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嬉しいイレギュラー

作者: 小兎イチ
掲載日:2026/04/16

 ナギサは何によってでもなく文字通りふと目が覚めた。上半身が重く顔だけを横に向けると隣ですやすやと眠っている女の子、マイがいる。ナギサが手に触れると少し湿っぽく、押すと心地良く反発する柔らかさはまるで赤子だった。それに少しばかりの元気をもらい、小さな呻き声を漏らしながら片手をついて起き上がる。マイの幸せそうな寝顔を横目にベランダに出ると、冷たい風が睡眠中にかいた汗を冷やした。ナギサは座り込み、柵に寄っかかりながら煙草を咥え火をつける。ライターに火をつけるために添えた手のひらが暖かく感じた。

 現代人らしく持ってきていたスマホを見ると通知が数件来ていた。詐欺の請求『○○が停止〜、今すぐ〜』微塵も興味のない商品の宣伝『今なら全品3%OFF!』バイト先からの注意『ナギサさん、もう少し〜』と悉く面倒で目を背けてしまう。

 その先にあった空は雲の微妙な白さを持たない、しかし星も見えない黒い色をしていた。首を曲げ、柵の隙間から見ると下では白や赤の光が地面との摩擦音と共に動いている。ナギサはそれらに朧げな感情を抱きつつ、足の先が冷え身震いした。癖で息を止めていたことに気がつき大きく呼吸をしてからしばし先端を見つめ、くどくなるほど吸い込み寒さをスゥーッと解かす。重たい空気で肺が満たされると、連動されているかのように脳が近い未来に不安を抱いた。

 ──このままでいいのだろうか。正直今の生活には多幸感は殆どない。彼女にもたらされるものを大事にして生きていると言えば聞こえはいいだろうが、その実二人とも十分と言えるほどの金は持っていない。コツコツと毎日バイトをしているが、私には人と話す才能が全くと言っていいほどになかった。何もない、そのせいで接客をもっと頑張れと注意され、日々疲れ辛いと言うだけの生活になっていた。迷惑をかけないように、それを強く守って生きていると随分と生きづらくなる。その中で煙草と休みの日が少ない贅沢だった。

 こんな状態ではマイに迷惑がかかってしまっているのではないかという思考が常に頭に浮かぶ。いじめられていたのもあいまって地元を捨ててこんな私と来たいと言ったばっかりに、彼女の人生にきつい坂道が増えてしまった。逆に少なくなったのは新しいことだ。都会に来たばかりの頃は目に映るもの全てが新鮮で、同じ日本、同じ人間でも全くの別物のように見えた。しかし今ではそれらも見慣れてしまい、時に情報過多の要因になるだけだった。それからは繰り返し生きるだけになり、退屈した日々を送っている。何のためにここに来たのだろうか、その言葉が反芻する。ああ、実にいつも通りだ。こうやって私が耽るようになり始めてから長く、これも繰り返しの中に含まれる。ああ、実にいつも通りだ──。

 吹いた風に起こされ、左手に持っていた電光の文字盤を見ると既に五時半になっていた。ナギサはすっかり意識が遠くにいっていたのに加え空の色で気がつかなかったが、もう時間だ。彼女は今日も毎日の支度をし始めなければいけない。窓から微かに見えたマイはまだ起きない。

 重い腰を上げ部屋に入り、短い動線でインスタントの珈琲と紅茶オレを淹れに行く。敢えて火を弱くし沸く時間を調節。彼女の饒舌な舌に合うように用意しなければならない。そうしないと調子が悪くなってしまう、とマイはナギサに言っていた。

 今日も合うといいけどどうだろう。ナギサがそう思っていると後ろからベッドが軋む音が聞こえ戸惑う。目が覚めた?いつも起きる時間からはまだ早いはず。何か用かも。一応紅茶オレを手にしながら慌てて向かったナギサに彼女は言った。 「おはよう、ナギ。」

