彼女の朝
それからも私と彼女の関係は歪に続いていた。
私は彼女がくるくると快活に日々を送るのをただ眺め、たまに声をかけてなんてことのない会話を楽しんでいた。
他にすることがなかったからだ。私の御神体は遠く異教の地にあり、他にはなにもない。
一度、「あくまさんって他にすることないんですか?」と無邪気な問いに心を抉られ、暫く声をかけるのを控えた時期もあったのだが、三日と経たず彼女が人目も憚らずガチ泣きしだしたので以後はこの関係が続いている。
『巷では君は気狂いだと思われているらしいね』
「かみさまの声は他の人には聞こえませんからね」
『私は悪魔だと何度も言っているでしょう』
「あはは、そうでした」
祈りの体勢のまま十二歳を少し過ぎた彼女はそう言って、かつてと同じ朗らかな笑顔を教会の天井に投げかける。そこに私はいませんよ。
そういうことをしているから気狂いに思われるんだと何度注意しても彼女は「目を見て話せと神父様に教わりました」の一点張りだ。私に目はないというのに頑固にも程がある。
そうして、彼女はひとしきり神に祈りを捧げると、静かに教会を後にする。
外に出れば皮肉な程に晴れ渡った空が私達を出迎えた。
彼女は飽きもせず青空を見上げながら、ぐっと背を伸ばした。少々丈が足りていない上着の裾から日に焼けていない白い腹部と健康的な臍が覗く。
背中に流した金糸の髪は五年前より伸びていて、今では三つ編みにしても腰に届くほどだ。
「静かですね」
『いや、それで済ましてしまう君の図太さにびっくりだよ』
「そうですか?」と無邪気に小首を傾げる彼女を見て溜め息をつく。
とある国の片田舎にあるこの町はしかし、今や人気もなく、薄ら寒い秋風が藁葺きの屋根を揺らすばかり。
それもそのはず。女子供は森に逃げ込み、男たちは手に手に鋤や鍬を持って領主の屋敷を取り囲んでいるのだ。
端的に言って、反乱の真っ最中。この田舎町が滅ぶか否かの瀬戸際にある。
なにより、今日は分岐点。彼女の“朝”がやって来る日だ。
当世は苦難の時代だった。それはこの田舎町も例外ではない。
戦乱によって土地を追われた者達が流入してきた上に、折からの冷害による不作。嵩む戦費に、吊り上げられる重税。
重罪を覚悟で土地を捨てるか、反乱を起こすかする以外に彼らに生きる道はなかった。
後者に天秤が傾いたのは、流民の中に戦争経験者がいたからだろう。現在の主要な戦地から遠いこの土地の領主は危機管理に欠けている。逃げ出すよりもまだしも勝算があるとみたのだろう。
その選択について結果を知っている私がどうこう言うのは無粋だろう。
『それで、君は何をする気なんだい?』
いつものように声を掛けつつも、私は内心の焦りを必死に押し隠していた。
教会を出たその足でてくてくと歩く彼女の行く先では件の反乱真っ最中なのだ。
避難先の森を抜けだしただけでも問題なのに、この上さらに危険地帯に無手で踏み込もうというのか。
「え、えっとですね……」
歩みを止めぬまま、彼女はうんうんと唸り始めた。
どうやら、また本能の赴くままに行き当たりばったりに行動したらしい。
十を過ぎたあたりからだろうか、彼女は時折こうして脈絡なく唐突な行動を起こす。そして、ほぼ最善の結果をもぎ取ってしまう。
これで痛い目でもみたら懲りるだろうに、彼女はソレに従って失敗したことがない。
不意に真っ昼間から洗濯物を取り込んだかと思えば通り雨が降り、いきなり山に入ったかと思えば崖から落ちて負傷した狩人を見つけてくる。
単なる勘で片付けることはできない。おそらくは感受性の強さ、周囲の変化に殊のほか敏感なのだろう。
雲の動きから天候の変化を読み取り、空を飛ぶ鳥の動きから山の異変を感じとる。
私の治世であったなら、迷わず巫女として抜擢していただろう。
だから、私も彼女がソレに従って動くことを掣肘する気にはなれない。
反乱には彼女の父親も参加しているのだ。
『しかし、着の身着のまま戦場に出るとはあまりに不用心な……』
