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第二十四話 治さない治療

朝一番の患者は、歩いて入ってきた。


それだけで、少し珍しかった。


これまで治療所へ運ばれてきた者の多くは、発熱しているか、手足の痺れが強いか、どこかを支えてもらわなければ歩けなかった。


男は違った。


四十代。


自分で扉を開け。


自分で椅子を引き。


自分で座った。


「どこが悪いんです?」


ルーエルが聞いた。


男は右手を開いた。


「指」


「動かない?」


「動く」


握る。


開く。


問題なく見える。


「痺れる?」


「少し」


「いつから?」


「三日前くらい」


ミレナが横から聞く。


「熱は?」


「ない」


「吐き気」


「ない」


「息苦しさ」


「ない」


「脚は?」


「何とも」


ミレナは男の手を取った。


指先。


手首。


肘。


左右を比べる。


「握って」


男が握る。


「もっと」


力が入る。


「離して」


離す。


ミレナはルーエルを見る。


「弱くはない」


「うん」


「日常生活は?」


「できてるよ」


男が答えた。


「ただ、細かいことすると気になる」


「仕事は?」


「革細工」


それなら困る。


「針?」


「使う」


「右手で?」


「そう」


ルーエルは男の手を見る。


生活できる。


歩ける。


食べられる。


けれど。


仕事には困る。


「セラ」


「測ります」


     *


異質反応は、あった。


ただし。


小さい。


「ここです」


セラが指した。


右前腕。


肘より少し下。


これまで見てきた患者のように広く散ってはいない。


細い。


「局所的ですね」


ハロルドが言った。


「量も少ないです」


セラが答える。


「減ってる?」


ルーエルが聞く。


「昨日の測定値はありません」


「ああ」


初診なのだから当然だった。


「じゃあ比較できないか」


「今日を基準値にできます」


「そうだね」


男が不安そうに四人を見る。


「悪いのか?」


「今のところ、重くはないです」


ミレナが答えた。


「今のところ?」


「悪くなる可能性がないとは言えないから」


「治せる?」


今度はルーエルを見た。


「たぶん」


答えてから。


少し考えた。


「でも、今日は治療しません」


男が眉を寄せた。


ハロルドもルーエルを見る。


「どうして?」


患者が聞いた。


「今までの患者さんには、異質な魔力を避けるように別の流れを作りました」


ルーエルは自分の腕を使って示した。


「ここに通りにくいところがあるとして」


指を置く。


「こっちへ迂回させる」


別の道をなぞる。


「あなたの場合、それをするには範囲が小さすぎる」


「小さいなら簡単じゃないのか?」


「簡単かもしれません」


「なら」


「簡単そうに見えるのと、安全なのは別です」


ルーエルが言った。


ミレナが一瞬だけ、ルーエルを見た。


三日前。


同じ治療所で、別の患者の脈が急に跳ねた。


高熱で応答も鈍かった。


異質なものを避けて流れを作り始めて、少し経ったころだった。


セラの測定値が動いた。


ミレナが患者の手首を取った。


「止めて」


ルーエルは手を離さなかった。


「あと少し」


「ルーエル、止めて」


「ここまで通せれば――」


「止めなさい」


その声で。


手を離した。


治療は途中だった。


その夜、誰も続きをしなかった。


治しきらなかった。


朝になって。


患者はまだ生きていた。


熱は少し下がっていた。


呼びかけると、眉が動いた。


それだけだった。


「先生?」


男に呼ばれた。


ルーエルは目の前の右手へ視線を戻した。


「身体が自分で出せるかもしれないんです」


「これを?」


「はい」


「じゃあ待つ?」


「一日だけ」


「仕事は?」


ミレナが聞く。


「できれば休んで」


「一日?」


「まず一日」


男はしばらく考えた。


「分かった」


立ち上がる。


「何もしないのも治療なのか?」


ルーエルは少し考えた。


「診てますから」


「それ、答えになってる?」


「なってません?」


男が笑った。


「まあいい」


帰っていった。


     *


扉が閉まった。


ハロルドがすぐ聞いた。


「先生」


「何?」


「治せたんですよね」


「たぶん」


「じゃあ、どうして」


ミレナが先に答えた。


「必要がないから」


「でも痺れてる」


「それだけで危険のある治療をする?」


ハロルドが黙った。


「この前の人」


ミレナが言った。


「覚えてるでしょう」


「……はい」


忘れるはずがなかった。


あの夜。


何度も脈を確認した。


患者が息をするたび、胸が上がるのを見ていた。


朝になってミレナから、


「帰って寝な」


