第6章 『わたしの居場所を、もう一度』 (2)
端末のスクリーンに、赤い警告ログが静かに点滅していた。
──識別コード:IAK03642。
登録済みリザレクテッド個体において、同一IDによる二重存在を検出。
時刻は今朝、午前十時。
場所は、校舎内。
「……ありえない」
アリアは手を止め、瞬時に逆解析プロトコルを起動する。
校内ネットワークは高度な防壁に守られており、偽装侵入は容易ではない。
それでも、痕跡は明確に残っていた。
「ビーコンID:IAK03642……同時に、ふたつの信号源」
アリアの瞳が鋭く細められる。
裏ログへとアクセスし、使用されたデバイスの特性コードを精査。
数秒後、画面に表示されたのは──
「……アウロイド由来の電源波形。これは……」
立ち上がったアリアは、部屋の奥にいた少女へと声をかけた。
「アイカ」
名を呼ばれ、少女はすぐに顔を上げた。
「今朝、学校には行った?」
「行ってない。今日は体調確認の日だから、ここにずっといたよ」
アリアは無言で端末を回転させ、ディスプレイをアイカの前に差し出した。
「けど、今朝、“IAK03642”として校舎に入った個体がいた。ログイン記録も、行動パターンも……あなたと完全に一致してる」
アイカはじっと画面を見つめた。
自分の名前で、自分ではない存在が動いている──それはただの偽装ではなかった。
誰かが、「私になろうとしている」。
アリアが静かに口を開く。
「人格模倣体。IDは……IAK03643。あなたの精神データを元に作られたコピー。名前も、記憶も、全部“借りもの”で構成された影……」
言葉が落ちると同時に、部屋には沈黙が満ちた。
アイカは視線を落とし、そっと拳を握った。
静かに、しかし確かな力で。
「……私の記憶で、私を名乗る存在がいる」
目を閉じ、ひとつ息を整える。
「私が、止める」
その声は淡々としていたが、芯のある響きを持っていた。
アリアはその決意にわずかに目を見開いたが、何も言わなかった。
ただ、少女の横顔を見つめる。
その表情には、怒りでも憐れみでもない──それは誓いに似た、深い静けさだった。
部屋を出ても、アイカの足取りは重かった。
けれど、その歩みに迷いはなかった。
背後を、アリアが静かについてくる。
端末を片手に、言葉少なに。
ただ、淡々と歩調を合わせていた。
二人は校舎の奥、地下へと続く階段を下りていく。
目指すのは、構内ネットワークの中枢──サーバーユニットへの直接アクセスルート。
「アイカのビーコンIDに酷似した信号が、今朝の十時から十二時の間に構内で断続的に確認されている」
アリアが端末を見ながら呟くように言った。
「最初に現れたのは1-B教室付近。その後、南棟の資料室前を経由して……最後は西側の裏門。ただし、出口ログは確認できていない」
「逃げたってこと?」
「もしくは、出口の記録自体を残さない手段を使った。構築主が高度な技術を持っているか、もしくは自己調整能力を持った個体。私は後者と見てる」
アイカは小さく頷く。
「……私の記憶を、なぞってる。行動ルートまで」
「だとすれば、次に向かう場所も予測できる」
アリアは立ち止まり、正面からアイカに向き直った。
「確認する。これは“アイカのコピー”だと仮定して……あなたは、どうする?」
アイカは目を伏せた。
答えはもう、形になっていた。
言葉を選ぶまでもない。
「私は、“私のままでいたい”。誰かに、私の名前を奪われたくない」
声は小さかった。
それでも、その震えは決意の証だった。
「その子が“私になろうとしている”なら──私は、ちゃんと言う。“あんたは、私じゃない”って。私の言葉で、はっきりと」
アリアは静かに頷いた。
「それでいい。あなたの名前は、あなた自身が守るものだから」
その一言を受けて、ふたりは再び歩き出した。
少女が、もうひとりの“少女”を追う。
記憶に侵され、名前を奪われる前に。
まだ、自分のことを“私”と呼べるうちに──。
人気のない都市の端。
かつて使われていた工業施設の跡地──剥き出しの鉄骨とひび割れた床が、乾いた風にさらされていた。
誰も来ないその場所に、時間だけが取り残されている。
アイカは、崩れかけた階段を慎重に下り、コンクリートに埋もれた扉の前に立った。
深く息を吸い込む。
空気は埃っぽく、どこか機械油のような臭いが混ざっている。
指先にはじんわりと汗が滲んでいたが、拭おうとはしなかった。
右手を伸ばし、静かにドアを押す。
軋んだ音が響く。
閉ざされた空間に冷たい風が走り、ひんやりとした空気が頬をかすめる。
外の光は届かず、薄暗い空間にぼんやりと明滅する緊急灯だけが天井に残っていた。
そして──その奥に、いた。
一人の少女。
鉄骨の影、倒れたラックの裏に身を隠すように立ち、こちらに背を向けている。
その姿は、時間を止めたかのように動かない。
だが、気配には気づいていた。
ゆっくりと、彼女は振り返る。
その顔。
その髪。
その瞳──まるで、鏡だった。
視線がぶつかる。
沈黙。
誰も声を発さず、空気だけが重く沈んだ。