「そうですか?」
私の懸念をどこ吹く風と、彼女は緊張感のない顔のまま口を開いた。
私達は今、ちょっとした丘の上にいる。遠くに領主の屋敷の見える丘だ。
「あくまさんは仰いましたね。昼に私があなたを殺し、夜に惨たらしく死ぬと」
『ああ、言ったね』
朝に聖女となり、昼に悪魔を殺し、夜に惨たらしく死ぬ。
それが彼女の運命であり、私との縁だ。
「つまり、私はあなたを殺すまでは死なないということです!!」
『……君は賢いけど、馬鹿だねえ』
「ええ!?」
彼女のドヤ顔に呆れを多分に含んだ声を返しつつ、私は領主の屋敷前に視界を開く。
領主の館を守る兵の陣と、鋤や鍬を手にその周囲を取り囲む民草の群れ。
互いに切羽詰まった気配を漂わせながらも、最後の一線を踏み越えることを迷っている。兵も元をただせば民なのだ。そう大きくはない田舎町だ。親類縁者の顔もあるだろう。
懐かしい光景だ。かつて私を信仰していた者達も最期はこんな表情をしていた。少しだけ心が痛む。
『もう少し自分を大事にしなさい。君は女の子で、戦場には死よりも辛いことはいくらでもあるんだから』
「はい、ごめんなさい……」
代償行為のような私の諫言に、彼女はしゅんと俯いた。
口はないが、どの口がという気分だ。
私は悪魔で、契約者だ。彼女の行動に対して口出しする何らの権利もないというのに。
『それで、どうするんだい?』
気を取り直して、私は現実に目を向ける。彼女が此処に来たということは何かする気なのだろう。
とはいえ、現状は既に鉄火場寸前だ。互いに退くことはできない状況だ。血が流れるまであまり猶予はないだろう。
それは彼女も感じているようだ。
空気の匂いを嗅ぐように鼻をすんすんと鳴らすと、顔に哀惜と、次いで決意の色が浮かんだ。
「あくまさん、二つ目のお願いをしていいですか?」
そうきたか、と私は臍を噛んだ。私は目も耳もないが臍はあるのだ。
『……無論だ。君はいつでも権利を行使していい。ただ、望まれれば私も全力を尽くすけど、この反乱を勝利に導くことはできないよ』
「え? えっと……」
『既に結果は決まっている。この反乱は失敗する。たしかに、君が願えば今日を勝利で飾ることはできる。でも、それは根本的な解決にはならない。明日は負ける。それだけだ』
私は困惑する彼女に厳然たる事実を告げた。
この反乱は失敗する。その形で分岐点は確定している。成功する未来はない。
たとえ彼女が永遠の勝利を願ったとしても、全ての農民が死に絶えるまで勝ち続けたまま、結果として失敗するだけだ。
もっと早くに言っておくべきだった。これでは契約者失格だ。
「あの、私は……」
『悪いことは言わない。お願いはもう少し賢い使い方をしなさい。あと二つしか――』
「かみさま!!」
『……私は悪魔だよ。すまない、なにかな?』
少々喋り過ぎてしまった自身に自省を促しつつ、彼女の澄んだ声に無い耳をすませる。
「私は勝利を願ったりしません」
『早とちりだったか。それはよかった。……うん? なら、領主に肩入れするのかい? 反乱には君のお父上も参加されているんだよ」
「私はどちらに肩入れするつもりもありません」
『じゃあ、この場で他にどんなお願いをするんだい?』
「はい。それはですね――」
よくぞ聞いてくれましたと、彼女は小さな胸を精一杯張った。
そうして、私は彼女の二つ目のお願いを叶えた。
後年、その丘に神殿が建った。
絶えることのない豊穣の地。聖女が聖女として初めて起こした奇跡の地であると。
その地は、どんな不作の年でも春と秋に必ずふっくらとした麦穂を実らせる。
風にたなびく見渡す限りの麦穂の前に、反乱はその意義を喪い瓦解した。
成程、反乱は失敗するという私の視た未来に相違はなかった。
そして、彼女が聖女になるという分岐点もまた同じく。
『逃げ出すなら今のうちだよ?』
私は悪魔だ。だから、彼女を楽な道、安寧の途へと誘惑する。
だが、答えは聞くまでもなかった。
――運命は変わらない。