第7章 『名前が人格になるとき』 (2)
──その瞬間だった。
天井が、音を置き去りにして爆ぜた。
轟音と共に生じた衝撃波が、施設全体を震わせる。
鋼材が軋み、粉塵と破片が白煙とともに空間を覆う。
まるで雨のように降り注ぐそれらの中を、白光が切り裂いた。
天井に開いた巨大な破孔。
その闇の中から、漆黒の影が複数、矢のように降下してくる。
《侵入確認。警戒レベル最大。作戦コード:D4-FR》
《対模倣体拠点、制圧任務開始──》
機械音声が冷たく響く。
通信が断続的に流れる中、マーリスの部隊が即座に反応。
戦術アウロイドたちが無言のまま散開し、敵味方の視線が空中で火花のように交差する。
静寂に覆われていた実験施設は、一瞬にして戦場へと転じた。
「……倫理委員会の連中か」
マーリスが低く呟く。
その声音には動揺の色はなかったが、操作卓に添えた手はすでに動いていない。
直後、書き換え装置が警告音を発しながら強制停止に入る。
接続端子からは青白い火花が散り、脳波リンクが断ち切られた。
エルナの身体がぴくりと跳ねた。
瞼の奥で、壊れかけた精神が最後の抵抗を試みるかのように、震えが走る。
「接続、遮断……だが、間に合わなかったか……!」
研究員の一人が叫ぶ。
パネルには異常を示す赤い警告灯が乱舞していた。
「対象、反応不安定! 精神層が……崩壊し始めています!」
マーリスの目が、再びエルナに向けられる。
だがその瞳には、もう“誰か”を映す焦点がなかった。
「……記憶の深層に、損傷が出ている」
その分析の声をかき消すように、戦場が動いた。
降下してきた倫理委員会の強行部隊が、一斉に火線を展開。
光学バリアを展開したマーリスの戦術アウロイドたちに向け、スタン兵器と限定火器が容赦なく撃ち込まれる。
反撃の熱量と閃光が、室内を怒号のように駆け巡った。
「配置を乱せ! コードZ-Theta、分散制圧でいけ!」
閃光。
振動。
断末魔のような金属音。
誰かの命令が交錯し、誰かの叫びが撃音にかき消される。
混線した情報と衝撃音が混じり合う中で──
ただひとり、エルナだけが沈黙の中に取り残されていた。
崩れた装置の上、コードの残骸に囲まれながら横たわる彼女の瞳は、半ば開いたまま宙を見ていた。
すでにそこに、光を宿すものはない。
意識はばらけ、魂は散りかけていた。
──けれど、その断片の奥で、まだ響いていた。
(……エルナ。あなたの名前だよ)
(……私が……エルナ……)
その声は、誰のものでもなく、自分自身の記憶の奥に灯っていたものだった。
だがそれすらも、やがて遠くなる。
書き換えの波に侵され、遮断の衝撃に引き裂かれ、声は──名は、霧の中へと薄れていった。
戦闘の轟音が、施設全体を地鳴りのように揺らしていた。
廊下のあちこちに閃光弾の残光が揺れ、視界の隅で火花がちらつく。
その中を、アイカは走っていた。
遮蔽物の影を縫うようにして、息を切らしながら──いや、ほとんど本能に突き動かされるままに、ただ前へ。
「……エルナ、どこ……」
声にならないほど喉は焼け、胸の奥では既に“間に合わないかもしれない”という絶望が広がっていた。
それでも足は止まらない。
止められなかった。
爆風で歪んだドアに肩をぶつけるように押し込み、アイカは制御室へと踏み込んだ。
そして──見つけた。
奥の装置。
砕けたガラスの向こう、制御台の中央に。
エルナが、拘束されていた。
「……エルナ……!」
その名を叫ぶと、かすかに反応するように、エルナのまぶたが微かに震えた。
けれど、その瞳にはもう焦点がなかった。
目の奥に宿っていたはずの光は、ろうそくの火のように、今にも消えそうに揺れていた。
「嘘……こんなの、ひどい……」
アイカは駆け寄る。
金属のフレームに囲まれた機構、その中心。
エルナは複数の拘束具に縛られ、頭部にはまだ神経端子が突き刺さったまま。
側面のディスプレイはバグを起こし、警告音が不規則に鳴り響いていた。
表示されるデータは錯乱し、精神層の崩壊を示す赤いインジケーターが点滅している。
「……書き換え装置……もう、始まってたの……?」
アイカの手が震える。
端子に手を伸ばそうとした、そのとき──
後方から、銃撃音が迫った。
マーリス側の戦術アウロイドたちが反撃に転じ、突入口から逆流してくる。
制御室の防衛ラインが崩れかけていた。
それでもアイカは、ひるまなかった。
振り返らず、戦場の喧騒を背に受けながら、彼女はエルナのそばに膝をついた。
壊れかけた機器の隙間から、その手をそっと握る。
「聞こえる? 私だよ、アイカ。エルナ……エルナ、起きて!」
その声に──エルナが、かすかに顔を向ける。
「……アイ……カ……?」
そのか細い声は、遠くから響いてくるようだった。
それでも、名前を呼ばれた瞬間、アイカの目に涙が溢れた。
「来たよ。迎えに来た。今……助けるから──!」
その時だった。
警報音が一段階、鋭く跳ね上がる。
上層から、新たな強行部隊が降下を開始。
倫理委員会の重装チームが、制御室を取り囲むように包囲戦を展開し始めた。
銃火の閃光、炸裂する指令コード、警告灯の赤が混線し、空間を灼く。
だが、それでも。
アイカは、エルナの手を離さなかった。
砕けた金属の冷たさにも、押し寄せる死の気配にも屈せず、名を呼び続ける。
──“彼女”を、まだここに留めるために。
アイカの腕の中で、エルナの身体がかすかに震えていた。