 「どうしたのこんなに早く起きて、何かあった?悪い夢でも見た?もしかして……漏らしちゃった?」 

 「ちょっと!もう、私を何歳だと思ってるの、いい香りで目覚めただけ。いつもありがとね。──うん、今日も美味しい。」

 ナギサは唇から離されたまだほんのりと温かい飲み終わったばかりのカップを渡されるのとついでに過保護だと言われてしまった。

 「ナギは心配しすぎ。大丈夫だってちょっとやそっとのことじゃ涙の一滴もでないよ。ハイ、分かったのならこれで最後にね。」

 彼女の目の前では頷いたが、本心ではまだ私に起こされているようじゃ無理だと思う。子丑寅卯辰巳……あと干支をもう一周するくらいでちょうどいいだろうか。この世で起こることは全てが無作為であり、予測なんてできたものでない。迂闊に歩むなんて尚更、その黒さはブラウニーくらい。一見そこまで黒くないと思うかもしれないが確かにそこで味わった苦さは消えない。ここまで言えるのは私の実体験だから、彼女には美味しいものだけを摂取してほしいから、「一人で”いきたい”」なんて言わないで。あなたは私がいないと駄目なんだから。


 この時、まだナギサは心の底で抱えてる矛盾に気がついていなかった。昔、子供の頃から自分に油分が増えていた。それに反応するように水は別れ離れて行く。そんな中唯一着いてきたのがマイだった。誰が大事にしないであろうか。ナギサが手放したくないと思うのは当然だ。そして人間は他者との関わりを持つことでそれが叶わないと知る。しかしそれは通常の場合であり、ナギサは異常であった。人生において一度たりともそのような経験をしたことがない。そのくせ一丁前に恐怖だけは感じていた。だが、この時はまだ気がついていなかった。


 そうだ、長い長い雨が止んだら二人で遠くまで行きたいな。……胸の中で言ったって意味ないか。


 「あのさ、私今日はバイト休みなんだ。家事はいいからさ、どっか行かない?」

 ナギサはこうやって仕事とプライベートでしっかりと見境をつける。それが壊れない秘訣、と思っている。これはマイとの諍いを生まない大事な方法の一つでもあった。二人で息抜きをすることが二人の関係において重要になっており、それを表すように彼女は嬉々として飛び跳ねた。ナギサはマイの無邪気な姿を見ると胸が痛む。もっと私に余裕があれば年相応の子でいられるのに。いつも大変な思いをさせているうのは私のせいだ。ナギサがそんなことを考えるのも最早日常的だった。

 「ねえ!ちょっと、またあなた卑下してるんでしょ。せっかくのお出かけなんから楽しいところへと行きましょ。」

 そう言った彼女に微笑みを浮かべながら手を引かれ、まずは共にお風呂に入る。季節らしく柚子の入浴剤を入れ、溶いてる間にシャワーである程度体を流し、ナギサにとっては久々の浴槽にダイブをした。ざぶうんと音を立てて水が逃げ出し、とても狭い中二人は笑いながら揉みくちゃになっていた。しばらくして落ち着き、ナギサはマイが髪を洗っている時にふと足を伸ばしてみた。すると、反対側についていた。ホラ、見てみなよ。今度は曲げてみると膝が水面から出ている。ナギサの体はいつの間にか成長していた。

 「忙しくって気がつかなかったな。」

 「んー?何が?」

 「いや、何でもない。って何それ、いつの間に持ってきたの?そんなのあった?」

 「柚子の入浴剤にガチ柚子を入れたらすごく柚子柚子する……。」

 何を言っているんだという顔をした途端、ナギサの顔を大量の柚子が襲った。若干鼻が痛かったが全裸で笑っているマイを見てナギサもすぐに笑ってしまう。再びざぶうんと音を立てていくつかの柚子が逃げ出し、狭い浴槽がまた狭くなった。

 「ふふっ、馬鹿じゃないのあんた。」

 「ナギほどじゃないよー。」

 「どういう意味よ!」

 あははと笑い合い時間が過ぎる。昔に比べてマイにも笑顔が増え、ある種の飴と鞭のように繰り返しの生活でたまに起こるイレギュラーがナギサの望みにもなっていた。しかも、今日は始まったばかりで、まだ終わらない。


