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第二十九話 役に立たないもの


帰る日の前日。


ルーエルには、仕事がなかった。


正確には。


やろうと思えば、いくらでもあった。


中央へ持ち帰る記録をもう一度確認してもいい。


症例報告の構成を考えてもいい。


セラの測定値を整理してもいい。


ガレスの魔力経路を、もう少し図にしておいてもいい。


けれど。


どれも中央でできる。


治療所へ行く理由も、今日はなかった。


「……どうしよう」


借りている部屋で。


ルーエルは一人、椅子に座っていた。


荷物はまとまっている。


朝食も食べた。


明日の便も確認した。


珍しく。


本当に。


何もなかった。


     *


結局、外へ出た。


目的はない。


北へ来てから、初めてだった。


いつも。


患者のところへ行く。


オルガの店へ行く。


管理府へ行く。


山へ行く。


誰かに会う。


何かを調べる。


行き先が先にあった。


今日はない。


道を歩く。


朝の町は、思ったより人が多かった。


店を開ける人。


水を運ぶ人。


洗濯物を干す人。


荷車。


犬。


走る子ども。


ルーエルは少し避ける。


子どもが通り過ぎる。


「先生」


呼ばれた。


振り返る。


知らない子だった。


いや。


見たことがある。


「……誰だっけ」


「ひどい!」


女の子が言った。


その後ろに、もう一人。


男の子。


こちらは。


覚えている。


「熱出してた子?」


「僕じゃないよ」


「違った?」


「妹」


「あ」


女の子が頬を膨らませた。


「私!」


「ごめん」


「先生、私のこと治したのに」


「僕?」


「ハロルド先生もいた」


「ああ」


思い出した。


最初のころ。


まだ患者が十三人だった時期。


高熱。


手の痺れ。


重症ではなかった。


「もう学校行ってる?」


「行ってるよ」


「そう」


「今日も学校」


「じゃあ何でここにいるの?」


女の子が黙った。


兄も黙った。


「遅刻?」


「……まだ大丈夫」


「本当?」


「たぶん」


「それは大丈夫じゃない人の言い方だよ」


兄が妹の手を引いた。


「行くぞ」


「待って」


女の子がルーエルを見る。


「先生、明日帰るの?」


「うん」


「中央?」


「そう」


「遠い?」


「ちょっと」


「また来る?」


ルーエルは少し考えた。


「分からない」


「来ないの?」


「用事があれば」


女の子は納得していない顔をした。


「用事ないと来ない?」


「たぶん」


「じゃあ用事作ればいい?」


「病気にはならないでね」


「それは嫌」


「僕も嫌」


兄がまた妹の手を引く。


「本当に遅れる」


「待ってってば」


女の子は急に走り出した。


「どこ行くの?」


返事はない。


「学校、反対だよ」


兄も追いかけた。


ルーエルは一人。


道に残された。


     *


そのまま市場へ行った。


帰る前に買うもの。


考える。


保存食はある。


水も。


干した果物はオルガにもらった。


一軒の店の前で、足が止まった。


蜂蜜。


北で採れたものだった。


前に茶へ入れてもらったものと同じ種類らしい。


中央で買うものより、少し香りが強い。


値札を見る。


財布を出す。


中を見る。


昨日も見た。


そのときは諦めた。


大きな瓶は買えない。


隣を見る。


小さな瓶。


もう一度。


財布の中を見る。


帰りの食事。


中央へ着いてから必要な分。


少し考える。


「……これなら」


小さなほうを取った。


     *


市場を出たところで。


「先生」


聞き慣れた声がした。


オルガだった。


大きな籠を腕に掛けている。


「何してるんだい」


「散歩」


「先生が?」


「僕だって散歩くらいしますよ」


「目的は?」


「ない」


オルガが妙なものを見る顔をした。


「何?」


「熱でもある?」


「ないよ」


「診てもらいな」


「誰に」


「ミレナ」


「嫌だな」


「何で」


「絶対笑われる」


「それはそう」


ひどい。


オルガの視線が、ルーエルの手へ落ちた。


「それ」


「蜂蜜」


「見れば分かるよ」


「買いました」


「……そうかい」


「何?」


「別に」


オルガはそれ以上言わなかった。


     *


薬瓶を買うというオルガと、途中まで一緒に歩いた。


「明日だね」


「はい」


「荷物は?」


「終わってます」


「便は?」


「確認しました」


「偉いじゃないか」


「昨日みんなに言われたから」


「学習したね」


「しますよ、そのくらい」


オルガが笑った。


市場の端で足を止める。


「そうだ。先生」


「はい」


「母さんが会いたがってる」


「エッダさんが?」


「昨日、昔の箱をまた開けたらしい」


