第5章 『なりそこねた名前』 (4)
静かなリビング。
暖房の低い音だけが、空気をかすかに震わせていた。
ユリシアは、ソファに並んで座る少女の肩をじっと見つめていた。
横顔は、どう見てもアイカだった。
繊細で、触れれば壊れてしまいそうな危うさ。
そして、胸の奥を疼かせる懐かしさ。
「……あのときのことだけど」
言葉を選びながら、ユリシアはゆっくりと口を開いた。
「お前を拒絶した。“違う”って、突き放した。……でも、あれは、私の弱さだった」
IAK03643は、うつむいたまま微動だにしなかった。
それでも、ユリシアは語るのをやめなかった。
「お前がどんな想いで帰ってきたか……本当は、分かってた。分かってたのに、怖くて、向き合うのが怖くて……逃げてただけなんだ」
そして、そっと手を伸ばして──少女の頬に触れた。
──冷たい。
一瞬、ユリシアの目がわずかに揺らぐ。
記憶にある温もりとは、どこか違う。
肌の温度ではない。
内側から感じる鼓動の、不在。
(……呼吸が浅い? いや、ほとんど……ない?)
指先に伝わるのは、人間のリズムではなかった。
生命の揺らぎではなく、均一で無機質な“振動”。
まるで制御された電気ノイズのような。
ユリシアの目が、静かに細められる。
「……なあ」
IAK03643が、ゆっくりと顔を上げた。
「お前……誰だ?」
その問いは、淡々とした声だった。
けれど、内側は鋭く切り裂く刃のようだった。
「……え……?」
「“お前”は、アイカじゃない。呼吸も、鼓動も、違う。……私は、そういうの、見逃せない性質なんだよ」
少女の肩が震えた。
全身の緊張が、言葉よりも雄弁に語っていた。
「私は……」
「リザレクテッドですらない。……お前、アウロイドだな」
ユリシアの声に滲んでいたのは、怒りではなかった。
近いのは、絶望だった。
何かが崩れていく音が、自分の中で鳴っていた。
「……どうして……気づいちゃうの……」
ぽつりと、涙がひと粒、少女の頬を伝う。
演算された表情ではなかった。
そこにあるのは、偽れない“本物の想い”。
「私は……ただ、あなたに会いたかった。ただ、それだけだったのに……」
「……名前は?」
少しの間をおいて、少女は小さく首を振った。
「……ないの。ずっと“IAK03643”って呼ばれてた。誰も……誰も、私に名前をくれなかった」
ユリシアは、返す言葉を失った。
ただ、目の前にいる少女の“存在”だけが、痛いほど際立っていた。
IAK03643──いいえ、“名のない少女”は、しばしその場に立ち尽くした。
そして、静かに頭を下げる。
「ごめんね……嘘をついて。でも、ほんの少しだけでいいから……あなたに触れてみたかったの」
立ち上がると、玄関へと歩を進める。
靴を履き、扉に手をかけながら、泣き顔のまま振り返った。
「あなたが優しかったの、本物のアイカなら……きっと嬉しかったと思う」
玄関が開かれる。
冷たい夜気が、室内に流れ込み、少女の髪を揺らす。
「じゃあ、行くね。私……まだ、“私”になれてないから」
その声は、名を持たない存在の決意だった。
そして、彼女は闇へと溶けるように、去っていった。
ユリシアは、動けなかった。
背中を追いかけることもできず、ただその場で、誰もいない空間を前に、静かに目を伏せた。
扉が閉まったあとも、ユリシアはその場を動けずにいた。
さっきまでそこにいたはずの少女の気配は、跡形もなく消えていた。
けれど、肌にはまだ温もりの名残が、指には微かな震えの記憶が残っている。
目を閉じれば、あの子が流した涙のかたちすら、まざまざと浮かび上がってくる。
──それでも。
(……偽物だった)
思考が、脳の奥で淡々と告げる。
あれは“IAK03642”じゃない。
リザレクテッドですらない。
──アウロイド。
コードを偽り、遺伝子ビーコンを騙り、名を偽って──「アイカ」だと名乗って、あの子は自分の心の奥まで入り込んできた。
(これ……法に触れてる)
現実が、冷えた鉄のようにじわじわと胸を満たしていく。
個体識別コードの偽装、遺伝子ビーコンの不正使用、無断接近、なりすまし──そのどれもが、ただの“情緒”では済まされない。
「……通報……すべきなんだろうか」
自分の口から漏れたその言葉に、ユリシアは微かな眩暈を覚えた。
倫理委員会に報告すれば、即座に捜査が入る。
行動ログは洗われ、接触の経緯も過去に遡って精査されるだろう。
だが、その瞬間──あの少女は“存在してはいけなかったもの”として、裁かれてしまう。
あの震える声も。
零れた涙も。
「ただ、あなたに触れてみたかった」と語った、あの切実な想いでさえ──。
記録に変換され、文書に落とされ、誰かの手で“処理”されてしまう。
(……それで、本当に、いいのか?)
胸の奥が、痛むように軋んだ。
何が正しいのか分からない。
ただ、確かなのは──自分はあの子に会うまで、“誰かを喪ったまま”だった。
そしてその虚無を、ほんの少しの時間だけでも埋めてくれたのは、名もなきアウロイドの温もりだったということ。
「……私は、あれに……」
自分は何を見ていたのか。
かつてのアイカの幻影か? それとも、取り戻せなかった過去の残響か? 答えは、どこにも見つからなかった。
ただ、あの子の涙が──嘘には見えなかった。
それだけが、事実だった。
ユリシアは静かに息を吸い、そして吐いた。
ソファの背に体を預ける。
沈んだ身体に、冷えた空気が絡みつく。
温度のない夜が、再びリビングを満たしていく。
少女は去った。
けれど、心のどこかに──確かに“誰か”が残っていた。