 「そういえば、どこにいくの?」

 マイは髪を溶かされながら鏡に反射したナギサに聞くと、あんまり期待しないでね、と前置きをし少しマイの顔色を伺いながら「無難に、水族館とか。」と言った。

 「へぇ、水族館。いいね!じゃあさっさと準備して行こうよ!」

 ナギサはどこかホッとした顔を浮かべ「よかった。」と言い心機一転したかのようにマイにヘアアレンジを施した。と言っても簡単に三つ編みをした程度だが、それでもマイは嬉しかったようでナギサに抱きついた。んん〜という声を出しながら頭をぐりぐりと胸に擦りつけ、その気持ちをナギサに示す。それに応えるようにほんのりと笑みを浮かべながらゆっくりと頭を撫でマイに一言。

 「梳かした髪ぐしゃぐしゃだね。」

 「じゃあまたやって。」

 んもう!と牛の鳴き真似をしたが、実際は満更でもない。しかし時間がなくなってしまうのもよろしくないため素早く完璧にする。二人とも殆どメイクをせず、ナギサが隈を隠すために軽くファンデーションを叩くくらいだった。そのおかげで出かけるまでにやることは朝食を済ませ、数少ない服を着ることだけだ。

 マイは薄灰色の不透明な包装に入った食パンを一枚取り出し、半分に切った後に今や物価高で高級品となったバターを勿体なさそうに塗る。小さなオーブンに入れ五分ほどの位置にダイアルを回し、その間にこれまた小さな冷蔵庫から紙パックの牛乳を取り出す。潑ねないようにトクトクと注いでいると、お湯担当のナギサはインスタントのコンソメスープを赤色と茶色のマグカップに。一応、コーンポタージュもあったがバターを塗ると合わなくなるだろうと避けておいた。しばらくしてチーンと鳴り、爪を立てて取り出し急いで皿に乗せる。 「お粗末でも、美味しいものは美味しい。」そんなおまじない染みた呟きをしながら膝より少し下ほどの高さのテーブルに並べると、既に牛乳やスープの運搬を済ませて胡座をかいているナギサが今日一番の大声で

 「いただきます!」

 「いただきまーす!」

 声量の割に少ない料理、他の家庭ではおやつより少し多いくらいの量だろうか。成長期であろうマイにはもっと食べさせたいと思っていたが、やはり先ほどの笑顔と同量の貯蓄はされていない。現実のしょっぱさを味わい、真っ白にするために手に取り飲み込む。

 「ふう。ご馳走様。」

 「──あれ、また息止めてたと思ったら食べ終わったの?どういうこと?」

 そう言いつつマイも食べ終わる。食器を洗いながら今日の予定について話し、それが終わるとプラスチック製の薄白いタンスの引き出しを開け、着るものを選び始めた。

 マイは短めのケープにいくつかの短い紐リボンがついた白いトレーナー、下に黒のロングスカートとシンプルながらも一応考えたコーデだったのに対し、ナギサは厚めの黒のジャンパーに薄い白のロングTシャツ、そして特別な名前があるのかも分からない黒いズボンという、オールシーズン着ることができるせいで常に身につけている半ば制服化されたコーデだった。ちょっとは違う服も買えばいいのにとマイから言われているが、着られるのだからお金がもったいないというのを理由に同じものを着続けている。本人も特にお洒落だなんだというのは気にしない性格だと思っているので不便はなかった。 

 「ナギちゃーん?十数日ぶりの二人でお出かけなのにまた同じ服を着るのー?」

 「やっぱ不細工の隣にいる美人はよく見えるって言うじゃん?マイを目立たせたいから私は不細工になるのよ。」

 なンか違くない?という言葉はスルーしボディバッグを身につけ、二つのスマホをそれぞれの充電器から抜き取り手渡した。

 「忘れ物はある?」

 「ない、と思う。」

 「人に迷惑をかけては?」

 「いけませーん。」

 「おっけー。」

 ナギサがドアノブを捻り少し開けると若干の冷たい空気と青い空が入ってくる。そのまま太陽が昇ってくれたことにほっとした。バイトがない日に外に出るといつも違和感がある。そしてその違和感には嫌な予感もついてきた。どうか見逃してください。そうナギサは願った。


 微妙に長い電車とバスで移り変わる景色を楽しめたのはよかったが、代償として二人は腰と尻を痛めた。ナギサは腰を鳴らし、マイは自分の尻を摩る。

 「はぁ〜、久しぶりにお尻の痛みと空の広さを味わってるわ。」

 「私も太陽の偉大さを痛感してる。ああ暑い。空気が綺麗だから?」

 そんなことを言いつつ進み、入り口近くの入場券売り場に着いた。休日ということもあり人が多く、更には遠足で来ていた一クラス分ほどの幼稚園児達がいた。ナギサが二人分のチケットを買っている間、マイがつま先を立てて足を捻っていると一人の幼稚園児が話しかけてきた。