ルーエルが顔を上げた。


「何かあった?」


「さあね。私には全部見せてくれない」


「どうして?」


「本人に聞きな」


「今日行っていい?」


「そのために言ってるんだよ」


予定が一つできた。


「昼過ぎ?」


「ああ」


「分かりました」


     *


昼を過ぎて。


ルーエルはオルガの店へ行った。


奥には、エッダがいた。


山羊角と羊角を探したとき以来だった。


白くなった髪には、娘と同じ赤茶がところどころ残っている。


七十六歳。


前に会ったときにも思ったが、手だけを見れば年齢が分からない。


節の太い指。


爪の際に薄く残った薬草の色。


オルガと同じ。


薬師の手だった。


「また来たね、中央の先生」


「明日帰ります」


「だから呼んだんだよ」


「何か見つかった?」


エッダが笑った。


「そういうところは変わらないね」


「何が?」


「座りな」


言われるまま座った。


オルガが茶を淹れる。


エッダの前には。


古い木箱が置かれていた。


見覚えがある。


以前。


角の試料を探したときにも開けた箱だった。


「この前、角を探しただろ」


「はい」


「あれから昔のものを、もう一度見直した」


「二十七年前の?」


「そう」


エッダが箱を開ける。


中から出したのは。


古い紙だった。


     *


「これ」


ルーエルが受け取る。


採取日。


量。


場所。


調薬。


いくつかの記号。


「読めない」


「母さんの字?」


オルガが横から覗く。


「違うよ。婆さんの」


「お祖母さん?」


「そう」


エッダの母。


二十七年前には。


すでに七十を越えていた薬師。


「まだ現役だったんですか」


「薬師に引退なんてないよ」


オルガが言った。


「身体が動くうちはね」


エッダが笑う。


「私はあのとき四十九。オルガが十五。母は七十を越えてた」


ルーエルは紙を見る。


「この記号は?」


「薬効」


「こっちは?」


「採った場所」


「これは?」


エッダが覗き込む。


少し考えた。


「分からない」


「エッダさんにも?」


「母だけが使ってた印だね」


「何を意味するか、聞かなかった?」


「当時は聞く必要があると思わなかった」


ルーエルは。


その印を指でなぞらずに眺めた。


分からないもの。


また一つ。


増えた。


     *


「二十七年前」


エッダが言った。


「あの年の草は、ずいぶん捨てた」


「危ないと思ったから?」


「いや」


ルーエルが顔を上げる。


「効きすぎたからさ」


今年と同じだった。


「同じ匙で薬を作れない。仕入れた場所で効き方も違う。薬師からすれば扱いづらくて仕方がない」


「だから捨てた?」


「私はね」


「お祖母さんは?」


「残した」


「どうして?」


エッダは少し笑った。


「分からないものは、分からないまま残せって」


ルーエルは黙って聞く。


「当時は、何を馬鹿なことをと思ったよ。使えない薬草を取っておいてどうするんだって」


「今は?」


「さあね」


エッダは肩をすくめた。


「先生が持っていったところで、結局何も分からないかもしれない」


「はい」


「でも」


エッダはルーエルを見る。


「二十七年経って、あれを欲しいって言う人間が来た」


ルーエルは少しだけ息を止めた。


「なら、母が正しかったのかもしれない」


「まだ分かりませんよ」


「それでいいんだよ」


エッダは笑った。


「分からないものを残すんだから」


     *


話が終わるころには。


茶が冷めていた。


ルーエルは最後の一口を飲んだ。


甘い。


「蜂蜜?」


「そうだよ」


エッダが棚を見る。


「先生、これ好きだったね」


「はい」


「一瓶持ってきな」


「ありがとうございます。でも、もう買いました」


オルガが顔を上げた。


「買ったのかい」


「はい」


「いつ?」


「さっき」


ルーエルは鞄から小さな瓶を見せた。


「小さいのにしました」


エッダが瓶を見る。


それから。


オルガを見る。


オルガも。


母を見る。


何か。


二人の間だけで話が通じたらしい。


「そうかい」


エッダはそれだけ言った。


棚へ伸ばしかけた手を戻す。


「はい」


「なら、それを大事に飲みな」


「そうします」


「先生」


オルガが言った。


「何?」


「何でもないよ」


「またそれ?」


「何でもないからね」


エッダが笑った。


「仕方のない先生だ」


「何がです?」


「そこだよ」


分からなかった。


でも。


二人とも教えてくれそうになかった。


     *


店を出る。


少し歩いたところで。


また呼ばれた。


「先生!」


今度は一人ではなかった。


朝の女の子。


その兄。


さらに。


五人。


六人。


「何?」


子どもたちが走ってくる。


「学校は?」


「終わった!」


