市松人形と目が合った日
義実家の客間には、市松人形がある。
義母が子供の頃にもらったもので、
毎年ひな祭りの時期になると
押し入れから出して飾るのが習わしだ。
私が嫁いでから、もう十年以上になる
だから、その人形もずっと見慣れていた。
ある日、義実家に訪れた際
リビングのソファで本を読んでいた。
ふと顔を上げると、
リビングから斜めに見える客間の奥に
その市松人形があった。
そして――
目が合った。
黒い瞳がこちらを見ていて、
柔らかく微笑んでいるように見えた。
「ふふ、可愛いな」
そう思ったのを覚えている。
私はまた本に目を戻し
しばらく読んでから、もう一度客間を見た。
人形は俯いたまま、無表情だった
そのとき思い出した。
あの人形は飾り台が少し前に傾いているから
角度によって表情が違って見えることがある。
〘きっと、さっきのはそのせいだろう〙
そう思ったものの気になってしまい
それから何度も客間を見た。
けれど、二度と目が合うことはなかった。
その日の夜、夕飯の準備を手伝いながら
何気なく義母に話した。
「今日、人形と目が合った気がしたんです」
義母は少し黙ってから聞いた。
「その時、笑ってた?」
私はうなずいた。
すると義母は
少しだけ困ったように笑った。
「やっぱりねぇ」
理由を聞くと、義母はこう言った。
「私も子供の頃に一度だけあるの」
「目が合ったこと」
「その時もね、笑ってた」
私は思わず客間の方を見た。
襖の向こうで
市松人形は俯いたまま動かない。
義母は静かに続けた。
「でもね」
「そのあと何度見ても、二度と目が合わないのよ」
続けて義母がぽつりとこう言った。
「この家でね」
「あの子と目が合った人は、みんな一度だけなの」
それからも毎年、ひな祭りになると
あの市松人形は客間に飾られる。
ただ私は今でもたまに思い出す…
十年以上見てきたあの人形が、
あの日だけ確かにこちらを見て笑ったことを。
そして――
今年も、ひな祭りの準備をしていたとき
人形を箱から出した義母が、
ふと不思議そうな顔をした。
「おかしいわね…」
「この子、昔からこんな向きだったかしら」
そう言って、人形の顔を客間の方へ戻した。
さっきまで…
その市松人形は――
リビングの方を向いていた




