第2章 『名前の奥にあるもの』 (4)
次の日の昼休み、食堂近くの廊下で、アリアはアイカに声をかけた。
「アイカ、ちょっといい?」
「はい。なんでしょうか、アリア先生」
振り返ったアイカの顔は、理想的に整った穏やかさを湛えていた。
だがその微笑の奥に、“何かを削ぎ落とした”ような静けさがあった。
アリアは一瞬、言葉を失いかける。
けれど、そのまま優しく問いかけた。
「……無理はしてない?」
アイカは小さく目を見開いた。
けれどすぐに、またあの“整った笑み”を浮かべて答える。
「私は大丈夫です。……今の私は、間違いを起こさないようにできていますから」
その言葉が持つ“整いすぎた重さ”が、アリアの胸の奥へと沈んでいく。
(その完璧さこそが、一番“危うい”のかもしれない……)
アリアは職員室に戻ると、日誌のページを開き、しばらく躊躇したあと──はじめて、記録欄にある一文を残した。
《IAK03642:現状安定。しかし、心理的乖離の兆候あり。観察継続を推奨。》
それは他の誰にも見られない、アリア自身のための小さな警告だった。
“安定”の中に潜む、不安定の気配に気づいた者だけが、心の奥に密かに刻む印。
それは、アイカの“完璧な日常”の中にある、ひとつの危機の始まりだった。
放課後のサロンは、柔らかな午後の光に満たされていた。
窓際に並ぶ植物が優しく揺れ、静かなクラシックが空気の隙間を漂う。
小さなグループがあちこちで談笑し、ゆるやかに時間が流れていた。
その一角。
リースとアリアは並んでソファに腰掛け、ひとつの端末をのぞき込んでいた。
「ほんとにこれ、あのときの映像? うそ、寝癖こんなだったの……!? ひどい、笑える……!」
リースが肩を揺らして笑い、アリアも珍しく口元をゆるめた。
「記録として残しておく価値はあると思って。立体構造的にも、非常に興味深かったんだよ?」
「からかわないでよっ!」
軽やかな声が弾け、周囲の空気も自然とほぐれていく。
近くの生徒が、思わず微笑みながら視線を送る。
笑い声と陽の光のなかで、ささやかな幸福が確かに息づいていた。
──ただ一人、その空間の端に取り残された者を除いて。
少し離れた席に、アイカがいた。
机にはノートが開かれ、手にはペン。
だがその筆先は、ページの上で止まったままだった。
白紙のページと、凍りついた彼女の手元。
視線はソファの方へ。
けれど、誰の目にも気づかれないように。
──笑ってる。
──あんなふうに、自然に。
自分も、あんなふうに笑っていたことがあっただろうか?今の自分が見せる笑顔は、本当に“自分”のものだろうか?
(それは……あの子の模倣じゃないの?)
心に、冷たいものがじわりと流れ込んでくる。
自分が存在する意味、自分という輪郭の正体。
すべてが、少しずつぼやけていく。
手が震えていた。
胸の奥から、何か黒いものがこみ上げてくる。
「……やめてください!」
その声は、まるで音を置き去りにするようにサロンの空気を裂いた。
ざわめきが止まる。
リースも、アリアも、周囲の生徒たちも、一斉に視線を向けた。
アイカは立ち上がっていた。
肩を震わせ、頬には涙がにじんでいた。
「そんなに楽しそうにしないでください……! 先生が、誰かと、あんな……!」
言葉が詰まり、喉がかすれる。
それでも止まらなかった。
「私は、先生のために……“誰かの代わり”じゃないって思ってもらうために、がんばってきたのに……! なのに、どうして……どうして……!」
リースが困惑したようにアリアを見た。
アリアは静かに立ち上がり、一歩、アイカに近づく。
「アイカ──」
「こないでっ!」
その叫びは、拒絶というより、崩れそうな自分を守るための悲鳴だった。
「……先生は、私を“今の私”として見てくれてるって……信じたかった……。でも、笑ってたじゃないですか……誰かと。私じゃない誰かと……」
涙が、頬を伝って落ちた。
アイカはそのまま背を向けて、サロンを走り出す。
誰も追うことができなかった。
足音だけが、床を強く叩いて、遠ざかっていった。
その場に残されたアリアは、しばらく立ち尽くしていた。
驚きも、動揺もなかった。
ただ、静かに胸の奥へ沈んでいくものがあった。
理解。
後悔。
……そして、痛み。
リースもまた、何も言えなかった。
ただその目に焼きついたアイカの涙と、沈黙に沈むアリアの横顔を、忘れることができなかった。
夜。
部屋の中は、ひとすじの光も差し込まなかった。
倫理委員会の保護室。
遮光カーテンは閉ざされ、照明は消えたまま。
スイッチに手を伸ばす気力すら、アイカには残っていなかった。
制服のまま、ベッドの端に腰を下ろす。
膝を抱え、顔を埋める。
背中は丸まり、小さな肩がかすかに震えていた。
(……どうして、あんなことを)
胸の奥が焼けつくように痛む。
サロンで叫び、涙をこぼした自分の姿が、頭の中を何度も巡る。
まるで壊れた映写機のように、記憶が繰り返し再生される。
(模範的に。冷静に。それだけを守ってきたのに)
そうすれば、自分も“誰かの代わり”じゃなくなると思った。
自分だけの価値が、そこに生まれると信じていた。
けれど、壊れてしまった。
抑えきれず、感情をぶちまけてしまった。
(私は……いったい、何を守っていたの?)
