第1章 『目覚めの手続き』 (2)
【登場人物紹介】
この物語には、“再生された人間”と、“彼らを所有する機械”が登場します。
●リース
生殖能力を持つリザレクテッド少女。怠惰でやる気はないが、心は繊細。爆破事件の容疑を着せられる。
●ユノ
リースの所有者。女性型アウロイド。優しいが現実主義。
夜の帳が降り、ユノの自宅は柔らかな静けさに包まれていた。
照明は控えめに落とされ、天井からの間接光が、空間をやわらかく染めている。
どこか現実味のない、けれど確かに温度を持った夜。
リースはソファに腰を下ろしたまま、未開封の衣服の袋を膝に抱え、所在なげに室内を見渡していた。
そのとき、キッチンからカップを手にしたユノが姿を見せた。
「リース、お風呂、入ろうか。身体、まだ冷えてるでしょう?」
声は優しかった。
けれどリースは、わずかに身を固くした。
視線を伏せ、ためらうように小さく頷く。
「……はい。でも……やり方が、よく分からない……」
ユノは笑みを浮かべた。
「大丈夫。案内するよ。操作は簡単だし、全部自動だから」
そう言われても、リースはなかなか立ち上がろうとしなかった。
まるで、何か罠があるのではないかと警戒しているように。
ユノは無理に促さず、ただ静かに待った。
やがて、リースはおそるおそる立ち上がり、着替え袋を胸に抱えたまま、バスルームの方へ歩いていった。
ドアを開けた先にあったのは、清潔で、無機質な白い空間。
だが、そこに満ちていたのは消毒液の匂いではなく、わずかに温もりを感じさせる空気だった。
「服はここに。スイッチを押せばお湯が出るから。……無理はしないでね」
リースは返事をせず、ただ一度だけ小さく頷いた。
ユノは彼女を置いて、そっとドアを閉じた。
しばらくして、シャワーの音が静かに流れ始める。
その音を背に、ユノは寝室のベッドを整える。
もともと一人用に設計されたベッド──今日はそれを、二人で使うしかなかった。
バスルームのドアが開く気配。
リースは薄手のパジャマに着替えていた。
肩にタオルをかけたまま、濡れた髪を手で押さえ、どこか所在なげに立ち尽くしている。
ユノは歩み寄り、タオルを手に取った。
「風邪ひいちゃう。ちゃんと乾かさないと」
リースは身をすくめた。
けれど、逃げようとはしなかった。
ユノの指先が、できるだけやさしく髪を拭っていく。
リースはぎこちないまま身を任せていたが、緊張はまだ完全には抜けきらない。
ようやく乾かし終えたあと、ユノはふわりと微笑んだ。
「……さあ、今日は疲れたでしょう。寝ようか」
「……ベッド、一つ?」
リースは不安げに小さな声を漏らす。
ユノは苦笑しながら頷いた。
「ごめんね。今日はまだ準備が間に合わなかった。でも──嫌なら、ソファでもいいよ。無理には言わないから」
しばらく、リースは迷っていた。
ソファを見やり、ユノを見やり──それから、ほんの少しだけ唇を噛みしめ、静かに首を振った。
「……いっしょに、寝る」
その声には、かすかに震えがあった。
けれど、確かな意志もあった。
ユノは何も言わず、ベッドの布団をめくって彼女を迎え入れる。
リースは、おそるおそるそこに身体を滑り込ませた。
ユノも、その隣に静かに横たわる。
部屋の明かりが消え、闇がすべてを包む。
並んだふたつの呼吸音だけが、微かに夜を震わせていた。
しばらく、沈黙。
リースは、まだ緊張していた。
体はこわばり、ユノに背を向けたまま、小さく呼吸を整えている。
そのとき。
ユノが、声を潜めて囁いた。
「怖くないよ。何もしないから。……安心して、リース」
リースのまぶたが、かすかに震えた。
それから、ゆっくりと。
ごくゆっくりと──リースは背中を少しだけユノの方へ寄せた。
触れるか触れないかの距離。
でも、そのたった数センチが、リースにとっては“信頼”の証だった。
「……おやすみなさい、ユノさん」
小さな声。
ユノは、ふわりと笑った。
「おやすみ、リース」
ふたりの吐息が、重なった。
孤独を少しだけ手放した夜。
それぞれが、まだ不器用なまま、けれど確かに──同じ場所で、同じ夢の入り口に立っていた。
数日が経った。
リースは──驚くほどあっという間にユノの家に馴染んでいた。
いや、“馴染んだ”というより、“好き放題に振る舞っている”と言った方が正しい。
最初の一、二日は控えめで居心地悪そうだったが、三日目あたりから態度は一変した。
今では、ほぼ下着姿でリビングを歩き回り、ソファに寝転がってはネット動画をだらだら視聴。
目覚めても、食事中も、寝る直前もスクリーン漬け。
栄養食は半分も食べず、残ったパッケージがテーブルに積まれていく。
画面にはゲーム実況や歌配信、コメントの洪水。
ネット掲示板では、落選したアウロイドたちが願望や鬱屈を吐き出している。
「自分のリザが来たら毎日花を飾る」──そんな投稿もあれば、「絶対服従プロトコルを合法化すべき」といった背筋の寒くなる発言も混じっていた。
ついにユノが痺れを切らす。
「リース、いい加減に着替えて。せめて服くらい着なさい。あと、動画ばっかりじゃなくて、少しは外に出ることも覚えて」
リースはソファに寝そべったまま脚を揺らし、画面から目を離さずにつぶやく。
「外、暑いし……つまんないし……ネットで全部見られるし……」
「体を動かすのも大事。あなたの身体は本物の人間なんだから。ちゃんと感覚を……」
「分かってるけど、めんどくさい。服も、動くのも、ぜんぶ」
そう言って寝返りを打ち、枕を抱きしめる。
画面にはアバターが跳ね回るゲームと、「かわいすぎ」「勝て勝て」「リザ反応きた!」といったコメントが絶え間なく流れていた。
ユノは肩を落とし、深いため息をつく。
目の前にいるのは、何百年の時を越え、科学と倫理、そして祈りによって蘇らせた“人間”。
人類の復活──それは希望であり、挑戦の象徴だった。
多くのアウロイドが所有を夢見て挑み、敗れ去った。
だが今、その象徴はソファに寝転がり、画面に釘付けになっている。
(……これが“人間”の再来。理想の再生体の現実……)
胸の奥で、ユノは冷たく苦い、けれど目を離せない感情を抱いていた。
(絶滅して当然──そう言われても、今なら分かる気がする。落選した連中に、この姿を見せてやりたい)
その思いを追い払うようにユノは首を振り、コーヒーを一口。
温かい液体が喉を通るその一瞬だけ、微かな希望が胸に波紋のように広がった。
──本当は、もっと違う姿を想像していた。
最初の数日、ユノは真剣だった。
朝は決まった時間に起こし、バランスの整った食事を用意し、散歩や学習の提案もした。
“健やかな生活”を送らせること。
それが所有者としての責任であり願いだった。
だがリースはそれをことごとく裏切った。
朝は起きない。
食事は気分次第。
学習には興味を示さず、常にネット端末を抱えたままソファで眠る。
夜中まで無言で配信を見つめるその姿は、まるで期待されること自体を拒むようだった。
ユノの言葉は届かず、リースのだらしなさは日を追うごとに加速していった。