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リザレクテッド:人類再誕 所有された人間だけど、自由に生きる方法を探してみる  作者: 花篝 凛
第3部 私がもう一人いる!? 二人のアイカ。そして、三人目
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第3章 『罪の構造』 (3)

 午後の陽射しが、中庭に穏やかに差し込んでいた。

 木漏れ日のリズムがベンチを撫で、風に揺れる葉の音だけが、静かな時間を刻んでいる。


 その片隅──。

 制服に袖を通したアイカが、ひとりベンチに腰掛けていた。


 姿勢は整っていた。

 微笑みも、呼吸も、乱れはない。

 一見すれば以前と何も変わらないその姿。

 けれど、彼女の内側には、確かに新しい何かが芽吹いていた。


「アイカ!」


 軽やかな声が響く。

 振り向くと、アリアがいた。

 銀のボブカットにサイドテール。

 以前と変わらぬ笑顔と、まっすぐな足取り。

 彼女は迷いなくベンチに近づき、すぐそばにしゃがみ込む。


「学校、しばらく休んでたよね。……大丈夫? 何かあったの?」


 その声には、探るような色はない。

 ただ純粋な“心配”だけが宿っていた。

 アイカはまばたき一つ。

 それから、ふっと微笑んだ。


「はい。大丈夫です。検査も無事に終わりました」


 アリアは大きく息を吐き、頬を緩める。


「……よかった。本当によかった」


 その安堵は真っ直ぐで、あまりに真っ直ぐすぎて、アイカはほんの一瞬だけ目を伏せた。


(でも私は、“戻ってきた”わけじゃない)


 融合──IAK03641の記憶と自分自身。

 そしてマーリスとの秘密の契約。

 アリアはまだ何ひとつ、それを知らない。


「……表情も、すごく自然。なんだか、前より自信がある感じがするよ」


 そう言って微笑むアリアの瞳は、変わらず優しかった。

 そのまなざしに、アイカはほんの一瞬だけ、呼吸が止まったように感じた。


「……私、変わったように見えますか?」

「うん。……でも、いい意味で。たぶん、いろんなことを乗り越えたんだよね」


 アイカはうなずく。

 表情は柔らかい。

 けれどその内側では、いくつもの言葉が喉の奥で浮かび、そして飲み込まれていた。


(先生。私は……もう、“前の私”には戻れません)


