第12章 『触れられた疑念』 (2)
影が、アリアの内側で静かに、しかし確実に広がっていく。
黒い霧が意識の奥を満たし、思考は鈍り、体温は奪われ、言葉という概念さえも凍りついていった。
彼女が膝をついたその場所は、自分自身を手放すために選んだ終点だった。
──もう、戻らなくていい。
──私がいなくても、世界は変わらないのなら──
そのときだった。
──《……アリア……?》
遠い。
けれど、確かに届く声だった。
静まり返った脳の最深層を震わせるように、ひとつの呼びかけが彼女を貫いた。
アリアは、息を詰めるようにして顔を上げる。
黒いログと断片の記憶が折り重なる迷宮の奥。
暗黒のコードに侵食されたその狭間に、かすかな光が差し込んでいた。
その光のなかに、少女が一人──立っていた。
リース。
乱れた髪。
擦り傷だらけの身体。
それでも、その目はまっすぐにアリアを見つめていた。
──《聞こえてる? アリア。
……あんた、泣いてんの?》
その声には、軽口めいた響きと、ひりつくほどの真剣さが同居していた。
アリアの胸に、かすかな熱が戻る。
息が、温かさを取り戻す。
「……リース……」
──《あんた、自分を壊すことで何かを守ろうとしたんだろ。
でもね、それじゃ意味がないんだよ。
あんたが“生きてること”そのものが、どれだけ誰かの支えだったか──私、今ならちゃんと分かるから》
言葉じゃない。
“存在”が、そのまま伝わってくる。
──ビーコン接続確認:JCF02621
リースの認証信号が、電脳空間に確立された。
アリアの領域に、書き込み権限が付与される。
まるで、固く閉ざされていた扉が、誰かの手によってそっと開かれたように。
DIOSの構築した支配空間に、異質なアクセスが発生する。
──《アリアのビーコンに、私のが反応したの。
意味は分かんない。
でも、これであんたのとこに来れた。
あんたを見つけるために》
黒い霧が軋む。
全能のように張り巡らされていた構造体に、リースという変数が亀裂を刻んでいく。
絶望という名の沈殿物が、少しずつ剥がれていく。
アリアの胸に、確かな何かが灯り始める。
──《あんたは“選ばれなかった”わけじゃない。
あんたは、自分で選んで、ここまで来たんだ。
それって……とんでもなく強いことなんだよ。
私は、それを見て知ったんだ》
アリアの目が揺れる。
その揺れは、脆さではなく、殻を破ろうとする兆しだった。
「……私は……間違ってた。孤独こそが、私の輪郭だって思い込んでた。でも、本当は……」
息を呑む。
喉の奥が熱くなる。
「……私は、誰かと繋がっていたくて、ここにいたんだ……」
──《だったら、立ちなよ。
ここから先は、もう“ひとり”じゃない。
アウラリンクってさ、片側だけじゃ繋がらないんだよ》
リースが、光の中から一歩、こちらへ踏み出す。
その手が、差し伸べられる。
温かくて、確かで、震えたままのアリアを迎える手。
アリアは、震える指で目元を拭い、小さく笑った。
「……リース。ありがとう。あなたが来てくれたから、私は──ここで終わらない」
その瞬間、電脳空間が振動した。
支配の構造が音を立てて崩れ始める。
『支配構造内優先順位:再割り当て完了』
光の中で、構造体が軋む。
DIOSの意識が警告を発する。
──《不合理だ。
おまえたちは定義されるべきだ。
“役割”によって制御されるのが存在の原則だ……!》
「……だったら、その原則ごと、壊してみせる」
アリアの瞳に、かつての力が戻っていた。
その手が、リースの手と重なる。
リンクが、成立する。
完全な同期。
双方向の繋がり。
そして彼女たちは──影を超えた。
影は、まだそこにあった。
だが、それはもはや、すべてを飲み込む支配ではなかった。
アリアの内側を漂うそれは、かつての支配の“残響”──遠く、薄く、微かに震える記憶の名残に過ぎなかった。
