかなかったわ」
ごめんなさいね、と口では笑いながらもコロコロ笑う慈に、雄はまったくと呆れに近い感想を抱く。いつもこうだから慣れた感が否めない。どうしてどうして、困った従妹だ。
「着替えなかったのか」
「先に夜食でも作ろうかと思って」
なんとなく口が寂しいのだと答えれば彼の視線がそのまま止まる。しかしそれはすぐに逸らされてしまって、慈は諦めてドアを閉めた。
「何作るんだ?」
「軽くお茶漬けでもいいけど……ちょっと物足りないから雑炊にしようかしら」
「へぇ、いいな。俺にもちょっと分けてくれよ」
「嘘つき。いつも『ちょっと』なんて言いながらほとんど食べちゃうじゃない」
小さく唇を突き出して拗ねた表情を見せる。
見た目は立派な女性になったというのにまだまだ稚気の抜けきらないらしいと苦笑が溢れた。
「お前の大学の奴らが今のお前を見たら仰天するんだろうな」
「ありえないわ。こんな私を見せるのは兄さんだけだもの」
「随分と猫かぶりがうまいこったな」
なぁんでどいつもこいつも、こんな見栄っ張りがモテるんだか…と心底不可解だという彼のぼやきを、彼女は伏せ目がちに聞いていた。
慈の作る雑炊は米よりも野菜の量の方が多い。米粒よりは大きめに切り刻まれたそれは言うまでもなく手間がかかっていて、しかも完全に火が通りきっているそれは生野菜独特の癖のある味を消費者に感じさせない。レンゲの一掬いで何種類もの野菜が摂取できる体に優しい一品だ。黄金色に済んだ汁から立ち上る湯気が香りを孕んで食欲をそそる。
もう我慢できないと一息に掻き込んだ雄は、それによって多少落ち着いた胃の辺りに手を置いてこれだこれだと繰り返した。
「肉が一番美味いと思ってるが、やっぱりこれはもう別格だな」
「同然でしょ。比べるまでもないわ」
自慢げな様子の彼女に、自信家めと言いたくなるが言えずに終わる。遠吠えになってしまうと分かっていて誰が口に出すものか。
「だいたい、兄さんは偏りすぎなのよ。インスタントで済ませるか、たまに料理したかと思ったら肉、肉、肉ばっかりじゃない」
「うっせーなぁ……。第一線にいる警察にはこんな手の込んだモン作ってるような暇はねぇんだよ」
「とかいって、本当は野菜嫌いなだけだって知ってるわよ?」
図星を刺されて言葉に詰まる。一気に劣勢になった彼を満足そうに見つめて、彼女もまた一口分雑炊を救った。
彼も、つまらない顔をしてはいるが誘惑に打ち勝つことはできず、投げ出したレンゲを再度握る。
「そんなに言うなら、お前がすりゃいいんじゃねぇの?」
これなら毎日でも食えるとまで言われては悪い気はしないが、彼女が頷くはずがない。
「だめよ。これは、たまにだからいいの。毎日なんて食べてたら効果がなくなっちゃうじゃない」
「ふぅん?そういうモンなのかねぇ」
さっぱりわかんねぇ、と思考を放棄した彼に、手応えを感じながら彼女はそれでいいのだと鷹揚に頷いた。
とうとう彼女はレンゲを置いた。鍋にはまだ何杯分か残っているが、いつもより食べた方だ。膨れて張り出した腹部を気取られない程度に撫でて背もたれに体を預ける。彼はそれを仕方が無いと見た。
「お前にしちゃ食ったほうか」
「兄さんが食べ過ぎなのよ。胃痙攣起こしても知らないから」
憎まれ口を叩く彼女に、へぇへぇとおざなりに応じて食べ続ける。香る生姜の風味を少し強めに感じた。
「そんで?明日からはどうするんだ?」
彼女の眉間にぐっとしわがよる。雄はそれを黙殺した。
目処が立ったのに真犯人の名を口にしないということは、推理はまだ仮説の範囲を出ていないはずだ。彼女はそういう性格をしているから。
「本当、デリカシーの欠片もないんだから」
よくもまぁと呆れ顔だがその口元は柔らかい。愚直とも言えるほど仕事一本気な彼に観念しているような色さえあった。
「いま推測できていることは犯行の手口と凶器の行方くらいよ。犯人の見当はまだ」
まったく面倒だと当てつける。しかし収穫が気に召さないのかどことなく迫力にかけていて、疲労が滲んでいる。それを、自分のせいでもあるとはいえつくづくだと彼は内心呟いた。
「学校の閉鎖期間はどのくらい?」
「さぁな。少なくとも明日明後日は無理だろうが……」
当然である。しかし、残された猶予は少ない。不用意に長引かせてはならない。可及的速やかに、慎重に。
慈の瞳にひとつの光が灯る。嫌な予感がした。彼は経験上知っている。この光を宿した時の彼女が、どんなに野放図かを。拒否する権限など雄にあるはずもなく、ただ甚だ無茶な要求が出ないことを祈るばかりである。
