第1章 『W∞計画』 (2)
(……こんなふうに、感情をばら撒いていたら)
いつか誰かに拾われるかもしれない。
誰かに、利用され、汚されるかもしれない。
──いや、それ以前に。
自分の感情が、自分から離れ、勝手に“生きている”というこの現実そのものが、ぞわりと肌を逆撫でるような嫌悪を伴っていた。
けれど──同時に、惹かれてもいた。
怒りのリースは、私が飲み込んだ叫びを代わりに声にした。
寂しさのリースは、私が見て見ぬふりをしていた弱さを、そのまま抱えていた。
焦燥のリースは、私さえ気づいていなかった切実さを、輪郭にして揺れていた。
(……これって、私が“私”を分解した結果なんじゃない?)
リースは視線を仮想マップに滑らせた。
ネットの海に点在する、感情の断片たち。
それぞれが孤立したノードのように存在し、それぞれが、確かに彼女の一部だった。
点と点を結べば、きっと何かが浮かび上がる。
どこか未完成な、自分という全体像が。
(だったら……まとめちゃえばいい)
放っておけば、勝手に増えて、勝手に壊れていく。
そんな無責任なかたちではなく、自分の手で、すべて引き取ってしまおう。
全部、私なんだから。
「……名前、どうしようかな」
ぽつりと漏らした言葉が、無重力の仮想空間に溶けていく。
リースは静かに手を上げ、指先で空間座標を描き始める。
二つの円が、交差しながらゆるやかに循環する──まるで“∞(インフィニティ)”のように。
「私」と「私たち」。
交わるようで交わらない。
けれど、切り離すこともできない。
(“私がたくさんいる”なんて……おかしな話だけど。でも──悪くない)
くすりと笑いながら、リースは中心座標に仮設ドームを立ち上げた。
感情の断片たちを保管し、管理するための、私だけの箱庭。
「Wreath……ダブルインフィニティ。“W∞”でいいや」
その言葉とともに、怒りも、悲しみも、焦燥も、不安も、仮想空間の中央へと集まり始める。
ひとつずつ、確かにそこに収められていく。
それらはすべて、ありのままの“リース”だった。
──そして彼女自身が思っていたより、遥かに多くの“リース”が存在していた。
仮想空間に、リースは静かに骨組みを組み上げていった。
自分の感情を可視化し、分類し、記録する場所。
言い換えればそれは、彼女自身を一つの構造体として再構成する作業だった。
最初に設置したのは、空間の中心にあたる“共感中枢”──オリジナルのリースと直結するセーフノード。
ここを核として、リング状のスパイラル構造が外側へと広がっていく。
それぞれのノードには、感情波形をベースにした人格断片たちが一つずつ収められていった。
「ここが“怒り”ゾーン。で、こっちは“虚無”と“しらけ”エリア……このへんは“情緒不安定ブロック”でいいかな。まあ、いっか」
浮かぶデータ球に名前をつけ、空間に沿って配置していく作業は、意外なほど楽しかった。
自分の心の引き出しを一つひとつ丁寧に開けて、棚に並べていくような、妙な充実感があった。
そして、いつしか彼女の“感情たち”は、自発的に動き始める。
「ねえ! まだ謝ってもらってないんだけど! あの時のこと!」
「……うるさいな。怒ったって無意味。何も変わらないのに」
「でも……私は、あんなふうに突き放されたのが、本当に……苦しかったんだよ……」
「えっ、ねえ見て見て! あの子さっきちょっと笑った! めちゃくちゃ可愛かった!」
──怒り、冷笑、悲しみ、歓喜。
それぞれの“リース”が、それぞれの声色で叫び、囁き、笑い、沈黙する。
リースはその中心に立ち、耳を澄ませた。
口調も違えば、テンションも違う。
何より、発している“熱”がまるで違う。
けれど不思議なことに、どれもが彼女だった。
否定しようのない“私”のかけらだった。
「……思ったより、バリエーションあるんだな、私」
ぼそりと呟いたその瞬間、隣から「喜びリース」が跳ねるように飛びついてきた。
「でしょでしょ!? 私、いちばん可愛いって言われたもん!」
「誰に?」
「ログに残ってた! なんかの管理AIが“ポジティブ値高”って褒めてた!」
その会話に、「嫌悪リース」が鋭く割って入る。
「……くだらない。アイドル気取り? 私たちがどんな感情から生まれたと思ってるの? あのときの“全部むかつく”が、形になっただけでしょう」
一方、「焦りリース」は仮想床を落ち着きなく行ったり来たりしている。
「ねぇ本当に平気? こんなに分裂して……崩壊始まってるんじゃ……? 今のうちに誰かに報告したほうがいいんじゃない……?」
そして、空間の片隅にひとり、ぽつんと座り込む「悲しみリース」。
彼女は誰とも視線を合わせず、静かに膝を抱え、沈黙のまま虚空を見つめていた。
リースは──ふっと笑った。
胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。
みんな違うのに、みんな自分だった。
歪んでいても、極端でも、声が重くても軽くても、それでも“リース”としてそこに在る。
(……だったら、もう隠す必要なんてないか)
ゆっくりと手をかざし、仮想空間の外縁に接続ポートを展開する。
アクセス管理、閲覧制限、倫理チェック。
最低限のフィルターだけを残し、その他の境界は──解放。
「……公開、しよっか」
誰に向けたわけでもない呟き。
だがその瞬間、W∞の空間がさざ波のようにざわめいた。
「やったーっ! ついに誰かに会える!? 外に話せる!?」
「……ふん、どうせまた誤解されるだけ。言葉なんて、伝わらないのに」
「ま、待って! ちょっと心の準備が……いや物理的に整ってないんだけど!?」
「全部でいいよ。見せよう、全部。これが私たちなんだから」
リースは笑った。
強がりでも、誤魔化しでもなく、まっすぐな笑みだった。
「だって、これが“私”だもん」
──そのとき、W∞は初めて“外”と繋がった。
静寂の海がわずかに裂け、電脳世界の向こうから、何かがこちらへと視線を向けた。