アイカの心臓が、一拍遅れて脈打つ。
目の前の少女──IAK03643は、自分の記録を忠実に模倣していた。
表情の微細な揺れ、立ち方のバランス、視線の流し方。
すべてが、過去の自分そのまま。
だが、だからこそ──その“完璧さ”が、ひどく冷たかった。
IAK03643もまた、ただアイカを見ていた。
そこにあるのは、敵意でも羨望でもなく、ただの“確認”。
「……来たんだね」
少女が、口を開いた。
アイカは頷かず、視線を逸らさなかった。
「あなたが来ると思って、ここにいた。……記憶の中のあなたが、そうするって言ってたから」
一歩、少女が近づく。
錆びた床材がわずかにきしんだ。
「あなたなら、必ず私を見つけに来るって……私は、それを信じてた」
アイカは静かに口を開く。
「……私の記憶を使って、ここに来たの?」
低く、抑えた声だったが、その奥にある問いは鋭かった。
IAK03643は、ためらいなく頷いた。
「ごめん。でも……あなたの記憶は、私にとって唯一の地図だった。誰かになれる道を探すための……最初の地図」
「地図、ね」
「……私は、“誰でもなかった”から」
その瞬間、アイカの足が一歩、床を鳴らした。
鋭い音が、静けさを断ち切る。
「……だったら」
視線を逸らさず、まっすぐに見据える。
その声は静かだったが、明らかに冷えていた。
「だったら、“私の名前”を使わないで」
IAK03643の目がわずかに揺れた。
「……え?」
「“アイカ”は、私が選んだ名前。あなたが拾っていいものじゃない」
その言葉は柔らかくも、明確な線を引いていた。
自分と“模倣”の境界線。
「記憶を持ってる? 仕草を覚えてる? それで“私になった”つもり?」
IAK03643は何も言わなかった。
ただ、その場に立ち尽くすだけ。
「私は、私を積み上げてきた。“誰か”になりたかったんじゃない。私は、私でいたかった」
アイカの声は、今にも震えそうだった。
でも、絶対に崩してはいけなかった。
ここで揺れれば、自分が自分でなくなる。
だからこそ、言葉は鋭く、静かに放たれる。
「……模倣で、私を上書きしないで」
声が震えそうになるのを、アイカは必死に押しとどめていた。
ほんの一滴でも揺れを許せば、心の輪郭が溶けてしまう気がした。
だから、突き放すしかなかった。
「……あんたが“私”を演じれば演じるほど、私が“私”じゃなくなる気がするんだよ」
IAK03643の唇が、わずかに震えた。
「でも……私には、それしかなかったの」
「知らなくていい。あんたは、“あんた”のままでいればよかったんだよ」
アイカの言葉は鋭かった。
拒絶の色も、怒りの熱も含んでいた。
けれどその奥にあったのは──自分という存在を奪われることへの、剥き出しの恐れだった。
誰にも壊されたくない、自分という唯一の“輪郭”。
IAK03643──名のない少女は、数歩後ずさり、何も言えずにその場に立ち尽くした。
アイカの中でも何かが揺れていた。
けれど、いま崩れてしまえば、もう“私”を名乗れなくなる。
だから、言葉を投げるしかなかった。
「……あなたが、“私”」
まるで祈るような、細く震える声。
アイカは立ち止まり、静かに答えた。
「……あんたは、私じゃない」
その声に冷たさはなかった。
ただ、迷いがなかった。
IAK03643の肩が小さく揺れる。
けれどなおも、言葉をつなごうとする。
「記憶も……痛みも、全部ある。私は、あなたを知ってる。何を思って、何を怖がって、誰を──好きだったか。私は……あなたになれる」
その声には、必死な切実さが滲んでいた。
だがそれは、“なりたい”という希望ではなく、“ならなければならない”という焦り。
つまりは──喪失を恐れる声。
アイカは一歩、二歩と前へ進む。
その眼差しはまっすぐに、もう一人の自分に向けられていた。
「“誰かになる”ことが、生きることじゃない」
IAK03643が、言葉を失う。
「私は、私を選んだ。誰かに呼ばれてた名前でも、与えられた記憶でもなく、“自分”ってものを、自分の手でつかみたかった。だから……私は、私」
IAK03643の唇が、かすかに震えた。
「じゃあ……私は……ただの模倣で……壊されるだけの存在なの?」
その声は拒絶ではなかった。
否定されること──存在の痕跡すら奪われることへの、静かな恐怖だった。
アイカは一瞬、目を閉じた。
そして──そっと、手を差し出した。
「違うよ。あんたは、“私”にはなれない。でも、“あんた”として、生きていい。そのための名前を……今、あげる」
そっと目を開き、はっきりと告げた。
「──エルナ」
空気が、わずかに揺れた。
その名が響いた瞬間、IAK03643の瞳に淡い光が灯る。
「……エルナ……それが、私の……名前……?」
繰り返すように、確かめるように。
アイカは頷いた。
「そう。“あんたになる”ための、出発点だよ」
エルナは、小さく息を呑む。
そして──かすかに笑った。
それは、誰かの模倣ではなかった。
彼女自身の、たったひとつの、本当の感情だった。




