第4章 『繋がる遺伝子、失われる記憶』 (3)
休日の午後。
リビングの窓辺からはやわらかな光が差し、淡いカーテンの揺れが部屋に静かなリズムをもたらしていた。
ローテーブルの上では、湯気の立つ紅茶がゆっくりと香りを広げている。
ユリシアはソファに腰掛け、革張りの古書をめくっていた。
向かい側では、アイカが果物の皮を丁寧に剥いていた。
何の変哲もない、穏やかで平和な時間。
ふと、ユリシアが小さくつぶやいた。
「……このあたりに、昔、小さな書店があったんだ。個人経営の、小さな古本屋さんでね」
その瞬間だった。
アイカの手が止まり、顔がふと上がる。
目の奥に、わずかな光が走った。
「“ルリエ書房”、ですよね? 白い木の看板に、手描きの金色の文字……ガラス戸はちょっと開けにくくて、開けるとカランって、音が鳴って……」
声が、自然にあふれた。
アイカ自身も止められないような調子で、言葉が次々にこぼれ落ちていく。
「……詩集の棚、覚えてます。陽が差す午後は、そこだけ柔らかく光ってて。奥の方の書架には埃がたまってたけど、不思議と居心地よくて……」
ユリシアの指が、ページの途中で止まった。
目線は本に落ちたまま、視線だけが静かにアイカへと移っていく。
「“透明な空の中で”って詩集、上の段にあって、私じゃ手が届かなくて……ユリシアさんが、いつも取ってくれてた。あのときの手のあたたかさ、今でも忘れてません」
言い終えたあと、アイカはようやく自分の声を意識したように沈黙した。
そして、静かに俯いた。
手元の果物に視線を落とし、震える指先を見つめる。
(どうして……こんなにも、はっきりと思い出せるの……?)
そのとき、ユリシアがそっと本を閉じ、立ち上がった。
無言のままテーブルを回り込み、アイカの正面に膝をつく。
そして、低く、優しく、それでいて鋭く告げた。
「その書店のこと──私は、お前に話したことはない」
アイカの瞳が、大きく揺れる。
「……え……?」
「ルリエ書房に一緒に行ったのは、IAK03641。あの子だけだ。書架の並びも、詩集の位置も、あの店の空気も──お前とは、一度も共有していない」
その声に怒りはなかった。
むしろ、静けさの奥に、確信のような冷たさがあった。
アイカの喉がひくりと動く。
言葉を紡ごうとするが、息だけが漏れる。
胸の奥に、ゆっくりと、確かな重みが沈んでいく。
「ち、違うんです……私は……」
声が震えた。
言葉が霞んで、行き場をなくす。
(説明できない……どうして思い出したのか、私にも分からないのに……)
言い訳にもならないその声が、宙に溶けかけたとき──ユリシアはそのまま、そっとアイカの手に触れた。
その温度だけが、言葉よりも早く、アイカの心に届いていた。
ユリシアは、黙ってアイカを見つめていた。
その瞳は、いつもより深く濃く、迷いと痛みを奥底に沈めて揺れていた。
「……お前の中にいるのは──IAK03641。そうなんだろう?」
その言葉は、糾弾ではなかった。
問いでもなかった。
ただ、認めざるを得ない静かな事実の確認だった。
アイカは、小さく息を呑んだ。
唇がかすかに震え、でもすぐに言葉がこぼれる。
「でも私は……ユリシアさんを、ちゃんと愛してる。今、ここにいる私は、嘘じゃない……」
「……分かってる。きっと、そうなんだと思う」
ユリシアはゆっくりと頷いた。
声がわずかに震え、唇を噛むようにしてその言葉を押し出す。
「お前が“いまここにいる”こと……お前の想いが、本物であることも……信じてる」
それでも、と言葉が続く前に、ユリシアの表情に影が落ちる。
「でも……私が愛していたのは、IAK03642だった。名前も、姿も、声も同じ。でも……お前が話す言葉の中には、“あの子が知らないはずの記憶”がある。まるで、懐かしそうに語る、あの子の人生じゃない誰かの思い出が……混ざってる」
アイカの手が、膝の上でかすかに震えた。
その言葉は、自分が“誰か”でも“誰かの代わり”でもなく、“誰でもない”のかもしれないという事実を突きつけてくる。
「……ユリシアさん、私……ただ、愛されたかっただけなのに……」
その言葉に、ユリシアの肩が、わずかに揺れた。
「……私もだよ」
かすれるような声だった。
彼女はそっと、目元を手で覆う。
次の瞬間、頬を伝う涙がぽたりと膝に落ちた。
「私も……もう一度、あの子に会いたかった。触れて、笑って、名前を呼びたかった。……それだけを、ずっと、ずっと願ってたのに……」
声が震えた。
けれど止められないまま、堰を切るように続く。
「でも、こうして“戻ってきた”お前を見ていると……どうしても、心が叫ぶ。“あの子じゃない”って。私の中に残ってる、ずるくて浅ましい、でも本物の痛みが、そう叫ぶ」
言葉は責めではなく、限界の告白だった。
ユリシアの瞳から流れ落ちた涙が、手の甲を濡らす。
「お前を、拒絶したかったわけじゃない……でも、お前を見るたびに、あの子の“消えた重み”が呼び戻される……」
アイカは顔を伏せた。
小さな音を立てて、むきかけの果物の皮がテーブルから落ちた。
ユリシアは泣きながら、それでも微笑もうとした。
けれど、その笑みは痛みに歪み、うまく形にならなかった。
「ごめんなさい……でも、お前を傷つけてしまうなら……私は、もう……」
その声は、拒絶ではなかった。
壊れていく絆にすがりきれない、人間の限界の音だった。
アイカは静かに、膝をついた。
その手は、ユリシアへと伸びかけて、しかし届かず、空中で止まった。
目の前にいる人の温もりすら、もう触れられない場所にあるような気がしていた。
ふたりの間に流れていたものは、もはや言葉では繋ぎとめられなかった。
かつて愛されたことと、今ここにある存在と、その間にある“喪失”。
静かなリビングの中で、ふたりはそれぞれの痛みを、黙って抱え続けていた。