目は開いているのに、その瞳はどこにも焦点を結ばず、空のように透き通っていた。
口元がわずかに動く。
けれど、そこからこぼれるのは、言葉ではなかった。
まるで、夢の中で何かを追いかけるような──遠ざかる記憶の断片が、音にならずに流れていく。
「……わた、し……だれ……が……エル……ナ……?」
その声に、アイカの心が張り裂けた。
「ここにいる……! 私がいるよ、エルナ……アイカが、ここにいる……! 思い出して、お願い……!」
声は震え、涙でかすれていた。
だが、アイカの必死の呼びかけにも、返ってくるのは空虚な瞳と、ただ繰り返される混濁した呟きだけだった。
すぐそばの装置が、異常を示すように断続的なノイズを吐き出している。
中断された精神書き換えの影響で、エルナの意識構造は分断され、人格は崩壊の淵に立たされていた。
データのモニターには、波形の断裂が連続し、“自我断層進行中”の表示が明滅していた。
「こんな……ひどすぎる……」
アイカは唇を強く噛み、涙をこらえるように呼吸を整えると、装置に手を伸ばした。
頭部に深く差し込まれていた神経端子。
そのロックを、一つずつ──慎重に、震える手で解除していく。
「大丈夫……もう誰にも、傷つけさせない……」
端子を抜くたびに、エルナの身体がぴくりと痙攣する。
それでもアイカは手を止めなかった。
首、腕、腰……すべての拘束具を、ひとつひとつ外していく。
最後のバックロックが外れた瞬間、エルナの身体が重力に負けて、前へ崩れ落ちた──
その瞬間、アイカが抱きとめる。
小さく、軽く、そして冷たかった。
それでも、かすかに動く胸の上下が、彼女がまだ“ここにいる”ことを確かに伝えていた。
「エルナ……聞こえてる? 私だよ、アイカ……」
耳元で、震える声で、名前を何度も呼ぶ。
名を呼ぶことが、かつての彼女に繋がる唯一の道だと信じるように。
「戻ってきて……お願い。あんたは、エルナなんだ。誰かの管理番号でも、書き換えられた記号でもない。あんたが、自分の意思で選んだ、たったひとつの──名前なんだ……!」
その言葉に応えるように、エルナの唇が、わずかに動いた。
けれど、その音は意味を成さず、風に溶けて消えていく。
その名が、本当に届いたのか──それとももう、間に合わなかったのか。
その答えが出る前に、再び爆発音が制御室を震わせた。
アイカは反射的に身をかがめ、エルナを守るように抱きしめる。
銃火の音が轟き、戦場はさらに混乱の渦を深めていく。
だが、アイカの耳には、もはや周囲の音は届いていなかった。
その心にあったのは、ただひとつ。
──“エルナ”。
何度でも、何度でも。
崩れゆく意識の向こう側に、届くことを信じて。
彼女は名を呼び続けた。
砕けたガラス片が床を転がる音の奥で、戦闘の轟音がじわじわと近づいてくる。
照明はすでに落ち、制御室を照らしているのは、非常灯の赤だけ。
赤黒い影が空間に伸び、時間の感覚すらゆがませていた。
アイカは、エルナを抱えたまま立ち尽くしていた。
その身体は驚くほど軽く、けれど胸元にかすかに伝わる呼吸の波が、“ここにいる”ことだけを教えてくれていた。
「……大丈夫。今すぐに出れば、きっと……まだ──」
そう言いかけた瞬間だった。
遠くから響いた、甲高い金属音。
続いて、銃声──跳弾が高速で壁を裂き、次の瞬間、アイカの背後から一直線に襲いかかってきた。
「──っ!」
意識が反応するよりも早く、世界が一瞬、白く跳ねた。
何かがアイカの前に飛び込む。
そして──音が弾けた。
風が、血の匂いを運んできた。
その衝撃は、アイカのものではなかった。
腕の中にいたはずのエルナが、ほんの一瞬──。
自分の意思で身体を反転させ、アイカを守るようにその身を差し出していた。
跳弾は、彼女の頭部を深く穿ち、スパークとともに赤い光を散らした。
「エルナ!?」
アイカの声が震えた。
何が起きたのか、理解するより先に──ただ、彼女の身体が崩れるように力を失っていくのがわかった。
それでもエルナは、アイカの腕の中でゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、迷っていなかった。
もう何も恐れていなかった。
崩れかけた記憶、引き裂かれた精神、消えかけた意識の奥で──それでも最後に残った、ただ一つの輪郭。
「……わたし……」
唇が震える。
けれど、その声には、確かな意志が宿っていた。
「……わたし、“エルナ”で……よかった……」
それは風の中のささやきのようにか細かった。
けれど確かに、“誰かの模倣”ではない。
自分で選び、自分で名乗った、“自分としての最期”だった。
アイカの目から、熱い涙が零れ落ちる。
「うん……エルナだよ……最初からずっと……あんたは、エルナだった……!」
エルナの唇が、かすかに微笑みにほころぶ。
その笑みは、これまでのどんな表情よりも静かで、あたたかくて、誰のものでもない“自分”のものだった。
次の瞬間──彼女の身体から、すっと力が抜けていく。
アイカは、崩れ落ちるようなその命を、両腕で強く、強く抱きしめた。
崩れていく記憶の奥で、ただ一つの名を刻み込むように、何度も叫ぶ。
「エルナ……エルナ……エルナ……!」
周囲では、まだ銃声が響いていた。
警報が鳴り、戦場の喧騒が空間を満たしていた。
けれど、アイカにはもう何も聞こえなかった。
世界が崩れていく中で、その名だけが──最後まで、胸の奥で生き続けていた。




