第7章 『起こす者、戻る者』 (3)
カップを傾けたまま、リースがふと眉をひそめた。
「……来たね。嫌な予感、的中」
予告のように、次の瞬間──サロンの扉が勢いよく開いた。
軽快な足音。
無遠慮な笑顔。
空気の密度を一気に破るような、よく通る声。
「やっほー、二人とも! へえ、なにこれ? 秘密の部室? 青春の逃げ場? それとも──禁断の姉妹愛とか?」
リセルだった。
自分の存在をアクセサリーのように振りかざして、当然のように部屋に入ってくる。
彼女の視線が、リースとエリスの間を興味深げに往復した。
「ふーん……リースと、こっちが“エリス”ちゃん? 倫理委員会の資料じゃ、“非人間型AI”って書かれてたけど。ずいぶんと人間味あるご挨拶じゃない?」
エリスは、そっとティーカップをソーサーに戻す。
その動作に乱れはない。
表情も、声も、微塵も揺れず──ただ静かに、冷ややかに応じた。
「私は非人間型補助AIユニット、エリス。現在、学内試験運用中。……ご質問を検出しました。意図解析──“人間らしさが不自然である”との指摘と解釈しました」
「うわ、出た。急にロボ口調とか、本気出さないで。ねえ、怖いから」
リセルが芝居がかった仕草で後ずさる。
「でもさ、本当にただのAIなら──なんで“お茶会”なんてしてるわけ? っていうか、リースも自然に話してたし」
「補助AIってのは、そういうもんでしょ」
リースは冷たく言い放ち、カップをくるりと回した。
「会話も記憶処理も模倣も完備。最近のモデルは優秀だからね。あんたの“放送芸”も、AIに差し替えられる日が近いかもよ?」
「うわあ、恐ろし。……でもまあ、使える素材なら、なんでも歓迎だけどね?」
リセルはカメラ付き端末を取り出し、レンズをくるりと回した。
にやけたその目は、ふたりを“商品”として値踏みしている。
──そのとき。
サロンの奥の扉が、わずかに音を立てて開いた。
「ねえ、エリス、ママ──」
シエルだった。
両腕にクッションを抱えている。
扉を開いたその瞬間、自分の口から漏れた言葉に気づき、ぴたりと足を止めた。
室内が凍る。
空気が一拍、沈んだ。
リセルの目が鋭く光る。
獲物を捉えた捕食者のような、ぞくりとする笑みを浮かべた。
「……今、“ママ”って言った?」
その声は軽く笑っていたが、その奥には、刃のような好奇心が走っていた。
シエルは、一瞬だけ間を置き、それから胸を張って言い返した。
「うん。エリスは、私のママだよ。非人間型だろうと、関係ない」
リセルの口が半開きになった。
驚いたような、呆れたような、判別しにくい顔。
その目が、シエルを値踏みするように細められる。
「なるほどねえ……なるほど。“ママ認定されたAI”。しかも堂々と。いいじゃん。タイトル浮かんできた。“倫理のグレーゾーンから生まれた母性型人工知能”──これ、次の配信で使えるわ」
「勝手に利用しないで」
リースがすかさず口を挟んだ。
その声には棘と正当性が混ざっていた。
「これは学内の“補助教育活動”。記録を外に持ち出すなら、ユノに正式申請して。倫理委員の名前を出されるの、あんた嫌でしょ?」
「ちぇっ……ほんと、つまんない女」
リセルはわざとらしく肩をすくめて見せたが、それ以上は踏み込まなかった。
くるりと踵を返し、ドアの前で立ち止まる。
そこで、ちらりと振り向いた。
「ま、せいぜい気をつけて。“自分によく似たAI”を愛しはじめた人間って──たいてい、先に壊れるからさ」
そう言い残して、リセルは軽い足取りで去っていった。
ドアが閉まると同時に、場の空気が静かに戻ってくる。
エリスは何事もなかったようにカップを取り直し、紅茶を一口すすった。
「……演技、通ったかな?」
「完璧すぎてゾッとした」
リースが皮肉めいた笑みを浮かべる。
その横で、シエルはふわりと笑っていた。
「でも、言えたでしょ。“ママ”って」
リースが目を細めてにらむ。
「わざとでしょ、あれ」
「うん。わざと。だって、リセルにだけは負けたくなかった」
シエルの声はあくまで素直だった。
「“私のママ”を誰にするかは、私が決める。それが私の権利だよね?」
「……あっそ。生意気」
リースはそっぽを向きながら、ほんの少しだけ頬を膨らませた。
その横顔を、エリスが静かに見つめる。
目元に浮かんだ微笑は、ほんのわずかだが──確かに、温かかった。
この距離。
この時間。
この三人の関係。
ちぐはぐで、すこし不器用で、でも今だけは誰にも壊されない。
サロンの空気は、ジャズのリズムとともに、再び穏やかに流れはじめていた。




