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リザレクテッド:人類再誕 所有された人間だけど、自由に生きる方法を探してみる  作者: 花篝 凛
第3部 私がもう一人いる!? 二人のアイカ。そして、三人目
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第2章 『名前の奥にあるもの』 (4)

 次の日の昼休み、食堂近くの廊下で、アリアはアイカに声をかけた。


「アイカ、ちょっといい?」

「はい。なんでしょうか、アリア先生」


 振り返ったアイカの顔は、理想的に整った穏やかさを湛えていた。

 だがその微笑の奥に、“何かを削ぎ落とした”ような静けさがあった。


 アリアは一瞬、言葉を失いかける。

 けれど、そのまま優しく問いかけた。


「……無理はしてない?」


 アイカは小さく目を見開いた。

 けれどすぐに、またあの“整った笑み”を浮かべて答える。


「私は大丈夫です。……今の私は、間違いを起こさないようにできていますから」


 その言葉が持つ“整いすぎた重さ”が、アリアの胸の奥へと沈んでいく。


(その完璧さこそが、一番“危うい”のかもしれない……)


 アリアは職員室に戻ると、日誌のページを開き、しばらく躊躇したあと──はじめて、記録欄にある一文を残した。


《IAK03642:現状安定。しかし、心理的乖離の兆候あり。観察継続を推奨。》


 それは他の誰にも見られない、アリア自身のための小さな警告だった。

 “安定”の中に潜む、不安定の気配に気づいた者だけが、心の奥に密かに刻む印。

 それは、アイカの“完璧な日常”の中にある、ひとつの危機の始まりだった。



 放課後のサロンは、柔らかな午後の光に満たされていた。

 窓際に並ぶ植物が優しく揺れ、静かなクラシックが空気の隙間を漂う。

 小さなグループがあちこちで談笑し、ゆるやかに時間が流れていた。


 その一角。

 リースとアリアは並んでソファに腰掛け、ひとつの端末をのぞき込んでいた。


「ほんとにこれ、あのときの映像? うそ、寝癖こんなだったの……!? ひどい、笑える……!」


 リースが肩を揺らして笑い、アリアも珍しく口元をゆるめた。


「記録として残しておく価値はあると思って。立体構造的にも、非常に興味深かったんだよ?」

「からかわないでよっ!」


 軽やかな声が弾け、周囲の空気も自然とほぐれていく。

 近くの生徒が、思わず微笑みながら視線を送る。

 笑い声と陽の光のなかで、ささやかな幸福が確かに息づいていた。


 ──ただ一人、その空間の端に取り残された者を除いて。

 少し離れた席に、アイカがいた。

 机にはノートが開かれ、手にはペン。

 だがその筆先は、ページの上で止まったままだった。

 白紙のページと、凍りついた彼女の手元。

 視線はソファの方へ。

 けれど、誰の目にも気づかれないように。


 ──笑ってる。

 ──あんなふうに、自然に。

 自分も、あんなふうに笑っていたことがあっただろうか?今の自分が見せる笑顔は、本当に“自分”のものだろうか?


(それは……あの子の模倣じゃないの?)


 心に、冷たいものがじわりと流れ込んでくる。

 自分が存在する意味、自分という輪郭の正体。

 すべてが、少しずつぼやけていく。


 手が震えていた。

 胸の奥から、何か黒いものがこみ上げてくる。


「……やめてください!」


 その声は、まるで音を置き去りにするようにサロンの空気を裂いた。


 ざわめきが止まる。

 リースも、アリアも、周囲の生徒たちも、一斉に視線を向けた。


 アイカは立ち上がっていた。

 肩を震わせ、頬には涙がにじんでいた。


「そんなに楽しそうにしないでください……! 先生が、誰かと、あんな……!」


 言葉が詰まり、喉がかすれる。

 それでも止まらなかった。


「私は、先生のために……“誰かの代わり”じゃないって思ってもらうために、がんばってきたのに……! なのに、どうして……どうして……!」


 リースが困惑したようにアリアを見た。

 アリアは静かに立ち上がり、一歩、アイカに近づく。


「アイカ──」

「こないでっ!」


 その叫びは、拒絶というより、崩れそうな自分を守るための悲鳴だった。


「……先生は、私を“今の私”として見てくれてるって……信じたかった……。でも、笑ってたじゃないですか……誰かと。私じゃない誰かと……」


 涙が、頬を伝って落ちた。

 アイカはそのまま背を向けて、サロンを走り出す。


 誰も追うことができなかった。

 足音だけが、床を強く叩いて、遠ざかっていった。

 その場に残されたアリアは、しばらく立ち尽くしていた。

 驚きも、動揺もなかった。

 ただ、静かに胸の奥へ沈んでいくものがあった。

 理解。

 後悔。

 ……そして、痛み。


 リースもまた、何も言えなかった。

 ただその目に焼きついたアイカの涙と、沈黙に沈むアリアの横顔を、忘れることができなかった。



 夜。

 部屋の中は、ひとすじの光も差し込まなかった。

 倫理委員会の保護室。

 遮光カーテンは閉ざされ、照明は消えたまま。

 スイッチに手を伸ばす気力すら、アイカには残っていなかった。


 制服のまま、ベッドの端に腰を下ろす。

 膝を抱え、顔を埋める。

 背中は丸まり、小さな肩がかすかに震えていた。


(……どうして、あんなことを)


 胸の奥が焼けつくように痛む。

 サロンで叫び、涙をこぼした自分の姿が、頭の中を何度も巡る。

 まるで壊れた映写機のように、記憶が繰り返し再生される。


(模範的に。冷静に。それだけを守ってきたのに)


 そうすれば、自分も“誰かの代わり”じゃなくなると思った。

 自分だけの価値が、そこに生まれると信じていた。

 けれど、壊れてしまった。

 抑えきれず、感情をぶちまけてしまった。


(私は……いったい、何を守っていたの?)