「ちゃんと行った?」


「行った!」


「ならいいけど」


一人が。


何かを持っている。


紙。


布。


紐。


それから。


羽根。


「これ」


差し出された。


ルーエルは見る。


「何?」


「先生に」


「僕?」


「明日帰るから」


受け取る。


鳥だった。


祭りで見た。


あの鳥。


本物ではない。


木を薄く削った胴。


布の翼。


羽根が何枚か。


紐で繋がれている。


上手とは。


言えなかった。


片方の翼が少し大きい。


嘴が曲がっている。


羽根の色も揃っていない。


「作ったの?」


「みんなで」


「これ私」


朝の女の子が青い羽根を指す。


「僕これ」


兄は白。


別の子が赤。


黄色。


茶色。


「祭りの余ったやつ」


「先生、祭り見られなかったから」


ルーエルは鳥を見る。


「……僕に?」


「うん」


「何で?」


子どもたちが顔を見合わせる。


一人が言った。


「治してくれたから」


「僕だけじゃないよ」


「知ってる」


「ハロルドも」


「ハロルド先生にも作った」


「あ、そうなの」


「ミレナ先生にも」


「オルガさんにも」


「セラさんは?」


「もうあげた」


全員分。


だった。


ルーエルは少し笑った。


「そっか」


もう一度。


鳥を見る。


「ありがとう」


それだけだった。


すぐに。


言えた。


     *


「中央に飾ってね」


「うん」


「絶対?」


「飾る」


「捨てない?」


「捨てないよ」


「壊れたら?」


「直す」


「先生、直せる?」


「……こういうのは分からない」


「じゃあ誰かに頼んで」


「そうする」


「約束」


「うん」


子どもたちは満足したらしい。


すぐに。


別の話を始めた。


学校のこと。


祭りのこと。


誰が一番速く走れるか。


山に行けるようになるのはいつか。


ルーエルは。


しばらく聞いていた。


     *


「先生」


朝の女の子が言った。


「何?」


「これ、何に使うの?」


鳥を指す。


「何にも」


「何にも?」


「うん」


「飾るだけ?」


「そう」


女の子は考えた。


「じゃあ、役に立たないね」


兄が妹を小突いた。


「お前が言うなよ」


「だって」


ルーエルは鳥を見る。


「うん」


役には。


立たない。


患者を治せない。


魔力を測れない。


坑道を調べられない。


食べられない。


何かの代わりにもならない。


「でも」


ルーエルは言った。


「僕、こういうの好きだよ」


女の子が笑った。


「じゃあよかった」


「うん」


本当に。


そう思った。


     *


夕方。


治療所へ寄った。


ハロルドがいた。


机の上に。


似たような鳥が置いてある。


ただし。


こちらは少し小さい。


「もらった?」


ルーエルが聞いた。


「はい」


「僕も」


見せる。


「先生の、大きいですね」


「そう?」


並べる。


確かに。


少し大きい。


「中央まで持って帰るんですか」


「うん」


「潰れません?」


ルーエルが止まった。


「……どうしよう」


「箱に入れたほうがいいですよ」


「箱ある?」


「オルガさんのところなら」


「行ってくる」


「先生」


「何?」


「もう閉まる時間です」


「あ」


「明日の朝は出発でしょう」


「ああ」


ハロルドが小さく息を吐いた。


「俺が探しておきます」


「いいよ」


「潰したくないんでしょう」


ルーエルは鳥を見る。


「うん」


「なら探します」


少し考えて。


「お願いします」


「はい」


     *


その夜。


ハロルドが持ってきてくれた箱へ。


鳥を入れた。


大きさは。


ちょうどよかった。


荷物を詰め直す。


薬草。


古い記録。


症例。


術式。


測定値。


ガレスの宿題。


小さな蜂蜜の瓶。


鳥。


北へ来たときより。


ずいぶん増えた。


ルーエルは。


蜂蜜を手に取った。


自分で買ったもの。


少し小さい。


でも。


これで十分だった。


鞄へ入れる。


次に。


鳥の箱を持った。


開ける。


片方だけ大きい翼。


少し曲がった嘴。


青。


白。


赤。


黄色。


茶色。


何にも使えない。


ルーエルは箱を閉じた。


蜂蜜よりも。


薬草よりも。


記録よりも。


丁寧に。


鞄の一番上へ入れた。


     *


灯りを消す。


明日。


北を出る。


眠る前。


思い出したのは。


坑道でも。


患者でも。


新しい術式でもなかった。


「じゃあ、役に立たないね」


子どもの声だった。


暗闇で。


少し笑った。


役に立たないものを。


大事に持って帰ろうと思った。

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