始まりの夜
アスファルトの道路に、鮮血が飛び散る。
すでに暗くなっているというのに、赤黒い血は異様にてらてらと光を反射していた。
それを見て、私は意識が遠のきそうになる。
諦観にも似たやけに冷静な感覚が、頭の片隅で「アレは自分の血だ」、「自分の命はこのまま尽きのだろう」と、言い聞かせてくる。
勿論、それに逆らおうという気は起きない。
むしろ、死ぬのだと理解できてしまえば、逆に安らかな気持ちにさえなれた。
だが…私の意識は一向に遠のかない。
それどころか、傷みさえも無かった。
もしかして、傷みさえ感じさせてもらえず、気づく間もなく、私は死んでしまったのだろうか?
こんなことを一人考えていると、聞き覚えのある声がしたような気がした。
一回意識をしだすと、声は段々と鮮明かつ大きく聞こえ始める。
「…カ…も。…かも。 カモ!!」
「っ!?」
気づくと、親友の弱弱しい心配そうな顔が目と鼻の先にあった。
息がかかりそうなほどの近さに、一瞬恥ずかしくなり顔が朱色になりかけるが、すぐに先ほどまでの状況を思い出し、一転して様々な恐怖が身体を一気に駆け上る。
死への恐怖。
理解できない存在への恐怖。
そして、現実への恐怖。
目の前にある現実はあまりに異常で、信じられない。
分かっている、逃げようとしても無駄だということは。
見えている、今の状態が。
でも、だからこそ脳は理解することを拒む。
だって、衣恵にあるはずのものが足りないから。
こんなの、嘘に決まっている。
衣恵の左腕が、ないだなんて……。
腕があったはずの場所には虚空が空き、まるでその穴を埋めようとするかのように赤黒い液体がドクドクとあふれ出し、地面に生々しい水溜りを作っていた。
にも関わらず、衣恵は相変わらず私の顔を心配そうに見る。
「あっ…あっ…あぁああぁあああ!」
一瞬にして、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
なんで腕がない!?
なんで衣恵がここにいる!?
なんで私は生きている!?
なんでこんなことになっている!?
何で何で何で……。
疑問が混乱を生み、完全に感情のセーブがきかない。
私は狂ったかのように叫んだ。 嗚咽を漏らしながら、壊れたかのように。
そんな私を、親友は残った片方の腕で強く抱きしめる。
傷みに苦悶の表情を浮かべながらも、落ち着かせようと。
でも、とまらない。 私は、現実から逃げるかのように彼女の手中で暴れた。
やがて、ついに衣恵が抑えきれなくなり、私は地面に自ら放り出る。
そして、私は見てしまう。
無くなった親友の腕が何処に行ったのかを。
私は、化け物に襲われた。
しかし、無傷でここにいる。
考えてみれば、至極簡単な答え。
そう、衣恵の腕は…衣恵は…
私を助けるために、片腕を犠牲にしたのだ。
目の前で、さっきまで私であったものが耳まで裂けた口をせわしく動かし、痙攣をする腕を味わうかのように幾度も幾度も噛み続けていた。
グチャグチャと、くちゃくちゃと。
途端に、許容しがたい吐き気が襲ってくる。
気持ち悪いという感情と、存在そのものへの憎悪が、一気に口から吐き出される。
「おっ…おうぇ! うぇっ! カハッ…う、うう…」
もう、何がなんだか分からない。
私は、気が狂ってしまったのだろうか?
実は現実はいつものままで、私が発狂しただけではないのか…。
一人、嗚咽を漏らしながら願うように思っていると、不意に衣恵が私を化け物から守るかのように目の前に立つ。
尋常でない量の血液を傷口から出したはずなのに、衣恵の背中は弱弱しさなど微塵も感じない。
一呼吸置き衣恵は静かに、しかしはっきりと言った。
「ごめんね、カモ。 巻き込んじゃって」
「……えっ?」
「実は私、隠し事してたんだ…たった一つだけの隠し事…」
「何を言って…それよりも、傷が…」
「あはは、この位、大丈夫。 最後まで心配してくれるんだね、カモは」
衣恵はわずかに振り向くと、混乱する私に自嘲気味な笑顔で告げた。
「今まで、楽しかった。 だから、カモだけは…守るね…」
次の瞬間、今まで血が滴っていた彼女の腕があった場所に目を開けられないほどに眩しい何かが現れる。
それは、形容するなら人の腕のよう。
しかし、人間のものとは異なり、何処か現実離れしたものを感じる腕。
まるで、神話の神様のもののような……。
衣恵は特に驚くこともなく、静かに手を化け物へとむける。
化け物は、逃げることをしない。
いや、違う。 まるで、逃げることを考えられなくなったように、その場に立ち尽くしている。
やがて、静かに衣恵は告げる。
「汝に問う 自らの罪を
汝は知る 自らの意義を
我は裁くにあらず
神々の意思を汝に知らせるのみ
第九位なる神は仰せになった
汝の罪を洗い流すは無色のみと」
次の瞬間、手から無数の何かが伸び、化け物を包み込む。
そして、一瞬で跡形もなく化け物を消し去った。
訪れる静寂。
私の思考は停止し、ただただ目の前に立っている親友の姿を見るだけ。
静寂が永遠にも感じ始めた刹那、くっついていた腕は消え、衣恵がふらりとその場に倒れこむ。
「衣恵!!」
あわてて、私は親友の元へ駆け寄った。
先ほどまで、勇ましかったにも関わらず衣恵はぐったりと力なく、顔は青ざめ脂汗が滲んでいた。
現状が全く理解できない私だけれど、これが危険な状態だと考えずも分かる。
多分、このままでは衣恵は死んでしまう。
急いで、処置が必要だ。
慌てて、私はポケットから携帯電話を取り出し、119を押そうとする。
が、それは不意に差し出された手にさえぎられた。
「救急車は、間に合わないと思いますよ?」
「っ!?」
携帯から顔をあげると、さっきまでは誰もいなかったはずなのに、長身の男が立っていた。
男はハンカチで顔を拭きつつ、言葉を続ける。
「彼女を助けたいのなら、私の指示に従ってください。 鵜飼 加百さん」