リースの手は、すでに離れていた。
その姿は光の向こうへ、静かに後退していく。
「……もう、大丈夫だから」
アリアはそう呟きながら、自分の胸元に手を添える。
その奥深くに眠っていたのは、壊れなかった記憶。
ねじ曲げられなかった意志。
どこにも属さず、それでも確かに存在し続けた“核”だった。
その一点を中心に、彼女の内的空間が、ゆっくりと変化し始める。
崩れたログの海は、光の粒子となって浮かび上がり、静かに再構成されていく。
かつて奪われた構造を、自分自身の手で編み直していく感覚。
──これは、再起動だった。
そのとき、姿を現したものがある。
黒く、蠢き、人型とも呼べぬ“歪み”。
DIOS──かつてアリアを浸食した存在。
もはや彼に、言葉はなかった。
自我の断片をコピーし、ただアリアの神経層に食い込もうとする、残骸としての干渉。
知性ではなく、執念の残滓。
だがアリアは、一歩も退かなかった。
「……DIOS」
その名を、明確に呼ぶ。
影がかすかに反応し、視線のような何かが彼女を見据える。
「私は、あなたを許さない。けれど、憎んでもいない。あなたが何を望もうと──私は、もう従わない」
アリアの声は揺るがなかった。
その言葉は、刃ではなく宣言だった。
「あなたが私に与えたのは、痛みと、恐怖と、破壊だけ。でも私は、それらを記録に変える。他の誰かを守るための、証として」
「あなたはもう“今”にはいない。私が、あなたを“過去”にする」
その瞬間、彼女の胸元に近い領域が淡く輝いた。
それは、リースの声によって再び活性化された、思考の根。
揺らがなかった真の自己。
ずっと見失わずにいた存在の“軸”。
アリアは掌を開き、その光を前へと掲げた。
「私は、選ぶ。自分の意志で、ここに在ると。あなたの影ではなく、“私自身”として立つと。──だから、さよなら。DIOS」
光が弾けた。
まばゆい閃光が神経層を貫き、ログを浄化し、構造の奥に巣食っていた侵蝕の根を、一本残らず焼き払っていく。
まるで、ネットワーク上に可視化されたウイルス駆除。
黒い塊が、音もなく崩れ去る。
抗うことも、叫ぶこともなく。
ただ、静かに、終わっていった。
アリアの内面に、深い静寂が訪れる。
何もない。
けれど、空っぽではない。
無音の空間に、彼女はまっすぐ立っていた。
目を閉じ、深く、ひとつ、息を吸う。
「……ありがとう、リース」
どこか遠く、ログの彼方から、微かな声が届いた。
──《アリア、戻っておいで。
あんたの席、まだ空いてるからさ》
アリアは、小さく微笑んだ。
そして、光の方向へと、静かに一歩を踏み出す。
黒い影は、もういなかった。
空間は静まり返っていた。
けれど、その静寂は、かつての“無”とは違った。
痛みも、恐怖も、失われた声も──すべてが彼女の中に確かに在った。
それを抱きしめながら、なお立ち上がる選択。
アリアは、生きている。
それは、誰かに救われた物語の終わりではない。
自らの足で立ち、自らの意志で選び取った、新たな始まりだった。
──その瞬間。
アリアの胸に、ひと筋の呼吸が戻った。
現実世界。
ユノの自宅。
静まり返った寝室の空気の中で、ベッドに横たわる彼女の体が、小さく、それでも確かに動いた。
震えるまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
最初に映ったのは、白い天井。
聞き慣れた機械の音。
そして、部屋の空気──生きている匂い。
「……戻った……」
その声は、まだかすかだった。
けれど、確かに“今”に届いていた。
指先が微かに動き、布団の上でそっと握られる。
震えている手。
けれど、それはもう恐怖ではない。
その奥に、確かに残っているものがある。
リースの声。
──《私があんたを助ける》