 「おねーちゃん、足痛いの?」

 「うん?あぁ、大丈夫だよ。──優しいんだね。」

 そう言い終わると同時くらいに幼稚園教諭が声を張ってその子を呼んだ。てこてこと狭い歩幅で戻っていく後ろ姿をマイは黙って微笑みながら手を振った。それを終えると同時くらいにナギサが声を張ってマイを呼んだ。たとたとと狭い歩幅で戻っていき、感謝を伝えてからチケットを受け取る。ナギサは上着を脱ぎ腰に巻いていた。

 「いやあ九百円は安いなぁって思って来たけど柚子を思い出すとぎりぎりマイナスかな。」

 「その分楽しみましょ。……ごめんなさい。」

 入場後、一通りマイが蛙に脅えたあと薄暗い通路に進む。そこはどこか落ち着いた、静かにしなければいけないようや雰囲気が漂っており幼稚園児達も互いに口の前に人差し指を出し合っていた。

 皆の目の前には大きな水槽があり、中には両の手でも足りないほどの種類と数えきれないほどの魚がいた。きらきらと、形を変えて上から差し込む光が幻想的で、どうしようもなく綺麗だった。マイはどの魚も見ていない。考えていた。ふと振り返ると魚ほどではなくとも、沢山の人間がいた。多種多様なものを身につけ皆が皆違う格好をしている。そんな中ナギサはその空間の外れにある小さな魚が二匹泳ぐ小さな水槽を見ていた。

 「あっちのは見ないの?」と、小声でマイが話しかけた。

 「いや、見るけど。なんかこの魚何かに似てない?どことなく既視感が。」

 そう言われてマイは横に並んでじっと見る。人工の明かりに照らされた二匹は同じ場所をぐるぐると回っていた。ぐるぐると、同じ場所を回っていた。マイはどちらの魚も見ていない。想っていた。

 「何に似てるんだっけな。分かった?」

 「────ううん、分かんないや。」

 「だよねえ、きっとこのまま考えても分からないだろうから次行きましょ。」

 静かに頷いた。その後は特別何か起こったわけでもなく、長々と見物した後にニジマスアイスとやらを食べて水族館を去った。

 「水族館、すごいよかった。」

 「お気に召したようで何より。はあ、明日からまたいつもの生活が始まると思うと憂鬱だなあ。」

 「そうね……。」

 とっくに幼稚園児達は帰り、人々も帰り、バスを待っているのはナギサとマイ、そして一組の老夫婦だけだった。どうしてか、とても静かで聞こえてくるのは老夫婦の会話、森が揺れる音、川のせせらぎだけ。ナギサはスマホを見ている。マイは真っ黒の森を見ている。空は少し曇り始めたようだ。まもなくしてバスが到着する。これで今日最後のイレギュラーになる。ナギサはスマホを見ていた。マイは前照灯で照らされている暗かった道を見ていた。

 帰宅したマイは寝巻きに着替えるとすぐに眠りにつき、ナギサも一服してから眠った。


 数日後、朝食中にマイが切り出した。

 「ねえナギ、私ちょっとお出かけしようと思うの。」

 「え、え?どうして?」

 「前に水族館行ったじゃん。その時にね、もっと外を知ってみたいって思ったの。私って一人で外に出ることも少なかったし。ナギがバイトしている間なのが申し訳ないけど、自分のお小遣い分で済ませるから。」

 ナギサは酷く困惑した。止めることができる理由もない。ナギサの願いを叶えるためにはなけなしのこじつけをするしかない。無駄だと心の中では分かっていても。

 「マイ、マイ、ねえ、マイは可愛いから誘拐されるかもしれないよ。危ないよ。」

 「えぇ?何言ってんの?過保護は駄目って前に言ったでしょ?これが過保護なのか分かんないけど……ボケ?」

 ナギサは嘘笑いをし、渋々受け入れた。皿を洗い終わり一抹どころでない不安を残してバイトへドアを開く。一言だけ『気をつけて』とメッセージを送信すると、『大丈夫だって、信じろ馬鹿者!』とナギサは思っていないが気持ちの悪い顔をしたウサギのスタンプが送られてきた。しかし向かう道中も着いてからも、ずっとマイのことを考えてしまっていた。そんな状態で仕事に支障が出ないほどナギサは優秀であるはずがなく店主にまた注意される。

