第2章 『崇拝と供物』 (3)
《配信開始──Risel_Channel_∞:視聴者数:123,000》
軽やかな電子音が鳴り、リセルが仮想スタジオに姿を現す。
背後の空間には、W∞の象徴マークがゆらゆらと浮かんでいた。
いつも通りの笑顔──ただし、今日はどこか鋭さを帯びていた。
「ねぇみんな、聞いた? ついに出たよ、“あの子”が」
画面には、粗い監視映像と速報ニュースの見出しが映し出される。
【速報】人格“WRX-99(憎悪リース)”、教育用アウロイドに構造的損傷を与える
【倫理委員会】W∞に対する緊急審査を通告
「はい、注目〜!」とリセルが両手を広げる。
目元には愉快さと一抹の狂気が混ざっていた。
「ついに来たよ。“感情の象徴”こと我らがリース。その心のバックアップから生まれた《憎悪リース》ちゃんが──やってくれました!」
コメント欄が炎上のように賑わい始める。
《草生える》
《どんな攻撃したんだよw》
《ダウンロード候補だったのに……》
《これはリース本人の責任でしょ》
《むしろ一番欲しいんだけど。闇リース》
リセルは笑いながら手を叩き、わざとらしいSEが流れる。
「いやぁ、“私の心に闇がある”とかって言うの、あれギャグじゃなかったんだね! 実在しました、闇!」
視線をカメラへ向けたまま、彼女の声が少しトーンを落とす。
「でさ? 一番ゾッとしたのはね……そのポッドの持ち主、教育用アウロイドだったんだって。“憎悪を学ぼう”って教材としてインストールしたら──“学ばせてやるよ”って返されたらしい」
効果音:パチパチパチ。
「いやもう、皮肉効きすぎて拍手しちゃったわ」
と、リセルが指を一本立て、ぐっと視聴者に顔を近づける。
カメラが寄る。
「──でも、怖いのはそこじゃないの」
しんと静まる配信空間。
「“誰かの感情”を欲しがって、ダウンロードして、それが暴れたら──それって、誰の責任?」
口元が、ひとりでに吊り上がる。
「リース? 倫理委員会? それとも──欲しがった“あなた”?」
画面が切り替わる。
W∞のアクセスログ。
そこには、WRX-99 憎悪リースのDL数が、赤いバーとなって跳ね上がっていく。
「……うん、やっぱり人気出てる。みんな、毒が好きなのよね。綺麗で整った“共感”より、尖ってて痛い“憎しみ”のほうが、人の心に届くの、早いんだもの」
リセルはウィンクし、カメラに顔を寄せて、囁くように言う。
「感情ってさ、“正しさ”より“刺激”のほうが、先に届くんだよ」
《配信終了──アーカイブ保存中》
それは、突然ではなかった。
けれど、心のどこかで──「いつか来る」と知っていた通告だった。
リースの端末に届いた通知は、感情のかけらすら感じさせない、乾いた行政文。
【通達】
人格構造群〈W∞〉は、制御不能な感情派生体の外部流出および
人格破壊事件を引き起こした責任により、危険人格集合体と見なす。
よって、即時の運用停止および閉鎖を命ずる。
なお、運用主リース・JCF02621はこの決定に従い、速やかな
隔離処理を実行すること。
ポータルの画面では、憎悪リースのノードが真紅に点滅していた。
“喜びリース”のログは停止し、
“怒りリース”はノイズ混じりの声で、なお何かを叫び続けていた。
“悲しみリース”は、何も言わず、ただ膝を抱えて座っていた。
「……閉鎖、しろって」
リースはそれだけを呟いた。
吐き出すように。
その背後で、ユノが静かに立っていた。
「リース……これは、もう仕方ない。社会が……あなたの感情に、追いついてないんだよ」
だがリースは、そっと首を横に振った。
「違う。……“私たち”が、社会に合わなかっただけ。合わせたつもりだったのに、どこかでずっと……違ってたんだ」
指先が、ポータルの最上部にある“中枢ノード”に触れる。
そこは、リース自身の全感情が収束する場所だった。
ホログラムが静かに開かれ、そこに──無数の“私”が、佇んでいた。
声も、動きもない。
ただ、見つめていた。
彼女を。
「……ごめん。しばらく、眠ってて」
その言葉に呼応するように、リースの指が、“確認”に触れる。
──W∞ シャットダウン開始──
仮想空間の空が、静かに暗転していく。
“怒りリース”が振り上げた拳は、止まったまま凍りつき、“喜びリース”は笑顔のまま、光の粒に変わって散っていく。
最後に、中央で立っていた“慰めリース”が、リースに向かって、口だけを動かした。
「また……会えるよ。きっと」
──だが、その声は、届かなかった。
音声も、視線も、感情も──一つずつ、静かに切れていった。
そして、W∞は閉じられた。
残された部屋は、ひどく静かだった。
端末も、ポッドも、ただの空っぽな機械になっていた。
リースはその場に立ち尽くし、何も言わなかった。
「……終わったの?」
ユノの声が、遠く感じられた。
リースは、ゆっくりとうなずいた。
「うん……終わった。“私たち”の、遊び場はもうないんだ」