と言われても、しばらく動けなかった。


「治療できることと」


ルーエルが言った。


「治療したほうがいいことは、同じじゃないよ」


ハロルドは患者が出ていった扉を見る。


「でも仕事に困ってる」


「うん」


「だったら」


「だから明日」


「……ああ」


一日。


待つ。


それで悪化すれば介入する。


変わらなければ考える。


減っていれば。


「治さなくていい?」


「たぶんね」


     *


午後。


ルーエルは別の患者を診ていた。


こちらは治療する。


左脚。


異質反応は膝の裏からふくらはぎにかけて残っている。


すでに二度治療した。


「ハロルド」


「はい」


「今日は最初からやって」


「俺が?」


「うん」


「先生は?」


「見る」


「……分かりました」


ハロルドが患者の横へ座った。


手を置く。


目を閉じる。


正常な流れ。


異質なものには触れない。


押さない。


動かさない。


その周囲を探る。


「どう?」


ルーエルが聞く。


「あります」


「何が?」


「異質反応」


「それはセラが測ってる」


「あ」


セラが測定器から顔を上げた。


「私はいます」


「すみません」


「正常なほう」


ルーエルが言う。


ハロルドはもう一度集中した。


「……内側」


「どこから?」


「膝の上から」


「下は?」


「細いです」


「じゃあ?」


ハロルドは少し考える。


「外側へ回す」


ルーエルは答えなかった。


「先生?」


「僕に聞かないで」


「でも」


「患者を見て」


ハロルドが患者を見る。


「痛みあります?」


「今はない」


ミレナを見る。


「脈は?」


「安定」


セラ。


「反応は?」


「変化なし」


もう一度、脚を見る。


「外側から回します」


「うん」


今度はルーエルも答えた。


     *


治療は、問題なく終わった。


「終わりです」


ハロルドが手を離した。


患者が脚を動かす。


曲げる。


伸ばす。


「軽い」


ハロルドの顔が明るくなった。


「歩くのはまだ」


ミレナが言う。


「分かってるよ」


患者が答える。


「昨日怒られたから」


「ならいい」


「先生」


患者がルーエルを見る。


「ありがとう」


「今日はハロルドです」


ルーエルは隣を指した。


患者もそちらを見る。


「ああ。ありがとう、若先生」


「若先生?」


ハロルドが変な顔をした。


「先生より若いんだって?」


「まあ」


「じゃあ若先生」


「俺も先生でいいですよ」


「二人いたら分からない」


「ハロルドで」


「先生を名前で呼ぶのか?」


「じゃあ若先生でいいです」


諦めた。


患者は笑った。


「ありがとう、若先生」


今度は。


「はい」


ハロルドが答えた。


     *


患者が帰ったあと。


ルーエルは記録を書いていた。


施術者。


ハロルド・ケイン。


補助。


なし。


監督。


そこで止まる。


「先生」


「何?」


「何で止まったんです?」


「監督って僕でいいのかな」


「他に誰がいるんですか」


「ミレナ?」


「医師です」


「セラ?」


「魔術師です」


「僕か」


書く。


ルーエル・エルヴェ。


「今日、先生ほとんど何もしてませんね」


「うん」


ハロルドが少し笑った。


「嬉しそうですね」


ルーエルが顔を上げる。


「そう?」


「はい」


自覚はなかった。


「楽だからかな」


「たぶん違うと思います」


「そう?」


「はい」


ハロルドはそれ以上言わなかった。


     *


翌朝。


革細工の男は、また自分で歩いてきた。


「どうです?」


ルーエルが聞く。


男が右手を開く。


「少しマシ」


「本当に?」


「昨日よりは」


ミレナが診る。


握力。


左右差。


指先の感覚。


「昨日よりいい」


「セラ」


測る。


少し待つ。


「異質反応、減少しています」


「どのくらい?」


数値を聞く。


明らかに減っていた。


ルーエルは男の腕を見る。


何もしていない。


薬も。


治癒も。


身体がやった。


「じゃあ今日も」


男が先に言った。


「何もしない?」


「はい」


「先生、楽な仕事してるな」


「そうなんです」


ミレナが笑った。


ルーエルも少し笑う。


「ただ、明日も来てください」


「結局来るのか」


「診ないと、何もしなくていいか分からないので」


「面倒だな」


「僕もそう思います」


「先生が言うなよ」


     *


男が帰ったあと。


ルーエルは昨日と今日の測定値を並べた。


細い異質反応。


一か所。


身体は、自分で排出し始めている。


治療しなくていい。


それでいい。


なのに。


ルーエルは紙を見ていた。


「先生」


セラが言った。


「何を考えています?」


