第10章 『リンクの彼方で』 (1)
夕方の空には、まだかすかに光が残っていた。
だが、ユノの足取りはひどく重たかった。
倫理管理庁での審理請求は受理されたものの、実質的には“保留”──形式だけの受付。
求められたのはさらなる証拠、さらなる時間。
カデルワンは「想定内だ」とだけ言い残し、静かに去っていった。
けれど、ユノの胸に残ったのは、疲労でも焦燥でもなく、ひたすらな虚しさだった。
自宅のセキュリティパネルに手をかざす。
低い電子音とともに扉が開いた。
「……ただいま」
その声だけが、がらんとした室内に吸い込まれていく。
ソファには、朝のまま置き去りにされたブランケット。
靴音を立てずにダイニングへと向かい、冷蔵庫からペットボトルを引き抜く。
ラベルを剥がすような勢いでキャップを外し、無造作に水を喉へ流し込んだ。
──そのとき、背中に微かな気配が走った。
「……帰ったの?」
振り返る。
銀の髪が濡れて光っていた。
袖口には焼け焦げの跡。
──アリアだった。
遺伝子ビーコンのリングが、かすかに赤く光を返す。
だが、彼女の瞳は真っすぐにユノを見据えていた。
怯えも、迷いもない。
ただ、静かな決意だけがそこにあった。
「どうやって……ここに入ったの?」
低く問うユノに、アリアは僅かに笑みを浮かべて答える。
「ここのセキュリティー、甘い。二重化してなかったから、少し回り道しただけ」
「冗談じゃない。今、君がここにいると知られたら、私も処分される」
「じゃあ、見つからなければいい。──でしょ?」
アリアは何事もないようにテーブルの端末を手に取る。
画面には、ユノとカデルワンが裁判所へ向かう映像が繰り返し流れていた。
「……ほんとにやったんだ。提訴なんて、正面から……」
「私がやらなきゃ、リースは戻ってこない」
ユノの声が鋭くなる。
けれど、アリアはその剣を受け止めるように目を細めて、静かに腰を下ろした。
「じゃあ、次は──私があんたを手伝う番だね」
「逃亡者が?」
「違う。“次の地点に移動した”だけ。戦う場所を変えたの」
その言葉に、ユノの視線が微かに揺れる。
「……なら、今度こそ決定的な証拠を掴む。リースにかけられた罪も、事件を捏造した真犯人も──すべて、洗い出す」
「そのために、私もネットに戻る。……もう一度あのノイズに触れる。でも、今度は制御できる気がする。あの“存在”が何を見ているのか、私なら辿れる」
アリアの瞳に、冷たい炎が宿る。
それはかつての迷いとは違う、“意思”を持った光だった。
「それは危険な賭けになるよ」
「いいえ、これは賭けじゃない。──希望」
ユノは息を吐き、ゆっくりと椅子に腰を落とす。
裁判所では揺らせなかった現実。
だが今、ここから──静かに、着実に、ひとつずつ崩していくしかない。
誰にも許されなかった選択肢を、ふたりは今、選ぼうとしていた。
アリアが、不意に口を開いた。
「──ユノ。お願いがあるの」
声は落ち着いていたが、そこに込められた緊張は隠せなかった。
「……なに?」
ユノが眉を寄せると、アリアは一歩踏み出し、真正面から彼女を見据えた。
「私の電脳をスキャンして。できるだけ深層まで──限界まで」
ユノの手がぴたりと止まる。
「……それ、本気で言ってるの?」
「本気だよ。今の私に、それ以外の選択肢はない」
アリアの声には一切の迷いがなかった。
それが、かえってユノを戸惑わせた。
「……アリア、それは──自分の脳を“開く”ってことよ。防壁を外して、記憶も思考も、全部丸裸にするの。深層スキャンは高負荷だし、スキャンログはどこかに痕跡が残る。私が消せても、君自身の中に“何か”が焼きつくかもしれない」
アリアは目を伏せず、まっすぐに言った。
「知ってる。でも……もう、“守ってる場合”じゃないの」
その静かな一言が、空気を張りつめさせた。
「私は……“あの時”の記憶が、一部抜けてる。でも、断片的なノイズの中に、“何か”がいた。輪郭のない存在。触れただけで、また呑まれる気がした。あれが再び私を侵せば、次こそ自分を保てないかもしれない……」
言いながら、アリアは一瞬だけ目を閉じた。
けれどすぐに開き、低く続けた。
「もし私の中に、ハッキングの断片が残ってるなら……誰かに、正確に見てもらうしかないの。自分が“私”でいるうちに」
沈黙が落ちる。
ユノは黙って、手元のタブレットの電源を落とした。
わずかに視線を逸らし、ゆっくりと立ち上がる。
「……分かった。やろう。でも私は専門の脳解析者じゃない。正式な許可もない。これは、私個人の責任の範囲でしかない」
その言葉に、アリアは静かに微笑んだ。
「それで充分。私は──“あなた”に見てほしいの」
ユノの目がわずかに揺れた。
だが、それ以上何も言わなかった。
二人の間に、それ以上の言葉は不要だった。
この先、目にするのは、闇か、断片か、それとも深い破損か──それでも逃げずに向き合うと、もう決めていた。
まだ“自分”であるうちに、すべてを確かめるために。
ユノのベッドルーム。