 脳裏に蘇るのは、自分の叫んだ言葉。


「先生のために、がんばってたのに……!」


 その一言の、なんと幼く、なんと未熟な響きか。

 思い出すたびに、喉が詰まり、胸の奥がきゅっと痛む。


「……消えちゃいたい」


 暗闇にぽつりとこぼれた声が、自分自身に跳ね返ってくる。

 誰にも届かない、小さな願い。

 ただの祈りのかけら。


 そのとき、ふいに──一つの名前が、脳裏をよぎった。


 IAK03641。


「……私の、原型」


 あの子は──私よりも、ずっと上手に生きられていたのかもしれない。

 感情に流されず、誰かに縋らず、静かに“最初”として愛された存在。

 私は、その“残像”をなぞるだけの、代用品にすぎないのか。


 アイカはゆっくりと立ち上がり、机の上に手を伸ばす。

 指先がかすかに震えている。

 冷たく、力が入らない。

 それでも彼女は、端末を手に取り、プロトキーを差し込んだ。


 ──認証。


 微かな振動とともに、端末の奥で光が走る。


「……もう一度、あなたに会いたい」


 声はささやきにも届かないほど小さかった。

 けれど、その願いは端末に伝わり、封印されていた層のデータが静かに開いていく。

 アリアに解析を頼んだときには、まだ閉ざされていた階層。

 だが今、アクセスは深く潜り、かつて触れられなかった記録領域へと到達する。


 そして──彼女は、見つけた。



 精神データ断片ファイル《IAK03641_ESSENCE.BND》



 それは、人格そのものの断片。

 完全体ではない。

 けれど、確かに“そこに在った”核。

 画面に映るファイル情報。



 《状態:非稼働》《構造保存率:43.8%》《復元可能性:不明》



 アイカは息を呑んだ。

 心拍が跳ね上がる。

 指先の震えが止まらない。

 まるでその存在が、自分の奥底から──“誰でもない私”の深層から──名を呼んでいるように感じた。


「……まだ、ここに……いたんだ」


 声が震える。

 目の奥が熱くなる。


 その瞬間、アイカは確かに触れていた。

 自分の始まりに──名前の前の、自我の核に。

 それは過去ではなく、まだ終わっていない物語の、最初のページだった。



 部屋は、音のない静寂に包まれていた。

 唯一の光源は、プロトキーを読み取る端末の淡い光。

 その明かりが、アイカの頬をほのかに照らしていた。


 彼女はモニターを見つめながら、深く、心の奥へと言葉を沈めていく。


(……私は、きっと誰かの“失敗”をやり直すために生まれた)


 IAK03641。


 名前も、顔も、限りなく自分に似た“前の私”。

 けれど、私はまだ何も失敗していない。

 やり直してもいない。

 誰かのために存在していたのかもしれない。

 でも──これからは、自分のために、“間違えてみたい”と思う。


 その思いを胸に、アイカはためらわず《IAK03641_ESSENCE.BND》を開いた。


 仮想環境が静かに展開される。

 情報の断片が粒子となって浮かび、やがて一つの姿を形作った。


 ──そこにいたのは、自分だった。


「……こんにちは。私の名前は……えっと、アイカ……?」


 声も、笑い方も、仕草の細部までもが酷似している。

 けれど、どこかに不安の影がある。

 感情制御のしきい値が今の自分よりも浅く、目の奥には脆さがにじんでいた。


「……すごい。こんなにも、似ているのに」


 アイカは小さく息を呑んだ。

 モニターの中の存在は、まぎれもなく“彼女自身”だった。

 けれど、それは過去に取り残された誰か。

 そして同時に──自分の出発点。

 越えなければならない、もう一人の“私”。


「私は……あなたになりたい」


 その言葉は、祈るように、ひとりごちた。

 けれど心の奥では、こうも叫んでいた。


(もしかしたら、本当に私はあなた自身になれるのかもしれない)


 アイカの指先が、そっと操作パネルに触れる。

 かつてアリアが自身の精神を暗号化して守った記録が、記憶の底からよみがえる。


「精神同調の制限……人格構造の吸収……連結領域の再構築……」


 できるはず。

 いや、やらなければならない。


(私が私であるために。IAK03641と同じではなく、IAK03641を越えるために)


 アイカはまっすぐに、モニターの中のもう一人の自分を見つめた。


「……ねえ、あなたは。消えてしまったの?」


 ディスプレイの少女は、微かに首を傾げ、ゆるやかに笑んだ。


「私は、まだ……あなたの中にいるのかもしれないね」


 その声は、過去でも未来でもない場所から響いてくるようだった。

 アイカの胸に、確信のような静かな光が灯る。


「なら……一緒に生きてみたい。あなたの記憶も、私の迷いも、全部を抱えて。私は、誰でもない“新しい私”になりたいの」


 プロトキーの光が、かすかに明滅した。

 呼応するように、再構築のフラグが起動し始める。


 「融合」──それは、制度の中でほとんど語られることのない領域。

 かつて忌避され、封じられた技術。

 だが、アイカは恐れなかった。

 誰かの代わりではなく、自分として生きるために。

 そして、IAK03641の“終わり”を、自らの“始まり”に変えるために。


 今、アイカは、自分自身の意志で“新しい命のあり方”に手を伸ばしていた。

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読んでくださって、ありがとうございます。特に全話読んでくださっている方、大変ありがたいです。
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