 「ナギサさん、最近ちょっと仕事が疎かになってきてない?人と関わるのが苦手そうなのは何となく分かるけど大丈夫?」

 「最近、ですか?今日だけじゃなく?」

 「まあ今日は特にだけどね。こっちも経営者としてお客様にお粗末なサービスはしたくないからさ、その状態が続くならちょっと休んだ方がいいんじゃない?」

 やめないでいいんだ。ナギサはそう思った時、自分に少し気がついた。何私って、──きもいな。

 その後店主に言って今日だけ早く帰らせてほしいと言うと「客も少ないし、ナギサさんがそれで元気になるのなら」と快く呑んでくれた。ナギサはこんな人にあんなことを思ってしまったことを悔やみながら帰宅した。人に迷惑をかけないようにという信条はいつ守れるようになるのだろうか。

 家には自分一人しかおらず、既に橙色になった空が部屋に差し込む。ナギサは服をそこらに脱ぎ捨て下着だけでベランダに出た。灰よりは黒い雲が空に、それを灰よりは白い煙草の煙で攪拌する。

煙草は快楽物質を放出するドラッグではない。憧れだったそれはただ空白を埋める道具に過ぎなかった。スマホと変わりない。しかし、空いた部分がなくなると元々あったものが強調される。ナギサの吸いのスパンが短くなり、吐き出されずに溜め込まれていくが、「大丈夫かな。」「なにこれ。」「つまんな。」といった無駄な言葉や溜め息で排出される。

 「こんなイレギュラーなら嬉しくない。」

 「私はらこんなイレギュラーがあってすごく嬉しい。」

 いつの間にかマイは帰宅していた。ナギサは驚くことなくキッチンに行きさっさと珈琲を淹れる。すぐにできるおかげでナギサの感情は擦り減らずに済んだ。これで話を飲み込める。机にカップを置き床に座り、話しかける。

 「今日はどこに行ってたの?マイ。」

 「うん、出たはいいんだけど何をすればいいか分かんなかったから取り敢えずスマホでカフェを検索してみたの。」

 マイはそこのミルクティーが美味しかっただのチョコケーキを食べただのみんなお洒落だったなどと話した。

 「それでね、そのカフェを出たところでかっこいい男の人に話しかけられたの!」

 「は。ん?……いや続けて。」

 「うん、でね、その男の人が一目惚れしただ言ってきて、連絡先を交換したんだ。今度会う予定もできちゃった。」

 「……大丈夫なの?」

 「大丈夫!すごく優しそうで黒髪だし。」

 ナギサは息を止める。苦しくなるほど考えた。

 「頭大丈夫?」

 「どういう意味。」

 「どうもこうもないでしょ。そういうのが怪しいんだって知らなかった?」

 「おかげさまで外にあまり出てないからね。ロマンチックな出会いだと思ってしまうわ。」

 「本気で言ってる?言っとくけど世間は圧倒的に私側だからね。」

 「もう一度言うね。おかげさまで外にあまり出られてないからね。」

 「なんなの、あなたのためを思って言ってるんだけど?」

 「うわ、ホントにそれ言う人いるんだ。母親ですらないのに。気持ち悪。」

 口にしたのは珈琲とマイに対する言葉だけなのにナギサの肺だけでない、全てに重い空気が満ちる。突然だった。黒々とした何かに覆い被られたイメージまで勝手に頭の中に作った。とにかく、落ち込んだ。そしてその負のエネルギーは怒りへと変換される。

