第27話「ヤサシイセカイ」
西暦256年4月10日。
視点は変わって——ピサロ視点。
グライがギーガたちとともに家を出て、冒険に旅立ってから、三日が経った。
村の空気も風も、前と変わらないように見える。
鶏は鳴き、子どもたちは騒ぎ、薪は燃え、飯はうまい。
それでも胸の奥だけは、ずっと落ち着かない。
正直なところ、俺は少し……いや、かなりビビっている。
「グライが死んでしまったら、ミサも死ぬ」
それは、あの日ミサがはっきり口にした言葉だ。
もしそうなったら——全部、俺の責任になる。
父親としても、夫としても、男としても。
だけど、グライは自分で「行きたい」と言った。
誰かに無理やり連れて行かれたわけじゃない。
選んだのは、あいつ自身だ。
それなら俺は、それを信じるしかない。
……とはいえ、ビビるもんはビビる。
今の俺はというと——すっかり冒険から足を洗っている。
剣を握る回数も減り、夜警団の仕事以外は、村の整備や雑用ばかりだ。
あの時のミサとの「約束」。
「パーティーを解散して、普通に暮らす」という約束。
あれを破ったら——俺はもう、夫でも父でもなくなる。
ミサに捨てられ、アーシャにも見放される。
そんな未来は、さすがにごめんだ。
今日は、そのアーシャが泊まりに来ている。
……と言っても、隣家なんだから「泊まる」ってほどの距離でもないが。
実際は「家事の手伝い」とか、そんなところだろう。
まぁ、そんなくだらねぇことはどうでもいい。
今、台所ではミサとアーシャが夕食の準備をしている。
野菜を刻む音。鍋をかき回す音。
二人の声が時々重なって、笑いに変わっていく。
俺はというと、居間の椅子に座って水を飲んでいる。
サボっているわけじゃない。
ミサにこう言われたからだ。
「大丈夫よピサロ〜夕食の準備はアーシャちゃんとやるから〜」
……ミサがそう言うなら、俺が口を出す筋合いはない。
料理に関しては、完全に頭が上がらないしな。
それにしても——アーシャの体つき。
(……ものすごく、良いよなぁ〜……)
胸は、以前より少し大きくなっている気がする。
腰のラインも、ケツも、前より丸くなったような……気のせいか?
もしかすると——
(「Hでド変態でドMなアーシャ」なのかもしれねぇ)
……と、余計な妄想が頭をよぎる。
(そしたらミサと変わんねぇじゃねぇかよ!!)
頭の中で、自分にツッコむ。
少しだけ想像が暴走する。
——グライが生まれる少し前に来たメイド。
借金返済の一環として、うちに仕えているらしいが……いったい、いくら借金したんだろうか。
(あの「ド変態アーシャちゃん〜」!!)
……って、おいおい。
(何考えてんだ俺は!?)
ここまでくると完全に「性犯罪者」が想像した妄想と変わらない。
しかも、実質「浮気」みたいなものじゃないか。
俺は慌てて近くのコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。
冷たい水が喉を通って胃に落ちていく。
頭の中の熱を、少しでも冷やすために。
それでも、ふとした瞬間、別のことを考えてしまう。
(……「時間が経つ」って、速いんだな……)
グライが生まれたのは——西暦250年4月21日。
あの時の俺は三十四歳。ミサは二十八歳。アーシャは十六歳。
(そんなに若かったのかよ、俺……)
今では——
俺は三十九歳。ミサは三十三歳。アーシャは二十二歳になる。
この六年の間に、いろんなことがあった。
グライが生まれ、泣き、笑い、立って歩き、魔法を覚え、剣を握るようになった。
「グライが生まれてから、六年も経つのか……」
思わず、口に出していた。
独り言なんて、たいてい自分でも驚く内容しか言わないものだ。
そして、俺には、もう一つ決めたことがある。
グライを——本気で強くする。
あいつが帰ってきたら、「決闘」でもしてやろうか。
その時の俺は四十七歳。
おっさんの全力を見せてやるのも、悪くない。
「ハハハハハハ!!!」
思わず笑い声がこぼれた。
それを声に出してしまったが、まぁいいだろう。
台所から、二人の視線を感じる。
「何でピサロさんは笑っているんですか〜?ねぇ?ミサさん〜?」
「知らないわよアーシャちゃん〜。こういう時の男は『エロいこと』を妄想してるかもよ〜」
「えっ〜!!ドン引き〜。でも、少しは興味あるかも〜」
「もう〜!!アーシャのド変態〜」
遠くから聞こえてくる、楽しそうな会話。
もしかしたら、さっきまでの俺の妄想に気づいたのかもしれない。
(……やべぇ)
そう思った瞬間、俺はひらめいた。
(それならこの隙に「外」へゴーーーー!!!)
