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第十三話 覚えている人

二十七年前。


紙の上では、たった四文字だった。


ルーエルは管理官から渡された記録を、もう一度読み返した。


坑道北側、周辺植物に異常繁茂を確認。


それだけだった。


何が育ったのか。


どの程度だったのか。


いつ始まり、いつ終わったのか。


誰が最初に気づいたのか。


そのとき、人間には何も起きなかったのか。


何も書いていない。


「これだけですか?」


ルーエルが聞いた。


管理官のドエルは、持参した書類の束を確認した。


「こちらへ届いている写しでは」


「元の記録は?」


「領都です」


「もっと詳しいものは」


「あるかもしれません」


「かもしれない」


「二十七年前ですからね」


ドエルは少し困った顔をした。


「それに、坑道閉鎖時の資料は管理府だけのものではありません」


「というと?」


「鉱務局です。当時、鉱山や採掘権を管理していた部署ですが、その後何度か組織改編がありまして」


「なくなった?」


「名前と所属が変わりました。記録の一部は領都、一部は中央。一部は北部管理府に残っているはずです」


「一部は?」


「所在を確認中です」


ルーエルは紙へ目を戻した。


紙というものは、人間より長生きすることもあれば、人間より先にいなくなることもあるらしい。


「当時の作業員の記録は?」


ドエルが顔を上げた。


「坑夫ですか?」


「はい」


「それも鉱務局の管轄ですが」


「名簿だけでも構いません」


「何を調べるんです?」


「今もこの辺りに住んでいる人がいないかと思って」


ドエルは少し考えた。


「二十七年前なら、まだ存命の方はいるでしょうね」


「ですよね」


「照会してみます」


「できれば今日中に」


ドエルの眉がわずかに動いた。


「今日ですか」


「難しい?」


「不可能ではありませんが」


ルーエルは少し考えた。


「明日、坑道周辺へ行くでしょう」


「その予定です」


「なら、今日聞けることは今日聞いておきたいんです。明日見つけたものを、僕らが知らないだけで、その人たちは知っているかもしれない」


「なるほど」


「それに、現地調査のあとで聞きに行ったら、こちらが見たものに引っ張られて質問することになるから」


ドエルがルーエルを見る。


「先に、向こうが覚えていることを聞きたい?」


「はい」


少し間があった。


「分かりました。優先して照会します」


「ありがとうございます」


話はそれで終わった。


ハロルドが横から小さな声で言った。


「先生」


「何?」


「そういうの、できるんですね」


「何が?」


「いえ」


よく分からない。


     *


「二十七年前なら」


オルガが言った。


「私もいたよ」


ルーエルが振り返る。


「ここに?」


「十五だった」


「あ」


「何だい、その顔は」


「いや。年齢を聞いていいのかなって」


「もう聞いたあとだよ」


「ごめん」


「遅い」


オルガは呆れたように言った。


「当時は祖母のところで薬師見習いをしてた」


「お母さんじゃなくて?」


「母もいたよ」


「じゃあ三人?」


「祖母と母と私。私はまだ薬草を採って運ぶくらいだったけどね」


「覚えてる?」


「何を」


「坑道が閉じたころ」


オルガの表情が少し変わった。


「閉じたことは覚えてる」


「植物は?」


「……薬草が増えた年なら覚えてるよ」


セラが顔を上げた。


ルーエルもオルガを見る。


「増えた?」


「今年ほどだったかは分からない。何せ十五のころだからね」


オルガは古い地図を引き寄せた。


指が北斜面をなぞる。


「この辺りだったかな。ルセ草が妙によく育った」


今年、異常な成長を見せている薬草の一つだった。


「どのくらい?」


「いつもなら腰くらいのものが、胸まで来た」


「十五歳のオルガの?」


ハロルドが聞いた。


「今の私のだよ」


「それは大きいですね」


「茎も太かった。葉も大きかった。採っても次に行けばまた生えてるように見えたよ」