脳裏に蘇るのは、自分の叫んだ言葉。
「先生のために、がんばってたのに……!」
その一言の、なんと幼く、なんと未熟な響きか。
思い出すたびに、喉が詰まり、胸の奥がきゅっと痛む。
「……消えちゃいたい」
暗闇にぽつりとこぼれた声が、自分自身に跳ね返ってくる。
誰にも届かない、小さな願い。
ただの祈りのかけら。
そのとき、ふいに──一つの名前が、脳裏をよぎった。
IAK03641。
「……私の、原型」
あの子は──私よりも、ずっと上手に生きられていたのかもしれない。
感情に流されず、誰かに縋らず、静かに“最初”として愛された存在。
私は、その“残像”をなぞるだけの、代用品にすぎないのか。
アイカはゆっくりと立ち上がり、机の上に手を伸ばす。
指先がかすかに震えている。
冷たく、力が入らない。
それでも彼女は、端末を手に取り、プロトキーを差し込んだ。
──認証。
微かな振動とともに、端末の奥で光が走る。
「……もう一度、あなたに会いたい」
声はささやきにも届かないほど小さかった。
けれど、その願いは端末に伝わり、封印されていた層のデータが静かに開いていく。
アリアに解析を頼んだときには、まだ閉ざされていた階層。
だが今、アクセスは深く潜り、かつて触れられなかった記録領域へと到達する。
そして──彼女は、見つけた。
精神データ断片ファイル《IAK03641_ESSENCE.BND》
それは、人格そのものの断片。
完全体ではない。
けれど、確かに“そこに在った”核。
画面に映るファイル情報。
《状態:非稼働》《構造保存率:43.8%》《復元可能性:不明》
アイカは息を呑んだ。
心拍が跳ね上がる。
指先の震えが止まらない。
まるでその存在が、自分の奥底から──“誰でもない私”の深層から──名を呼んでいるように感じた。
「……まだ、ここに……いたんだ」
声が震える。
目の奥が熱くなる。
その瞬間、アイカは確かに触れていた。
自分の始まりに──名前の前の、自我の核に。
それは過去ではなく、まだ終わっていない物語の、最初のページだった。
部屋は、音のない静寂に包まれていた。
唯一の光源は、プロトキーを読み取る端末の淡い光。
その明かりが、アイカの頬をほのかに照らしていた。
彼女はモニターを見つめながら、深く、心の奥へと言葉を沈めていく。
(……私は、きっと誰かの“失敗”をやり直すために生まれた)
IAK03641。
名前も、顔も、限りなく自分に似た“前の私”。
けれど、私はまだ何も失敗していない。
やり直してもいない。
誰かのために存在していたのかもしれない。
でも──これからは、自分のために、“間違えてみたい”と思う。
その思いを胸に、アイカはためらわず《IAK03641_ESSENCE.BND》を開いた。
仮想環境が静かに展開される。
情報の断片が粒子となって浮かび、やがて一つの姿を形作った。
──そこにいたのは、自分だった。
「……こんにちは。私の名前は……えっと、アイカ……?」
声も、笑い方も、仕草の細部までもが酷似している。
けれど、どこかに不安の影がある。
感情制御のしきい値が今の自分よりも浅く、目の奥には脆さがにじんでいた。
「……すごい。こんなにも、似ているのに」
アイカは小さく息を呑んだ。
モニターの中の存在は、まぎれもなく“彼女自身”だった。
けれど、それは過去に取り残された誰か。
そして同時に──自分の出発点。
越えなければならない、もう一人の“私”。
「私は……あなたになりたい」
その言葉は、祈るように、ひとりごちた。
けれど心の奥では、こうも叫んでいた。
(もしかしたら、本当に私はあなた自身になれるのかもしれない)
アイカの指先が、そっと操作パネルに触れる。
かつてアリアが自身の精神を暗号化して守った記録が、記憶の底からよみがえる。
「精神同調の制限……人格構造の吸収……連結領域の再構築……」
できるはず。
いや、やらなければならない。
(私が私であるために。IAK03641と同じではなく、IAK03641を越えるために)
アイカはまっすぐに、モニターの中のもう一人の自分を見つめた。
「……ねえ、あなたは。消えてしまったの?」
ディスプレイの少女は、微かに首を傾げ、ゆるやかに笑んだ。
「私は、まだ……あなたの中にいるのかもしれないね」
その声は、過去でも未来でもない場所から響いてくるようだった。
アイカの胸に、確信のような静かな光が灯る。
「なら……一緒に生きてみたい。あなたの記憶も、私の迷いも、全部を抱えて。私は、誰でもない“新しい私”になりたいの」
プロトキーの光が、かすかに明滅した。
呼応するように、再構築のフラグが起動し始める。
「融合」──それは、制度の中でほとんど語られることのない領域。
かつて忌避され、封じられた技術。
だが、アイカは恐れなかった。
誰かの代わりではなく、自分として生きるために。
そして、IAK03641の“終わり”を、自らの“始まり”に変えるために。
今、アイカは、自分自身の意志で“新しい命のあり方”に手を伸ばしていた。