照明は落とされ、微光だけが機器の端末を淡く照らしていた。
アリアはベッドの上に静かに横たわっていた。
彼女の耳の後ろ──アウラリンクには一本の細いケーブルが接続されている。
それはユノの端末へと繋がり、まるで思考そのものが有線で共有されているかのようだった。
ユノは一言も発さず、スクリーンの前に座っている。
アリアの意識は軽く安定剤で沈められ、すでにスキャン準備は完了していた。
「……始めるよ」
かすかな駆動音とともに、診断ユニットが作動を開始した。
脳波と電気信号のデータが無音の奔流となってユノの画面を埋め尽くしていく。
アリアの記憶のレイヤーが一層ずつ解凍され、静かにその構造をさらけ出していく。
──記憶層、整合性:良好
──感情パラメータ:軽度の不安定化を検知
──外部干渉ログ:あり
──識別不能コード:反応中
ユノの手が、わずかに震えた。
「……来たね」
スキャン映像の最深部。
アリアの思考領域、その奥底に──黒い“影”が、まるで神経そのものに絡みつくように、静かに、確実に根を張っていた。
「静かすぎる……潜伏型?」
ウイルスではない。
悪性AIとも違う。
それはあたかも、知性と自律性を備えた存在だった。
思考の隙間に溶け込み、構造の一部のように擬態している。
除去しようとする命令はすべて拒否され、アクセスコードも弾かれた。
「応答……ゼロ。干渉コード不在。追跡も不能……」
ユノは呼吸を抑え、別ルートから再侵入を試みる。
だが、影は生き物のように一切の反応を返さず、ただそこに“存在”していた。
しかも──アリアの“人格核”に触れていた。
まるで彼女の意識と融合し、その一部になろうとしているように。
「……このまま続ければ、精神構造が崩れる……」
警告が淡く表示された。
ユノは画面を見つめたまま、唇を噛む。
そして──決断する。
「アリア……目を覚まして」
彼女は安定剤の中和指令を送り、スキャンを即座に停止した。
診断ユニットの駆動が静止し、部屋の中に再び、機械の息づかいさえ消えた静寂が戻る。
数秒後。
アリアのまぶたが、ゆっくりと開かれた。
「……終わったの?」
ユノは小さく首を振り、疲労の滲む声で答える。
「いいえ。……終わってない。むしろ、今が始まりだよ」
彼女の目は、再びスクリーンへと向けられる。
「あなたの中に、“何か”がいるの。侵入者じゃない。もう……“同化”が始まってる。あなたの一部になろうとしている」
アリアはゆっくりと上体を起こし、深く息を吸い込んだ。
その目には、あらゆる感情を押し込めた、覚悟の光が宿っていた。
「……感じてた。ずっと。“誰かがここにいる”って……私の中に」
ユノは、まっすぐアリアを見つめ返した。
その視線は問いでも否定でもなく──これからを共に歩むという、無言の宣言だった。
そこは、アーカイブ保管庫──データの墓場だった。
誰も見ない。
誰も手入れをしない。
ネットの最深部、忘れ去られた記録たちが、無音のまま沈殿している。
呼吸すら要らない、沈黙の堆積場。
リセルは、ホログラムの皮を脱いだ。
“リース”の姿を捨て、真の自分の容姿でその暗い空間に立っていた。
一つの記録に手を伸ばす。
思考インターフェースに触れた瞬間、過去が電流のように脳内へ流れ込む。
映ったのは、色彩の抜けた灰色の部屋。
整列させられた無表情の子どもたち。
そして、感情を持たない音声。
「対象個体C群──B群と同様、廃棄決定」
「理由:感情反応過多、外見基準逸脱、実験的所有先にて逸脱行動を確認」
映像の少女は、笑っていた。
静かに、カメラの向こうを見つめ、無垢な笑みを浮かべていた。
その顔が、リセルに“似ていない”のに──あまりに“似ていた”。
リセルは、笑わなかった。
笑えなかった。
「……バカみたいに、“いい子”だったくせにね」
それは、嘲りではなく。
残酷な現実に置き去りにされた“かつての自分”への、葬送の囁きだった。
映像は、音もなく終了した。
記録には「保存なし」のタグ。
だが、そこには確かに“生きようとした者”が存在した。
誰も気に留めなかった。
誰も掘り起こさなかった。
だから、リセルは顔を変えた。
名も、過去も、失くした。
「“自分なんていない”って思えば、笑えるから」
もう一度、ホログラムを起動する。
映し出されたのは──リースの顔。
その姿に切り替わると同時に、ふざけた笑顔とウィンクが再現された。
「はいはい、“お望み通り”の所有物でーす」
外見は完璧に“本物”。
だが──内側では、怒りも哀しみも、すべて“冗談”に変えて、燃えていた。
そして、そのカメラの向こうへ向かって──リセルは、囁くように語りかける。
「知ってた? リザレクテッドって、“ただの再生人間”じゃないんだよ」
「中には、人間以上の性能を持った個体もいた。なのに、それは全部──隠された」
瞳に光を宿し、感情豊かに揺らめかせながら。
「ねえ、真実を知るのって、そんなに怖い? 私は怖くないよ。だって、私は……嘘、ついてないから」