「薬効は?」


セラが聞いた。


「そこまでは知らない。私は見習いだったから」


オルガは少し考えた。


「祖母か母なら知ってたかもしれないけど」


「聞けます?」


ルーエルが尋ねた。


「祖母は無理だね。二十年も前に死んだ」


「あ……」


「そんな顔しなくていいよ。大往生だった」


「お母さんは?」


「生きてるよ」


あっさりした答えだった。


「今も薬師?」


「引退した。目が悪くなって、細かい調薬が難しくなったからね」


「話は聞ける?」


「話ならできる」


「じゃあ――」


「ただし、覚えていればね」


オルガは肩をすくめた。


「七十を越えてる。昨日食べたものは忘れても、五十年前のことは覚えてたりするから、何が残ってるかは私にも分からないよ」


「それでもいい」


ルーエルは言った。


「覚えていないなら、それが分かるだけでもいいから」


オルガが一度ルーエルを見た。


「じゃあ、あとで聞いてみるよ」


「僕も行っていい?」


「まず私が聞く」


「どうして?」


「いきなり知らない男を連れていったら、あの人、話より先に茶を出すからだよ」


「駄目なの?」


「二時間は帰れなくなる」


「それは困るね」


「だろ」


     *


「記録は?」


ルーエルが聞いた。


「何の」


「二十七年前の調薬記録」


オルガが目を細める。


「残ってない?」


「……あるかもしれない」


ハロルドが驚いた。


「そんな昔のものが?」


「薬師を何だと思ってるんだい」


「薬を作る人です」


「作った薬を忘れる人間に薬師ができるか」


「すみません」


「祖母は何でも書いてた。採取した場所、時期、乾燥させた後の重さ、調合量」


「お母さんも?」


「母はもっと細かいよ」


オルガは少し嫌そうな顔をした。


「どの瓶をどの棚に置いたかまで書く女だった」


「便利そう」


「娘として暮らすと面倒だよ」


「見せてもらえます?」


「今?」


「できれば」


「先生」


ドエルが口を挟んだ。


「あ」


まだ話の途中だった。


「すみません」


「いえ」


ドエルは少し疲れた顔をしていた。


「私は坑夫の名簿を照会します。皆さんは薬師の記録を確認してください」


「いいんですか?」


「その方が早いでしょう」


「ありがとうございます」


「ただし、何か見つかったら勝手に次へ行かず、一度私に報告してください」


「分かりました」


「本当に?」


「はい」


ドエルはなぜかオルガを見た。


「私に聞かないでおくれ」


     *


オルガの店の奥には、さらに奥があった。


調薬室。


その向こうの物置。


棚には木箱が積まれている。


紙。


瓶。


乾燥した薬草。


用途の分からない器具。


「火は使わないでよ」


オルガが言った。


「使わないよ」


「先生に言ってない」


セラが顔を上げた。


「私ですか」


「あんたの道具、光ったり熱くなったりするだろ」


「発火するものは持っていません」


「ならいい」


「信用がないですね」


「昨日会ったばかりだからね」


もっともだった。


オルガが木箱を一つ下ろす。


蓋を開ける。


帳面がぎっしり詰まっていた。


「これ全部?」


ハロルドが聞く。


「祖母と母の分」


「オルガさんのは?」


「別」


「まだあるんですか」


「あるよ」


ハロルドが少し引いた。


「薬師の記憶より紙のほうが信用できるからね」


一冊ずつ年代を確認する。


二十六年前。


二十八年前。


二十五年前。


「抜けてる」


「別の箱だね」


さらに探す。


しばらくして、オルガが一冊の革張りの帳面を引き抜いた。


「これだ」


二十七年前。


机へ運ぶ。


紙は黄ばんでいた。


文字は小さい。


かなり小さい。


「細かいね」


ルーエルが言った。


「紙が高かったんだよ」


頁をめくる。


春。


初夏。


採取記録。


調薬記録。


そして。


「ルセ草」


オルガの指が止まった。


全員が覗き込む。


採取量。