「別に」


「嘘ですね」


「どうして」


「測定値を見る顔ではありません」


「どんな顔?」


「何か試したいときの顔です」


「そんなのある?」


「あります」


ハロルドも頷いた。


「ありますね」


「そうなんだ」


ルーエルはもう一度、図を見る。


「この人にはやらないよ」


「何をです?」


ハロルドが聞いた。


「だから、やらない」


「何をやらないのか聞いてます」


少し迷う。


「迂回させる必要、ないでしょう」


「はい」


「でも、もし」


指で異質反応の場所を示す。


「ここだけ通せたら」


ハロルドが覗き込む。


「通す?」


「細いから」


ルーエルは紙に線を引いた。


これまで作っていた迂回路ではない。


異質反応がある場所。


その中を。


一本。


細く。


「詰まってるところだけ抜ける道を作れないかな」


セラが紙を見る。


「異質反応そのものに近づきます」


「うん」


「今まで避けてきた場所です」


「そう」


「危険です」


「そうなんだよね」


「試しますか」


セラが聞いた。


ルーエルは患者が出ていった扉を見る。


少し考える。


「やらない」


「なぜです?」


「治ってるから」


即答だった。


「この人で試す理由がない」


セラはルーエルを見る。


「分かりました」


紙を返す。


ルーエルはその図を記録の端へ残した。


消さなかった。


     *


昼過ぎ。


ドエルがやってきた。


「エルヴェ治癒師」


「はい」


「坑道調査について、許可が下りました」


ルーエルが顔を上げる。


「中へ入れる?」


「あなたは入りません」


「分かってます」


「先に言っておこうと思いまして」


「信用ないですね」


「あります」


「本当に?」


「治癒師としては」


「それ以外は?」


ドエルは答えなかった。


「ひどいな」


「坑道内部へ入るのは鉱山技師二名、測量師一名、魔術師一名です」


「セラ?」


「いえ」


セラが横から言った。


「坑道調査を専門とする者が来ます」


「そんな魔術師いるんですね」


「います」


「何が違うの?」


「話すと長いです」


「聞きたい」


「あとで」


「はい」


ドエルが続ける。


「入口周辺までは同行できます」


「オルガも?」


「申請されています」


「いつ?」


「明後日」


ルーエルは頷いた。


「分かりました」


「それと」


ドエルがもう一枚出した。


「中央治癒師会から、帰任時期について照会が来ています」


「……もう?」


「北部での臨時任務について、現地医療体制が安定したと判断されれば終了するとのことです」


ルーエルは紙を読む。


「安定してますね」


「私に聞かれても」


「患者減ったし」


「はい」


「ハロルドも治療できる」


少し離れたところで、ハロルドが顔を上げた。


「まだ一人です」


「一人できたでしょう」


「そうですけど」


「ミレナもいる」


「いるよ」


「オルガも」


「いるね」


「じゃあ」


ルーエルは紙をドエルへ返した。


「坑道の入口を見たら、そろそろ帰れそうですね」


ドエルは紙を受け取った。


「そうですね」


それだけだった。


     *


夕方。


ルーエルは革細工の男の記録を閉じた。


経過観察継続。


その下。


治癒術的介入なし。


さらに。


少し迷ってから書いた。


局所的な異質反応に対し、迂回路形成を伴わない低侵襲的介入の可能性あり。


そして、


ただし、現時点で試行する医学的必要性なし。


そこまで。


ペンを置く。


「先生」


ハロルドが入口に立っていた。


「何?」


「帰るんですか」


「たぶん」


「中央に」


「うん」


ハロルドは少し黙った。


「そうですか」


「うん」


それ以上。


何も言わなかった。


ルーエルも何も言わなかった。


ハロルドは帰った。


     *


一人になってから。


ルーエルは机の上を見る。


患者の記録。


治療法。


中止基準。


経過観察。


予防策。


新しい術式の可能性。


最初に来たときには、何もなかった。


今はある。


全部を自分が作ったわけではない。


ミレナが患者を見た。


オルガが薬を追った。


セラが測った。


ハロルドが治した。


ドエルが繋いだ。


一人。


危なかった。


あの夜。


治療を止めなければどうなっていたのか。


分からない。


分からないままでいい。


生きている。


それで十分だった。


灯りを消す。


治療所を出る。


北の夜は、少し冷えていた。


明後日。


坑道へ行く。


そのあと。


帰る。


そう考えても。


特に何も感じなかった。


少なくとも。


そのときのルーエルは、そう思っていた。

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