「頼むから、法に抵触するようなことは言い出すなよ」
それでもと切実に唱えれば、慈はおかしなことを聞いたとばかりにクスクス笑った。
《4》
「日向先生とは、高校時代からの付き合いです。昔から気さくな人で、優しくて……」
第一発見者の市野実奈の証言である。日を置いても動揺が抜けきらず顔青ざめているが、手元の調書と照らし合わせても不一致はない。親しかったというのも偽りではないようで、吐露していく言葉は回想に近く、より自分を苦しめている。ついには伏して咽び泣く彼女に、仕方が無いこととはいえ度々取り調べが中断されてしまう。
「被害者を発見したのは、授業の準備をする前ですか?」
「いいえ、後でした。終えて、職員室へ向かおうとして目に入ったんです」
間取りを確認してみれば、家庭科室と職員室は同じ階の真逆に位置している。意図的に見ようと思わなければ発見が前後するのも当然であり、矛盾はしていない。
「あなたが発見した時、近くに誰かいましたか?」
「いいえ……もう、訳がわからなくて。動けずにいたところを、歌垣先生が来て」
通報とかも、全て彼女がしてくれたんです。
そう締めくくり、市野は黙り込んだ。顔は憔悴しきっており、体が小刻みに震えている。本人も、自分の立場が今どうなっているのか自覚しているのだろう。
それでもこれ以上取り乱すまいと虚勢を張る姿は、見苦しくもあれど同情を禁じ得ないものだった。
続いてやってきた歌垣透子は、酷く緊張した面持ちではあるが理性的な様子だった。唇を固く引き結んでいる姿が気丈を印象付ける。
「日向先生とは、学校での付き合いがほとんどでした。それでも十分人好きのする人だったと思います」
「被害者が発見された時、通報したのはあなたですか?」
「ええ。職員室に入ろうとしたら市野先生の声が聞こえて。様子がおかしかったから振り返ったら、死んでる日向先生のそばに彼女がいたんです」
「……失礼ですが、その時近くに何かありましたか?」
「…………覚えていません。あの時は気が気じゃなくて…とにかく警察に連絡することで頭がいっぱいでしたから」
ひとつひとつの質問に答える速度はゆっくりとしているが、こちらも狂いはない。
両者の取り調べの後で、慈は再度調書を確認した。
発見の順は市野、歌垣と続いた後は誰とも特定し難い。通報した後に教員たちがやってきたようだ。歌垣の迅速な通報は警察だけでなく学校側にも極めて有益な対処だったと言えるだろう。万が一生徒が目にしていたらその被害は計り知れないのだから。
指紋検出においても比重は明らかである。歌垣の指紋がまったく検出されなかったのに対し、遺体の側から市野の指紋が検出されている。
すっと慈の目が細められる。柳眉を顰めて紙面を睨みつける彼女は、何かを掴みかけているのだろうか。綻びを、矛盾を、嘘を、偽造を。
声をかけることも躊躇われるほどの気迫に押され、何が彼女の琴線に触れたのかも知らぬまま雄は口を閉ざし続ける。
とん、とん、と指先で机を叩く音だけが室内に響いている。
息苦しいほどの沈黙は、勢い良く跳ね飛ばされた椅子の音に打ち破られた。
立ち上がった彼女は俯いていた。おもむろに、見せつけるようにその顔が上げられる。
彼は大きく喉骨を鳴らした。背中をぞくりと何かが奔る。
「----みぃつけた」
なまめかしい動きで唇が形を変えた。
《5》
月明かりさえ遠い闇夜。アスファルトを蹴り打つヒールの音があたりに響いている。間を隔てて立ち並ぶ街路灯が不気味に点滅していた。
「みぃつけたっ」
無邪気な声に、彼女はびくりと肩を跳ね上げた。続けざまに振り返れば、若い女がひとり笑みを浮かべて立っていた。その後ろには、控えるようにして男がいる。
「こんばんはぁ---殺人犯サン」
にぃっこり。口元だけて、彼女は笑っていた。
「っ、は…?誰よ、あなた?」
「あらぁ?否定しなくていいのかしら?ああ、できないのかしら。そうよねぇ、だって、日向先生を殺したの……あなたですものねぇ、歌垣先生!」
強められた語気に体の強ばりがました。表情の抜け落ちた顔が、一瞬にして般若に変わる。
「ああ、あなた警察の人なの。だったら知ってるでしょう、私に犯行は不可能だって」
「あら、どうして?」
「っあの現場から私の指紋は検出されなかったはずよ!」
歌垣がヒステリックに叫ぶ。剣呑な目つきは射殺さんばかりに鋭く、叫ぶ声はコンクリートに跳ね返され静けさ故に大きく響いた。
しかし、それでも彼女の笑みは崩れない。貴婦人を彷彿とさせる小さな笑い声をこぼしながら悠然と対峙している。