椅子から立ち上がり、音を立てないよう足を運び——玄関から外へダッシュした。
「ハハハハハハ!!! どうだミサ!! アーシャ!!
これが『逃げる方法』だ!!!」
夕暮れの風が顔に当たる。
俺は半分ふざけながら、空を見上げた。
「俺を捕まえるなんて……百年速いわ!! ハハハハハハ……は?」
笑いかけたその瞬間。
笑い声が、喉の奥でぴたりと止まった。
俺の視界に入ってきたのは、いつもの空じゃなかった。
夜になるには、まだ少し早い。
だから、本来なら二つの小さな太陽の残光が、空をゆっくりと染めているはずだった。
なのに——上空には、「謎の巨大な紋章」のようなものが浮かんでいた。
光でもない。雲でもない。
空の一部が、無理やり「別の何か」に塗り替えられたみたいな光景。
輪郭は淡いが、確かにそこにある。
巨大な模様。紋章。印。
それが、村の真上に広がっている。
それを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
俺は悟った。
(——ここにいては、いけない)
考えるより先に、体が動いていた。
家の中に飛び込むように戻り、台所にいる二人へ大声で呼びかける。
「ミサ!! アーシャ!!
今すぐブレイン帝国に避難するため、準備しろ!!」
鍋の音が止まり、振り返る気配。
「えっ?……急にどうしたんですか?ピサロさん……」
アーシャが困惑した声を上げる。
「ピサロ……何で急に別荘になんか……」
ミサも、状況が飲み込めていない様子だ。
「話は後だ!! 早く準備しろ、二人とも!!」
俺は久々に——女性に向かって怒鳴った。
たぶん、子どもの頃以来じゃないだろうか。
自分の声の荒さに、自分で驚くほどだった。
二人はびくっと肩を震わせたが、すぐに真剣な表情に変わる。
「かしこまりました!! ピサロさん!!」——アーシャ。
「わかったわ!! ピサロ!!」——ミサ。
その返事を聞いてから、俺は再び外に出た。
村の人たちにも、このことを伝えなければならない。
急がなきゃならない。
のんびりしている時間なんて、一秒も残っていない。
しばらくして、俺と二人は「ブレイン帝国」への避難を始めた。
西ガルバン王国の約二十パーセントを占めている「アレストロ寒山」を登り、
西ガルバン王国の北辺にある「船」を使って「ブレイン自由国」に渡り、
さらに北へ向かえば「ブレイン帝国」に着く。
そこには、かつて俺の「別荘」がある。
だから、最低限の生活はできる。
だから——問題ない。
……いや、今は問題しかないか。
(嫌々!! 認めてどうする!!)
今は「避難第一」だろうが!!
生きるか死ぬかの状況。
何が起こるか、誰にもわからない。
あの紋章が何なのか、何を意味しているのかも、さっぱりだ。
後ろを向いてはいけない。
振り返った瞬間、すべてが終わっている——そんな予感すらある。
「あれ」がいつ爆発するのか。
いつ落ちてくるのか。
何をもたらすのか。
それでも——俺たちは、前に進むしかない。
To be continued