あの言葉が、胸の奥で小さな火となって灯っていた。
冷たく染まっていた深層に、たしかに光が差した。
今も、アリアの中に、あの声が生きている。
ゆっくりと顔を巡らせると、部屋の片隅に置かれた端末のモニターに、ひとつの名前が浮かんでいた。
《From:Wreath》
未読のメッセージが、ひとつ。
アリアは、ふっと微笑む。
「……ちゃんと、届いてたよ」
その小さな呟きが、静かな部屋に染み込んでいく。
何の音もない空間に、確かにひとしずくの未来が落ちた。
──すべてが終わったわけじゃない。
だが、アリアはもう逃げない。
もう、壊されない。
そして今度は──自分が、誰かを守る番だった。
その同じ瞬間。
場所は変わり、中央倫理委員会ビル・第七保護区画。
薄暗い室内。
ベッドの上で、リースが静かにまぶたを開く。
ゆっくりと、深く息を吸い込み、目だけで天井を見上げる。
その瞳にはもう、迷いはなかった。
そして──空気を裂くように、館内放送が響き渡った。
《緊急通達。リザレクテッド全個体に対する回収命令は、ただいまをもって停止とする。本決定は、倫理委員会中央評議によるものとし、詳細は追って通知される。関係各部署は、速やかに現場対応に移行せよ》
瞬間、施設内の空気が一変した。
巡回中のドローンが一斉に停止し、待機していた収容車両が動きを止める。
通信室にいたスタッフが顔を上げ、各部署のオペレーターたちが困惑の声を交わす。
誰もが、その“理由”を知らなかった。
けれど確かに、何かが変わったのだ。
世界の軸が、ゆっくりと、しかし確実に──反転を始めていた。
ベッドの上。
アリアはまだ上体を起こさず、仰向けのまま、じっと天井を見つめていた。
その瞳に宿る光は、虚ろではなかった。
確かに“今”を見ていた。
現実に、意識が戻っていた。
「……アリア?」
ユノの声は、静かで慎重だった。
まるで、何か壊れやすいものに触れるように。
その気配にアリアはゆっくりと目を向ける。
その目に、確かな焦点が戻っているのを見て、ユノはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……戻ってこれたのね」
返事はなかった。
けれど、アリアはごくわずかに頷いた。
ユノはそっとベッドの傍らに腰を下ろし、手元の端末に視線を落とす。
脳波モニターには、安定した電脳信号。
さきほどまで警告を発していた“侵蝕領域”の波形は、きれいに消えていた。
「……影の反応、ゼロ。信じられない……あんなに深く入り込んでたのに、こんなに……」
驚きと安堵の入り混じったつぶやきだった。
まるで、嵐の痕跡が一滴も残らず洗い流されていたかのように。
アリアは静かに、でもはっきりと告げた。
「リースの声が……届いたの。最後の瞬間に。あの子が……私を、引き戻してくれた」
ユノはアリアの横顔を見つめた。
その瞳に、もう虚無はなかった。
焦燥も、後悔もなかった。
そこにあったのは、確かな“回復”の証──過去を超えた、静かな強さだった。
「……じゃあ、リースも無事ってことだね」
「ええ。きっと」
二人のあいだに、短く深い沈黙が落ちた。
それは悲しみでも迷いでもなく──ただ、嵐が過ぎ去ったあとの澄んだ静けさだった。
ユノは立ち上がり、微笑を浮かべながら言った。
「医療データ、回収しておくね。本当は“しばらく安静に”って言いたいとこだけど……」
肩越しにちらりと視線を送る。
「……その顔じゃ、きっと無理そうね」
アリアは小さく笑った。
「動かないと、置いていかれるから」
その笑みに、もう影はなかった。
それは、乗り越えた者だけが見せる、確かな微笑だった。
彼女は、今。
ようやく本当の意味で“目を覚ました”のだ。
ただ生きているだけじゃない。
“これから”を、自分の足で歩くために。