 「出てって!私の子でもないなら、勝手に着いてきた身なんなら!」

 「──っ。ああもう!出ててわよ!馬鹿!」

 マイは興奮し、帰ってきた時の格好のまま家を飛び出した。荷物も出かけた時と同じだったのですぐに帰ってくるかと思ったが、マイは帰ってこなかった。


 最初は、少しは痛い目を見ればいいだとか私の大事さに気づいて三日も経たずに戻ってくると思ってた。だから知らんぷりでもしようと思ってた。でも想像よりも会えない時間が長くなって、やっとマイの大事さに気がついた。今日も雨が降っている。一人分の食費が浮いたとて食べる量は変わらず、パンを焼くのすら億劫で味だけが劣化していった。一応、コーンポタージュがあったおかげで食べられた。今日も雨は降っている。いつの間にかバイトに行く時間だ。

 「ああ!ナギサさん、待ってたよ。今お客様がいっぱいいらっしゃって、イズミさんにも急遽来てもらってさ。だからなるべく早く着替えてお願い!」

 店主さんに言われ準備をする。従業員室に入り着替えると、出る方法を一瞬だけ忘れてしまった。──そろそろ自分は、そう思いながらドアノブを捻る。

 私はいつの間にかオーダーを取る役になっていた。『何故か』は自分でもつけない。淹れるのは得意だったんだけどな。しかしそのおかげでミスというミスもしなくなった。いくら私でも、聞いて書くことくらいはできていた。忙しくて仕事中はあの子のことも忘れられるし、今日も順調だ。

 「はい!ただい、」

 「──?はい、えぇーっと、じゃあこの……。」

 ナギサが注文を受けた客はマイに似ていた。声や話し方は違うが、何より見た目がそっくりだった。ナギサ自身も違う人間だということに気づいてはいたが、問題は別のところにあった。それ以降は幾度か注文を間違え、先輩のイズミにもきつく注意された。しかし記憶は数十分に一度シャッターが切られるかのようにしか頭に残っていない。無理に思い出そうとするとサブリミナルに的にマイの顔が浮かぶ。その度に脳みその中身が揺らぐ。今頃何をしているだろうか、ナギサは下手な考え方をやめ想い始めた。

 どこか路上で泣いているのではないか、何者かに襲われていないか、この雨中で風邪を引いていないか、食べていけているのだろうか、エトセトラ。マイが頭に出ると心臓の鼓動が速くなる。ナギサは連絡は来ていないかとスマホを何度も確認したが、やはりウサギのスタンプが最後のやり取りだった。

 あ、と気づくと煙草が切れた。ナギサは一日に二本程度しか吸わず、ニコチン中毒というものがよく分からなかった。最近は平均三箱。朝起きてガラガラの喉で吸い、朝食中に吸い、バイト中にもいちいち着替えて吸いに行き、帰ってからはマイを考えてしまう度に吸っている。おかげでナギサとマイが暮らしていた部屋はすっかり臭くなった。しかしやめられない。ナギサは雨の中コンビニへ向かった。

 金が入ったポケットに手を突っ込み歩く。強く拳を固めており、車と雨、そして水たまりに浸かる音だけが響いていた。歩きが速く、五分もしないうちにコンビニに着いた。中は店員すらおらず、マスクでもすればいくらでも盗める状態だった。しかしナギサがここに来た理由は犯罪のためではない。レストランにありそうな銀色の呼び鈴を人差し指でツンと押すと奥から「はいただいま〜。」と気の抜けた声を出しながら出てきた。ナギサの姿を見てギョッとしつつも七一一番という声を聞きレジに通した。

 「六六〇円です。」

 コンビニの横に置いてある灰皿スタンドに向かい、火をつける。煙草はやはりよくないものでその重たさが心にも繋がる。地元に帰ろうか、そうナギサは思った。地元に帰るということは──。

 その時、通りの方から男女二人組が近づいてきた。ナギサもすぐに気がついた。男はどこの誰かも分からないが、女は見たことのない服を着ていても確かにマイだった。本人も何故かは分からないが咄嗟にコンビニの側壁に隠れた。幸い二人には気づかれていないようでナギサに葛藤の時間ができた。

 話しかける?話しかけたとしても、どう接すれば。引き離す?逆効果だ。謝る?謝ったら別れてくれるなんて都合のいいことはない。男を?誰が得するんだ。じゃあどうすれば?時間だ。マイと男はコンビニから出てきた。彼女らは早く食べたい、帰ったら何する、と随分と楽しそうに会話をしていた。殆ど濡れの身体が見えている異物の私に目もくれなかった。雨が降っていても、二人で遠くに行くんだ。帰ろう。


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