乾燥後重量。


使用した調合。


いくつもの数字。


その欄外。


小さな文字が残されていた。


オルガが読む。


「北採取分、効き強し。通常量より減らすこと」


誰もすぐには話さなかった。


今年と同じだった。


「誰の字?」


ルーエルが聞いた。


「祖母」


「分かるんだ」


「何年見たと思ってるんだい」


さらに頁をめくる。


数日後。


同じルセ草。


今度は別の文字が書かれていた。


北のもの、使用中止。


ルーエルは少し顔を近づけた。


「字、違わない?」


オルガが止まった。


帳面を引き寄せる。


しばらく見る。


「……母だね」


「お母さん?」


「そうだ」


もう一度、その文字を指で追う。


「祖母より几帳面な字を書く」


「理由は?」


セラが聞いた。


「書いてない」


その先を探す。


一頁。


二頁。


さらに数日。


オルガの指が止まった。


今度は誰も急かさなかった。


「何?」


ルーエルが聞く。


オルガは答えず、帳面をこちらへ向けた。


母親の字だった。


短い一文。


ガレス、また手が痺れると言う。北の草は使わせない。


「ガレス?」


ハロルドが読んだ。


オルガの顔から、少しだけ表情が消えた。


「知ってるの?」


ルーエルが聞いた。


「知ってるよ」


「患者?」


「今は近所の爺さん」


「今は?」


「羊飼い」


オルガは帳面を見たまま答えた。


「昔は坑夫だった」


     *


「坑道が閉じる直前まで入ってたはずだよ」


オルガは言った。


「ここの人?」


「違う」


「じゃあ、どうして今も?」


「坑夫なんて、あちこちから来るからね」


オルガは帳面を閉じた。


「鉱脈が見つかれば人が集まる。掘れなくなれば次へ行く。ガレスもそういう一人だった」


「なら坑道が閉じたときに、別の鉱山へ行かなかった?」


「行けなかったんだよ」


「どうして?」


「身体を悪くした」


ルーエルの表情が変わった。


「どんなふうに?」


「そこまでは知らない。私も子どもだったから」


オルガは少し考えた。


「手が痺れる。熱が出る。ひどく疲れる。そんなことを言ってた気がする」


今年の患者たちと似ていた。


「治った?」


「治ったことになってたんじゃないかね」


その言い方が気になった。


「なってた?」


「死にはしなかった。寝込んでもいない。普通に歩いてた」


「でも坑夫には戻らなかった」


「戻れなかったんだろうね」


オルガは自分の手を握ってみせた。


「手が痺れて、力が入らない日があるって言ってた。そんな手で岩を割れるかい」


「今も?」


「さあ」


「羊飼いはできてるんだよね」


「坑道の中で槌を振るうのとは違うだろ」


確かにそうだった。


ルーエルは帳面の一文を見る。


また手が痺れる。


また。


一度ではない。


「話を聞きたい」


「だろうね」


「会える?」


「会うだけなら」


「なら――」


「待ちな」


オルガが止めた。


「ドエルに報告するって約束しただろ」


「あ」


忘れていた。


ハロルドが額を押さえた。


「先生」


「わざとじゃないよ」


「分かってます」


     *


ドエルが戻ってきたのは、それから一時間ほど後だった。


「確認が取れました」


「ガレス?」


ルーエルが聞いた。


ドエルが少し驚いた。


「どうしてその名前を?」


オルガが帳面を差し出す。


ドエルが読む。


表情が変わった。


「……なるほど」


「名簿にいました?」


「います」


一枚の紙を取り出す。


「ガレス・ロウ。現在六十一歳。二十七年前、旧北坑道で採掘作業員として登録」


「今は羊飼い」


オルガが言う。


「そこまでは管理府の記録にありません」


「管理府は羊まで数えないからね」


「助かります」


ドエルは素直に答えた。


「本人に話を聞けます?」


ルーエルが尋ねる。


「これから確認を取ります」


「今日中に?」


「そのつもりです」


「ありがとう」


ドエルは紙をまとめかけた。


