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リザレクテッド:人類再誕 所有された人間だけど、自由に生きる方法を探してみる  作者: 花篝 凛
第3部 私がもう一人いる!? 二人のアイカ。そして、三人目
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第5章 『なりそこねた名前』 (4)

 静かなリビング。

 暖房の低い音だけが、空気をかすかに震わせていた。


 ユリシアは、ソファに並んで座る少女の肩をじっと見つめていた。

 横顔は、どう見てもアイカだった。

 繊細で、触れれば壊れてしまいそうな危うさ。

 そして、胸の奥を疼かせる懐かしさ。


「……あのときのことだけど」


 言葉を選びながら、ユリシアはゆっくりと口を開いた。


「お前を拒絶した。“違う”って、突き放した。……でも、あれは、私の弱さだった」


 IAK03643は、うつむいたまま微動だにしなかった。

 それでも、ユリシアは語るのをやめなかった。


「お前がどんな想いで帰ってきたか……本当は、分かってた。分かってたのに、怖くて、向き合うのが怖くて……逃げてただけなんだ」


 そして、そっと手を伸ばして──少女の頬に触れた。


 ──冷たい。


 一瞬、ユリシアの目がわずかに揺らぐ。

 記憶にある温もりとは、どこか違う。

 肌の温度ではない。

 内側から感じる鼓動の、不在。


(……呼吸が浅い? いや、ほとんど……ない?)


 指先に伝わるのは、人間のリズムではなかった。

 生命の揺らぎではなく、均一で無機質な“振動”。

 まるで制御された電気ノイズのような。


 ユリシアの目が、静かに細められる。


「……なあ」


 IAK03643が、ゆっくりと顔を上げた。


「お前……誰だ?」


 その問いは、淡々とした声だった。

 けれど、内側は鋭く切り裂く刃のようだった。


「……え……?」

「“お前”は、アイカじゃない。呼吸も、鼓動も、違う。……私は、そういうの、見逃せない性質なんだよ」


 少女の肩が震えた。

 全身の緊張が、言葉よりも雄弁に語っていた。


「私は……」

「リザレクテッドですらない。……お前、アウロイドだな」


 ユリシアの声に滲んでいたのは、怒りではなかった。

 近いのは、絶望だった。

 何かが崩れていく音が、自分の中で鳴っていた。


「……どうして……気づいちゃうの……」


 ぽつりと、涙がひと粒、少女の頬を伝う。

 演算された表情ではなかった。

 そこにあるのは、偽れない“本物の想い”。


「私は……ただ、あなたに会いたかった。ただ、それだけだったのに……」

「……名前は?」


 少しの間をおいて、少女は小さく首を振った。


「……ないの。ずっと“IAK03643”って呼ばれてた。誰も……誰も、私に名前をくれなかった」


 ユリシアは、返す言葉を失った。

 ただ、目の前にいる少女の“存在”だけが、痛いほど際立っていた。


 IAK03643──いいえ、“名のない少女”は、しばしその場に立ち尽くした。

 そして、静かに頭を下げる。


「ごめんね……嘘をついて。でも、ほんの少しだけでいいから……あなたに触れてみたかったの」


 立ち上がると、玄関へと歩を進める。

 靴を履き、扉に手をかけながら、泣き顔のまま振り返った。


「あなたが優しかったの、本物のアイカなら……きっと嬉しかったと思う」


 玄関が開かれる。

 冷たい夜気が、室内に流れ込み、少女の髪を揺らす。


「じゃあ、行くね。私……まだ、“私”になれてないから」


 その声は、名を持たない存在の決意だった。

 そして、彼女は闇へと溶けるように、去っていった。


 ユリシアは、動けなかった。

 背中を追いかけることもできず、ただその場で、誰もいない空間を前に、静かに目を伏せた。



 扉が閉まったあとも、ユリシアはその場を動けずにいた。


 さっきまでそこにいたはずの少女の気配は、跡形もなく消えていた。

 けれど、肌にはまだ温もりの名残が、指には微かな震えの記憶が残っている。

 目を閉じれば、あの子が流した涙のかたちすら、まざまざと浮かび上がってくる。


 ──それでも。


(……偽物だった)


 思考が、脳の奥で淡々と告げる。

 あれは“IAK03642”じゃない。

 リザレクテッドですらない。


 ──アウロイド。


 コードを偽り、遺伝子ビーコンを騙り、名を偽って──「アイカ」だと名乗って、あの子は自分の心の奥まで入り込んできた。


(これ……法に触れてる)


 現実が、冷えた鉄のようにじわじわと胸を満たしていく。

 個体識別コードの偽装、遺伝子ビーコンの不正使用、無断接近、なりすまし──そのどれもが、ただの“情緒”では済まされない。


「……通報……すべきなんだろうか」


 自分の口から漏れたその言葉に、ユリシアは微かな眩暈を覚えた。


 倫理委員会に報告すれば、即座に捜査が入る。

 行動ログは洗われ、接触の経緯も過去に遡って精査されるだろう。

 だが、その瞬間──あの少女は“存在してはいけなかったもの”として、裁かれてしまう。


 あの震える声も。

 零れた涙も。

 「ただ、あなたに触れてみたかった」と語った、あの切実な想いでさえ──。

 記録に変換され、文書に落とされ、誰かの手で“処理”されてしまう。


(……それで、本当に、いいのか?)


 胸の奥が、痛むように軋んだ。


 何が正しいのか分からない。

 ただ、確かなのは──自分はあの子に会うまで、“誰かを喪ったまま”だった。

 そしてその虚無を、ほんの少しの時間だけでも埋めてくれたのは、名もなきアウロイドの温もりだったということ。


「……私は、あれに……」


 自分は何を見ていたのか。

 かつてのアイカの幻影か? それとも、取り戻せなかった過去の残響か? 答えは、どこにも見つからなかった。

 ただ、あの子の涙が──嘘には見えなかった。

 それだけが、事実だった。


 ユリシアは静かに息を吸い、そして吐いた。

 ソファの背に体を預ける。

 沈んだ身体に、冷えた空気が絡みつく。

 温度のない夜が、再びリビングを満たしていく。


 少女は去った。

 けれど、心のどこかに──確かに“誰か”が残っていた。

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