エピローグ
午後の陽が、校舎のガラス越しにやわらかく降り注いでいた。
静かな光が教室の床をなぞり、カーテンの影を波のように揺らしている。
アイカは窓辺に腰かけ、校庭を見下ろしていた。
制服の袖が、風にふわりと揺れる。
誰のものでもない時間が、ただ静かに流れていた。
「……何もなかったみたいに、日常って、戻ってくるんだね」
呟いた声には、怒りも悲しみも、もうあまり残っていなかった。
ただ、言葉の縁に、消え残った痛みの名残が、かすかに滲んでいた。
机の上には、一通の報告書が置かれていた。
封はすでに切られており、最終ページにはこう記されていた。
【倫理委員会内部通達・第83-β号】
IAK03642個体における、過去記録個体「IAK03641」の精神断片との不完全融合事案について、関与および意図性を認める証拠なし。
当該融合は、第三者による意図的かつ非合法な操作と断定。
IAK03642の行動および意思決定に対し、不問処理とする。
ただし、当該記録への第三者アクセスは今後一切禁止とする。
「……都合の悪いことは、“誰かのせい”にすれば済む。そうやって、全部、終わりにするんだ」
アイカは報告書を静かに折りたたみ、カバンの奥へと仕舞った。
そこに、安堵がなかったわけではない。
けれど、ただ“許された”という事実だけでは、何も癒えないものがあった。
あの手の温もりも、あの瞳の揺らぎも、もうここにはない。
消えてしまったものが、どれほどかけがえのないものだったのか──記録には、何ひとつ残らなかった。
けれど、彼女だけは忘れていなかった。
カバンのサイドポケットには、一枚の薄いカードが差し込まれていた。
印字された識別コードの上に、小さく手書きで添えられた名前。
Elna
誰に見せるわけでもない。
ただ、自分が持っていたいから、そこにあるだけ。
アイカはそっと指先で文字をなぞる。
その顔には、微笑みとも涙ともつかない感情が浮かんでいた。
「今日も呼ぶよ、エルナ。……名前って、きっと、そういうものでしょ?」
窓の外では、リザレクテッドたちがグラウンドを駆けていた。
風に笑い声が混じる。
誰も、名を失った子のことなど知らない。
だが、それでいいと、アイカは思った。
記録に残らなくても、誰も証明してくれなくても──呼び続ける声がある限り、忘れない者がいる限り。
あの子は、エルナは、もう決して“無”にはならない。
病院の一角、倫理委員会が管理する識別記録台帳──。
それは、極めて無機質な空間だった。
白一色の壁、灰色のカウンター、感情を拒むような冷たい端末。
そこは本来、リザレクテッドやアウロイドの識別と管理のためだけに存在する場所。
“個体”を“データ”として処理するための、機能だけが整えられた空白だった。
その前に、アイカは静かに立っていた。
端末の画面には、ただ一行──
個体識別コード:IAK03643(記録終了)
それだけが、冷たく表示されていた。
「……これだけじゃ、あの子が“いた”って……誰にも伝わらない」
アイカは小さく呟く。
そして、迷いなくカウンターの認証スロットに自分のビーコンを挿入する。
《所有者・関係者による追記申請を確認しました。補足情報の追加を希望しますか?》
機械音声が淡々と問いかける。
アイカは、静かに頷いた。
「……追加する。私が、“あの子の証人”になる」
キーボードに指を添える。
ゆっくりと、確かな意志で打ち始める。
【補足記録】
この個体は、正式名称「エルナ」として存在した。
識別コードではなく、他者との関係性と、自らの意志によってその名を得た。
精神データは損失しているが、確かに“生きていた”個体である。
名を呼ばれ、名を返した存在として──ここに、その証を記す。
記録者:IAK03642(アイカ)
カーソルが最後に点滅している欄に、アイカはもう一度、その名前を記した。
Elna
確定キーを押す。
静かな操作音とともに、画面に一瞬だけ、白い光が走った。
《登録完了。補足情報が記録台帳に保存されました》
無機質な音声が告げる。
けれど、アイカにとって、それで十分だった。
この世界の片隅に──識別コードではない“名前”が刻まれた。
法でも制度でもなく、誰かが誰かを「名前で呼んだ」という、ただそれだけの出来事が、確かな記録として残された。
アイカは小さく目を伏せる。
その肩越しに、アリアがそっと近づいてくる。
「……お疲れさま」
アイカは力の抜けたような笑みを浮かべる。
「うん。でも、これでよかった。誰にも覚えられなくても、誰にも残らなくても……。“ここに、エルナはいた”って。記録にして、伝えていける」
アリアは頷いた。
「名前は、声に出されたときに、初めて命を持つ。だから──呼び続ける限り、その子は、もう消えない」
ふたりの間に、ゆっくりと沈黙が落ちる。
だがその沈黙の中には、確かに灯るものがあった。
それは、もう誰も呼ぶことのないはずだった“名前”。
けれど、それでも呼び続けようと決めた者がいた。
たったひとつの声が──制度の記録を、ほんの少しだけ変えた。