ルーエルが続ける。


「あと、お願いがあるんですが」


「何でしょう」


「当時の坑夫の名簿、ガレスさんだけじゃなくて残っている分を全部確認してもらえますか」


ドエルの手が止まった。


「全員?」


「全員でなくてもいいです。現在の所在が分かる人だけでも」


「理由を伺っても?」


「ガレスさん一人だと、それが彼個人の症状なのか分からないから」


「なるほど」


「それと、当時この辺りにいた医師と治癒師」


「それも?」


「はい」


「薬師については?」


ルーエルはオルガを見る。


「こっちで辿れそうです」


「分かりました」


ドエルが書き留める。


「中央への照会が必要なものもあります。今日中には無理です」


「急ぎません」


ドエルが顔を上げた。


少し意外そうだった。


「いいんですか?」


「患者に関わることと、明日の調査に必要なことを先にしてください」


「分かりました」


「お願いします」


ルーエルはそこで話を終えた。


ハロルドがまたこちらを見ていた。


「何?」


「先生、管理官相手だとちゃんと交渉できるんですね」


「しないと調べられないでしょう」


「そうですね」


「何?」


「何でもないです」


     *


夕方。


ドエルは本当に戻ってきた。


「ガレス・ロウ氏から了承が取れました」


「今日?」


「はい」


ルーエルが立ち上がる。


「どこへ行けば?」


「本人の家です。ただし条件があります」


「条件?」


「治療所には行かない」


「じゃあ僕らが行けばいい」


「それから」


ドエルが少し言いにくそうな顔をした。


「オルガ・フェルンを連れてくるな、と」


全員がオルガを見た。


ルーエルも見た。


「……何したの?」


「何もしてないよ」


「本当に?」


「二年前に腰を痛めたくせに山へ入ろうとしたから、杖で殴っただけだ」


「それは何かしてるね」


「薬師として当然だろ」


「薬師って患者を杖で殴るの?」


「患者じゃない。近所の爺さんだ」


「もっと駄目じゃない?」


「うるさいね」


ハロルドが笑いを堪えている。


セラは銀縁の眼鏡を押し上げた。


ミレナは隠す気もなく笑っていた。


ドエルだけが真面目な顔をしている。


「もう一つあります」


笑いが止まった。


「何?」


「坑道について話を聞きたい、と伝えました」


「うん」


「そうしたら」


ドエルは一度、紙へ目を落とした。


「『今さら何を聞きに来た』と」


部屋が静かになった。


ルーエルはドエルを見る。


「どういう意味?」


「そこまでは。本人から聞いてください」


二十七年前。


植物が異常に育った。


薬効が強くなった。


坑夫は身体を悪くした。


薬師たちは異変に気づいていた。


管理府にも記録が残っている。


それぞれが、何かを知っていた。


けれど。


今、ルーエルたちが机の上に並べたような形で、それらが一つになったことはあったのだろうか。


ルーエルは古い帳面を見た。


祖母の文字。


母の文字。


管理府の記録。


坑夫の名簿。


それぞれ別の場所に残っていたものだった。


「行きましょう」


ルーエルは立ち上がった。


オルガも立つ。


「あなたは来るなって」


「家の前までだよ」


「どうして」


「誰が案内するんだい」


「ドエルさんは?」


オルガが管理官を見る。


「この町の路地を、管理府の地図だけで歩けると思う?」


ドエルは少し黙った。


「……お願いします」


「最初からそう言いな」


オルガは古い帳面を抱えた。


二十七年前。


ここには、異変に気づいた人間がいた。


調べた人間もいた。


身体を悪くした人間もいた。


それでも何かが残った。


あるいは、残せなかった。


そして今。


その続きを知っている人間が、まだ生きている。


ルーエルは外套を手に取った。


ガレス・ロウ。


二十七年前、北の坑道にいた坑夫。


その男は、


今さら何を聞きに来た、と言った。

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