 それでも彼女は笑った。

 微笑みながら、いつもの声で応える。


「じゃあ、また“前の生活”に戻れるね。学校も、サロンも……私も、少しは頼っていい?」


 アリアの言葉は、何気ない希望のように聞こえた。

 けれど、アイカは一瞬だけ、返事に迷いが生じた。

 心のどこかで、その“前の生活”はもう戻らないと知っていたからだ。


 それでも、彼女は笑顔を崩さずに言った。


「……はい。今まで通り、きちんとやります」


 その言葉に、嘘はなかった。

 だが、それが“すべて”でもなかった。


 アリアはそれに気づかない。

 あるいは、気づいても、問いただすことはしなかった。


 けれどアイカの中では、確かにひとつ、何かが静かに遠ざかっていた。

 数秒の沈黙のあと、アイカは言った。


「……私、ユリシアさんの元に戻ろうと思います。正式に、所有者としての申請を出したいんです」


 アリアの表情に、大きな動揺はなかった。

 ただ、ゆっくりと彼女の瞳を見つめ返す。


「理由は……聞かないほうがいい?」


 その問いに、アイカは小さく頷いた。

 わずかにこわばったその頷きには、それでも揺るぎのない意志が宿っていた。


「……ごめんなさい。全部は言えません。でも、私なりに考えて……選びました」


 アリアはその言葉を、そっと胸に受け取った。

 無理に開かせようとはしなかった。

 ただ、少しだけ目を細め、優しく頷く。


「分かった。申請の手続きは、私から通しておく。君がそう決めたなら、私は止めないよ」


 アイカの肩から、すっと力が抜ける。

 それを見て、アリアの胸には微かな痛みが残った。

 けれど、彼女はそれを表に出さず、優しく語りかけた。


「……でも、一つだけ約束して。どこで暮らしても、誰のもとにいても、“自分で考えること”を手放さないで」


 その言葉に、アイカはきゅっと唇を結び、しばらく黙っていた。

 そして──ゆっくりと頷く。


「……はい。約束します」


 アリアは立ち上がり、そっと彼女の頭に手を置いた。

 その掌は温かく、どこまでも優しかった。

 責めることも、縛ることもない、ただ見守る人の手だった。


「君が安心できる場所で、生きてくれたら、それでいい」


 日差しが、木の隙間から差し込んでいた。

 その光の中で、アイカは遠くを見つめていた。


 ──IAK03641と融合した記憶。

 ──マーリスとの契約。

 ──そして、これから先の選択。


 彼女は、すべてを語らなかった。

 けれどその分、“演じること”を、自分の手で選んだ。

 もう誰かの代わりではない。

 “私”という役を、自分で決めた。


 それは嘘ではない。

 ただ、守りたい真実を抱いた演技だった。



 再割り当ての手続きが完了し、アイカは再びユリシアの家の前に立っていた。

 扉が開いた瞬間、懐かしい香りが頬を撫でた。

 甘く、やわらかく、どこか眠気を誘うような気配。

 そこに在るのは、変わらぬ空間だった。

 変わらぬ時間の続きだった。


 そしてその香りの奥で、ユリシアは待っていた。

 まるでこの瞬間を、ずっと胸の奥で繰り返し描いていたかのように──静かに、しかし確かに、そこに立っていた。


 言葉はなかった。

 ただ微笑みながら、ユリシアは手を差し伸べた。


「……おかえり、アイカ」


 その声の響きは、優しさと安堵と、ほんの僅かな哀しさを帯びていた。

 アイカは軽くうなずき、靴音を忍ばせて玄関をくぐる。


 リビングへと誘われると、ユリシアは何も言わずアイカの肩に手を添えた。

 そのまま、やさしく背中を引き寄せる。


「……こうして、またお前に触れられるなんて。夢のようだ」


 囁くような声が、少しだけ震えていた。

 アイカは戸惑いを隠しながらも、そっとその胸元に頬を寄せた。


 肌を透して伝わる体温。

 ぬくもりの奥にある、かつての記憶。

 安心のようで、どこか現実から遠ざかるような感覚が、体を包んでいく。


 やがて、ユリシアは指先で髪をすくい、アイカの顔を覗き込んだ。


「……少しだけ、変わった気がする」


 アイカの心臓が、一度だけ強く跳ねた。

 だが、表情には何も出さなかった。


「……環境の変化かもしれません。でも私は、ずっとユリシアさんの“アイカ”です」


 ユリシアは穏やかに笑った。

 そしてそのまま、そっと額に唇を落とす。


「ええ。信じてる。──たとえあなたが、どんなふうに変わっていても。私は、“今ここにいるあなた”が、愛おしい」


 アイカは何も答えなかった。

 ただ、静かにその胸元に身を預けた。

 秘密を抱えたままでも、ここにいられる場所。

 それが“演じる日常”だったとしても──今は、それでもいいと思った。


 けれど、そのぬくもりの奥で、心の奥底にわずかなざわめきが残っていた。

 気づかれているかもしれない。

 けれど、気づかれていても、拒まれないかもしれない。

 その曖昧な確信は、恐れではなく、どこか安心にも似た奇妙な静けさをもたらしていた。


 アイカはそっと目を閉じる。

 ユリシアの腕の中で、まだ名前のつかない関係に身を沈めながら──。

 その先に待つものを、考えないようにしていた。



 週末の午後。

 街の外れにある人工湖の公園は、薄曇りの空の下、静かに水面をたゆたわせていた。

 風は凪いでいて、葉擦れさえも聞こえない。

 その静寂の中に、少年少女たちの声が淡く重なっていた。


「アイカさん、それ反則でしょ。どう見ても甘やかされに行ってるじゃない」


 芝生の上に寝転がったレインが、眩しそうに空を見上げながら呆れた声をあげる。

 アイカは胸元に手を置き、どこか演劇めいた仕草で微笑んだ。


「いいのよ。私はね、ユリシアさんに溺れるために生きてるの」


 その響きは詩のようで、どこか夢見るようでもあった。

 アリアがすぐ隣で肩をすくめる。


「……そうやって甘やかされ癖つけておくと、肝心なときに倒れるからね」


 それを言いながら、手にはサンドイッチの皿を持っていた。

 リースが一つつまみ、無造作にかじる。


「んー……あれ? これ、美味しい」

「“あれ?”って何よ」

「いや、なんかアリアって何でも器用だけど、料理は雑そうっていうか」

「……解剖と料理って、構造的にはほとんど同じだから」

「サイコ系家庭科やめて……」


 呆れ半分の笑い声とともに、アリアは真顔のままジュースの缶を開ける。

 その音が、昼下がりの空気にかすかに響いた。


 少し離れたベンチでは、レインがポータブル端末を弄っていた。

 ふと見せた画面には、先ほど撮った写真。

 青みがかったフィルターに、四人の姿がぼんやりと浮かんでいる。


「これ、いい感じじゃない? “人間の休日”ってタグつけたらバズるかも」

「やめなよ、炎上しそう」


 アイカが苦笑しながら言うと、レインは肩をすくめる。


「むしろ普通の写真で押し切るのがコツ。ね、リース。もうちょっと寄って」

「……え、私も写るの?」

「当然。逃げないで」

「顔が変だったらやだ……」

「大丈夫。演出と補正で全体的にごまかせるから」

「それ、最低のフォロー……」


 そう言いながらも、リースはアリアの隣にそっと寄って座る。

 四人の距離が、また少しだけ近づいていく。


 しばらくして、アイカがぽつりと呟いた。


「……こういう時間が、ずっと続けばいいのに」


 一瞬だけ、空気が揺れる。

 誰もすぐには答えなかった。

 芝の上をかすかに風が撫で、誰かの髪が揺れた。


「続けたいなら、守らなきゃ」


 その言葉を投げたのはアリアだった。

 肩肘張らない口調。

 でも、どこかで本気の響きが混じっていた。

 返す言葉はなかった。

 ただ、小さな沈黙がそこに降りてきた。

 先のことは、誰にも分からない。

 けれど──今このときだけは、たしかに彼女たちのものだった。


 人工湖のほとりで、曖昧な季節の境目に寄り添いながら、四人の少年少女は、静かに“日常の午後”を過ごしていた。

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読んでくださって、ありがとうございます。特に全話読んでくださっている方、大変ありがたいです。
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