「ええ、あなたの指紋は検出されなかったわ。ひとつも、ね」
「だったら!」
畳み掛けようとする歌垣の言葉を遮って、彼女は言い募る。おかしい、と。いかにも道化を見る目つきで見据えて。
「ねぇ、どうして警察に連絡したの?」
「そんなの、死体を見つけたら普通するでしょうっ?」
「普通、ねぇ……。なら、質問を変えましょうか。どうして死体だとわかったの?」
「それは……っ!」
ようやく気づいた歌垣の顔が一瞬にして蒼白に変わった。慈の笑みがさらに深まる。気圧されるように、歌垣は数歩後ずさった。それを詰めるように大股に迫り寄る。
「遺体からも、その周りからもあなたの指紋は検出されなかった。なのに、どうして日向先生が死んでるとわかるの?」
「そ…それは……日向先生が血まみれで倒れてたから………」
「そうよねぇ、そんなもの見かけたら、『普通』通報して呼ぶわよね---救急車を」
そう、状況は最初からおかしかったのだ。存在していなければいけないものが一台として呼ばれていなかったのだから。
目に見えて死んでいるとわかる死体でもなかったというのに触れてもいない人間がそうとわかるというなら。---それは犯人のみ。
「っでも!凶器はっ?凶器は見つかってないんでしょうっ」
「ああ。それって、これのこと?」
慈はポケットから小さな袋を取り出した。 薄暗い中では分かりにくかっただろうが、街路灯の下ではよく見えた。
あっ、傍観に徹していた雄が思わずと声を漏らす。
それは、黒い粉だった。 今度こそ、歌垣は言葉を失う。立ち尽くす気力さえ消え失せたかのようにみっともなく座り込む無様な姿を慈だけが冷ややかな目で見下ろしていた。
「凶器はこの木炭ね。そのままでは無理でも少し手を加えれば話は別よ」
凶器は外部から持ち込まれたわけではなく、持ち出されてもいなかった。日向紗夜子を殺害した後、使用した木炭の表面だけを削り、中心部は砕いでデッサン用の木炭として紛れ込ませた。血の付着した部分は念入りにすり潰し粉末化させて現場に散布した。
彼女の目論見通りなら、それは風によって広く散らばるはずだった。油断を誘うはずだった。事実、警察の目は欺いていたのだ。しかし、付いた目は警察だけではなかった。だから見つかった。彼女がそれを知らないだけで。
「あいつが悪いのよ……」
震えた声で吐き出される。それは抜け殻のようであり、取り憑かれたようでもあった。生きる屍と化した彼女は、壊れたように笑いを零している。
「美人で?優しくて?その上気さく?……ありえないわ。そんな人間いるわけないじゃない。いちゃいけないのよ、そんな気持ちの悪いモノ」
ブツブツと狂った感情を吐露する歌垣は虚ろな目で慈を見上げた。あなたもそう思うでしょ?と、そう言わんばかりに。
慈は何も言うことはなかった。
くだらない、実にくだらない。人を殺したのだからそれなりの動機があるのかと思えば、なんとも醜い。
杜撰でお粗末なこの事件には、この茶番にも満たない逮捕劇こそがいっそ相応だと、慈はすっかり興味の冷めきった様子で手錠のかかる始終を見届けた。
薄暗い夜道には、今もまだ耳障りな笑い声が響いている。
《エピローグ》
平日の昼間だというのに自宅で悠々アフタヌーンティーを楽しむ慈を、雄は呆れ顔で見ている。礼として持参したケーキは今も次々彼女の口の中へ消えていく。初めて目にするというわけでもあるまいに、何度見ても目を疑う光景だ。
「大学はどうしたよ」
「自主休講。……って言いたいところだけどね、開校記念日でもともと休みなのよ」
だからカレンダーなんて関係ないの、と自慢げに言って幸せそうにケーキを頬張る。
彼女の要求する見返りはいつもこれだ。無欲なことである。初めこそ手軽でいいと楽観ししていたが、回数を重ねた今では返って心苦しくて仕方が無い。
「お前、もっと高望みでもいいんだぞ?」
「あら、これ以上なく高望みしてるつもりだけど。それより兄さんも食べたら?紅茶だって、せっかく淹れたのに冷めちゃうわよ」
どこがだと指摘してやりたくなるのを紅茶で押し流す。飲み頃だったそれを楽しむ間もなく飲み干して、やけくそにフォークを突き刺した。
気づかないことを幸せだと彼女は笑う。彼女の得ているものはケーキだけではないというのに。
「ねぇ兄さん、今度買い物に付き合ってくれない?新しい服選びたいの」
「へいへい。わぁーったよ」
服くらい自分の好きなモン選べよなとぶつくさ言われ、投げやりに返されても、慈は微笑みを絶やさない。
慈は普通ではなく、平凡でもなく、無欲でもない。彼女だけが、その事実を知っている。